第十四話 近衛士、全力で退却したい
ざわざわと、木の葉の擦れる音だけが響く。
静寂と闇に包まれた森の中の廃屋に、青年はポツリと佇んでいた。
頭まですっぽりと覆う外套をを被り、青年は人目から隠れるように崩れかけた壁に背を向けている。もちろん、こんなところにやってくるモノ好きなど滅多にいないのだが。
所在無さげに辺りを見回していた青年が、不意に動きを止めた。落ち葉を踏みつけてこちらへ向かってくる足音を聞きつけたのだ。
「シアン・バード様ですね」
若い女性の声だった。硬かった青年の体が、少しだけ柔らかくなる。
「まさか、女性の方が迎えに来てくれるとは思ってなかったな。貴方が、俺を呼び出した犯人さん?」
「いいえ。主人があなたをお呼びです。こちらへ」
女性の声はまるで機械のように淀みない。くるりと踵を返した人影に、シアンも無言で歩き出した。
片手で何かを弄ぶような動作をしながら、シアンは女性の向かっていく先を眺める。
(こっちはたしか、オブライエン伯爵家の……)
こっそり舌打ちをした。もう少し信用がないか、下級貴族であれば良かったのに。これじゃあ下手に騒ぎを起こすとこっちが捕まりかねない。
(一応、穏便に、と伝えておくか)
軽く指を動かしながら、シアンはもう一度行く手を仰ぐ。
「アリシアは、元気にしてるんだよな?」
「えぇ。私共は何の危害も加えておりません」
女性が屋敷の裏口らしき扉を開いた。
「どうぞ」
「どうも」
屋敷の中は薄暗かった。小さな窓から僅かに覗く月明かりと申し訳程度の蝋燭だけが、屋内を照らしている。
女性は再び歩き出した。人形のような女性に案内されて人気のない屋敷を歩くのは、けっこうなホラー。
シアンがそんなことを考えつつ歩いていると、突然、女性が立ち止まった。
「こちらでございます」
ぎぎぎ、と音を立てて扉が開かれる。シアンは部屋に一歩踏み込みながら視線を滑らせ――――固まった。
「お会いしとうございました、シアン様」
突然、金の巻き毛が美しい女性が抱きついてきたからだ。
勢いを殺すことなく、シアンの腹部めがけて飛んできた彼女は、そのまま腰に腕を回しシアンの胸に顔をうずめた。ぎゅっと抱きしめられ、やけに弾力のある二つの肉塊が腹部に押し付けられる。
「――――――っ!?」
シアンは一瞬で沸騰した。が、しかし。慌てて平常心平常心、と念仏のように心の中で唱える。平常心平常心。
「おじょーさん、そんなに抱きつかれちゃ、君の顔が見れないよ。ほら、落ち着いて?」
むしろ落ち着きたいのは自分なのだが、そんなことは欠片も顔に出さず、シアンはおずおずと女性の髪をなでた。
「シアン様、私のこと、覚えていらっしゃいますか?私です。ヴィオレット・オブライエンですわ。昔、バラを頂きましたでしょう?」
知らねー、とは言えなかった。シアンは愛想笑いを浮かべると、彼女の顔を覗き込む。
「そりゃ、覚えてるよ。君の愛らしい姿は今まで一時も忘れたことがない。お久しぶり」
「あぁ、シアン様……」
蝋燭の明かりに照らされて、ヴィオレットは恍惚とした表情を浮かべた。まるでどこかの恋物語のヒロインのように。
帰りたいなぁ、と喋り始めて一分も経たずにそう思った。全力で逃げたい。女の子口説くのはいい。可愛い女の子だし、結構役得、と思ってた。
でもこの陶酔しきった空気だけは我慢ならねぇ!!
(早くアリシア姫見つけてくださいよ先輩ッ!!)
妄信的な愛の視線を一身に喰らいながら、シアン――もといロイは、心の中で叫びをあげたのだった。
残念ながら呼び出しの時間までにたいした情報を手に入れることができなかった近衛隊は、ロイを囮に相手の本拠地を見つけることにした。
元は挙動不審の根暗男代表であった新米騎士ロイも、デューイの教育によりなぜか一日半で副隊長に大変身した。
かくしてロイ扮するシアン・バードは、呼び出しに応じて本拠地に向かいつつ仲間のために目印を残し、かつアリシア姫が見つかるまで犯人の相手をする、という役目を担っていた。
よく考えれば、親玉のど真ん前、一番トンズラしにくい役を押し付けられたような気がしなくもない。これで下手に捕まって『近衛士何してんだよ!!』という展開になったら素直に上司の命令だと言おう。短時間で立てられた作戦なせいでいろいろと穴だらけだ。
ロイが小さくため息をついた時、ヴィオレットがロイを見上げた。あまり凝視しないでいただきたい。できるだけ似せているとはいえ、所詮赤の他人なのである。この部屋が暗いのも幸いしている。
「シアン様、シアン様は、……あの女のことをどう思っていらっしゃるのですか?」
あの女、とはすなわち、アリシア姫を指すのだろう。返答に困っていると、ヴィオレットはなおも言葉を紡ぐ。
「姉上から聞きました。あの女は、自分の権力を振りかざし、姉上からアルバード様を取り上げたのだと。えぇ、あの女は悪女なのです。シアン様というものがありながら、ほかの男すら求める悪女。それなのに、なぜ貴方はあのような女を気にかけるのです?」
それについては俺からもぜひご本人に聞いてみたい。ロイは心の中でうんうんと頷いた。さすが副隊長、どんなに考えてもあなたの思考回路は意味不明です。
とはいえそんな返事をするわけにもいかず、言い淀む。というか待て待て。姉?もしや共犯がいる?というかむしろそっちが本元?
と、ロイが混乱し始めたとき。
「ほう。俺はいつから悪女に誑かされた悲劇のヒーローになったのだろうな。知っているか、我が妻よ」
「……知りません」
背後から、見知った声が聞こえた。
やっと主人公とヒーローが登場。
遅い。出番がかなり遅い。でも出番のなかった近衛士達を遊ばせることができて満足です。
多分そろそろ視点が戻ります。