第一話(宵闇が近づく夕刻)
※死の描写がありますが、あまりえげつない書き方はしていないと思います。
どうしてもアウトだと思ったなら、感想でお伝え下さい。
暦の上ではまだ夏は始まっていないが、午前は日差しが強かった五月三十日の今日。
現時刻は午後六時前。
太陽は未だ沈まずに地平線から顔を出しており、光が橙色に変わり始めていた。
千代は腕時計を確認しては、目の前の信号が青になるのを今か今かと待ちわびていた。
千代の住む学生寮では、寮長からの許可がないと外出が出来ない決まりになっている。
千代はきちんと許可を取っていたが、今日七時から見たいテレビ番組があることをすっかり忘れていたのだ。
焦りのせいで心臓がどくどくと脈打つのが分かったが、車が隙を見せずに次々と走り去る中を渡ることなど出来るはずもなかった。
そんな中、千代は歩道橋の向こう側に黒い猫を見つけた。ほっそりとしているが骨張ってはいない美しい猫だ。
猫は歩道橋を渡りたがっている様子で通る車を目で追っていた。
そんな猫に釣られて千代も左右を繰り返し見て確認すると、反対車線を通る車の波が止まった。
猫は数人の人が通っていくのを見てから同じように中間まで渡る。
千代は時間を気にして猫から目を離した。
―――その途端、トラックが飛び出して来た。
驚く暇もなく、トラックはスピードを出して猫に近づいていた。猫は反対側から車が走ってくるとは知らずに、呑気に欠伸をしている。
千代は飛び出した。
後ろから誰かの声がしたが、誰の声かは分からなかった。
千代は申し訳ないと思いながら猫を飛ばす。猫は吃驚していたがすぐに身を翻し、中間地点に着地した。
それを確認して千代が詰まらせた息を吐こうとすると、体の左半身に衝撃がきた。
体が飛んだ。どこまで飛ぶのだろうと思う程の飛躍感を感じた。そして、体が落ちた。
痛くはなかったが、体に力が入らない。無理に動かしてみたら視界が赤くなり始めた――その視界に猫が移る。
どうして助けたのだろう。スーパーマンにでもなったつもりだったのだろうか。
――ああ、でも。
生きてて良かったね、ねこ。
千代は心の中で猫に呼び掛けると、その黒猫がこちらをじっと見つめた。
その瞳が何色か分からないまま、世界が赤く霞んでいく。
千代は目を閉じた。
◇◇◇
きっと私は、見合いで結婚するんだと思った。
旦那さんの顔は平凡でもいいから、優しくて、気配りが上手で、私を大切にしてくれて、自分自身のことも大切にして―――そんな人に愛されて、私も愛して。
そんな幸せが欲しいなって思って。
そんな幸せがあるんだと思ってた。
どうして私、猫一匹のために人生を捨てちゃったんだろう。
私にとったら、猫一匹と私の人生なんて比べられない程かけ離れているのに。
馬鹿な私、どうしてこんなに清々しい思いをしているの。
死にたくない。まだやりたいことも沢山あるのに。今日の番組も見れてないのに――なのに、なんだか胸から重りが無くなったような気分だ。
このまま逝けたら、幸せなのだろうか。
このまま、先のこともや今のことを考えずに、ただこの暗闇に身を任せれば―――
―――いや、やっぱり死にたくないなぁ。
もうどうにもならないと分かってはいても、そう思わずにはいられなかった。
『なら、生かそう』
暗闇の中で男の声が聞いた。
真っ黒な何かが近づいてくる――千代にはそれが人だと分かった。
やがて、目と口元以外を隠した仮面を装着し、黒いマントに身を包んだ男が見えた。
まるでファントムみたいだと千代は思わず笑ったが、男はそんな千代に何の反応もしなかった。
男は続けた。
『きっと今まで通りの生き方を望んでいるだろうが、それはお前が死んだことによって叶わない。容姿や記憶などはそのままだが、お前の友も親も他人になり、違う場所で生き、違う生き方をすることになるだろう』
その言葉の意味を理解しても、千代の頭には“死にたくない”の一言しか浮かばなかった。
男は白い手袋を嵌めた手を千代に差し出してこう言った。
『それでも生きたいなら、俺の手を取れ』
千代は迷うことなく男の手を握った―――手袋越しに、男の体温を感じた気がした。
とても温かかった。
続く