天秤は歌わない
隣の席では、作業着姿のサイボーグたちが油のような匂いのするスープを啜っている。再生水で淹れた合成コーヒーも、いつだって泥と錆の味がする。
俺はプラスチックのカップを揺らしながら、向かいの席に座る男の義眼を値踏みした。拡大した瞳孔、小刻みに震える指先。典型的なジャンキーの震えだ。だが、この男が握っているのはスプーンではなく、この街を支配する産廃業者の裏帳簿だった。
「提示額の倍だ。それ以下なら、この話はなかったことにする」
男は言った。震える声で、必死で強がってみせる。
俺は深く背もたれに体重を預け、腕を組んだ。視線は男の手元、汚れた爪の先にあるSDカードに釘付けにする。
ここで安請け合いすれば、足元を見られる。だが、焦らせすぎれば暴発して、懐の樹脂銃を抜きかねない。俺は脳内でゆっくりと10秒数え、それからわざとらしく腕を解いた。
「残念だが、そのデータはもうゴミだ。ウェイスト・コーポは昨日、データのホワイトニングを済ませたらしいぞ」
こいつの着ているスーツは、リサイクル品の上等なやつだが、怯え方は三流のチンピラ以下だ。そう思っていたが、奴は自信のある笑みを浮かべた。
「データが使えるかどうかは問題じゃない。あいつらが血眼になって探してるこいつが本当っぽけりゃ、株価はガタ落ちだ」
なるほど、チンピラなりに考えていたらしい。とりあえずスキャナーをポケットから出して奴の前へ置く。男は訝しげな顔をしていたが、理解したのか大人しくSDカードを入れた。
「……裏帳簿?冗談だろ。これはただの音楽データだ。戦争前の流行歌、『ディーヴァ』の未発表音源だ」
「そ、そそんなはずない!取ってきたときゃクソみたいにプロテクトがかかってた!」
「暗号化レイヤーも見当たらん。骨董品屋にでも持ってけ」
男の義眼がキョロキョロ。考えてることはわかる。
嘘だ。そんなはずない。骨董品屋ならいくらで売れる?それで薬は買えるか?酒ならギリギリ買える?
爆弾の近くでコーヒーを飲む趣味はないので、俺は立ち上がった。
視線を奴に戻すと、砕け散った窓ガラスと共に、男の頭部が赤い霧になって弾けた。
店内が静かになる。誰も動かない。
窓の外にいるウェイスト・コーポ製のドローンが、カメラアイをゆっくりと俺へ向けた。
「仕事熱心なことだ」
俺は懐に手を滑り込ませた。指先がグリップに触れ、強く握り込む。キィン、という微かな高周波音。コンデンサが動いた合図。
ドローンが銃口を向けるより速く、俺はサーマルの引き金を引いた。
乾いた破裂音。撃ち出されたケースレス弾がドローンのカメラを粉砕し、そのまま内部回路を焼き切る。鉄塊は糸が切れたようにバランスを崩し、サイボーグたちのスープへ落下した。
俺は立ち上がり、パニックになる客に紛れて裏口へ向かう。もちろん、SDカード入りのスキャナーを回収するのを忘れずに。
ーーーーー
「お、仲介屋!うっかり潤滑油飲んじまったってぇ顔だな」
街外れのスナック、『らいと』へ行くと馴染みの顔がいくつか。適当に手を上げて、奥の事務所へ行く。この店のオーナーは事務所を好きに使わせてくれる。
事務所のコンピュータにSDカードを突っ込んで、解析してみた。スキャナーの解析じゃ無価値だったが、コーポが動いたなら何か出るだろうと思った。
数時間経った。コンピュータの悲鳴を眺めながらうつらうつらしていたが、ふと静かになった。
画面を覗くと、歌には耳じゃ聴こえん超高周波領域にノイズらしい線が蠢くように入っていた。
「電子透かしか……。歌姫はえぐいネタを、文字通りウタってたんだなぁ…」
こいつをテキストデータにするかどうか。それが問題だ。作りかけの爆弾に信管を刺すような真似はしたくない。
簡単な方法でいくことにした。
スマホを取り出して、コーポの代表番号へかける。
「はい、ウェイスト・コーポーー」
「定型文はいい。危機管理室に繋げ」
1コールで出た可愛らしい女の声を、俺は無慈悲に遮った。どうせAI音声だ。
「……部署番号をお間違えではありませんか?」
「間違ってない。『歌姫』のノイズについてクレームがあると言えばわかる」
一瞬の沈黙。次に聞こえてきたのは、先ほどまでの愛想の良さが完全に消えた、氷のような男の声だった。
「回線を暗号化した。どうぞ」
「逆探知ご苦労。だが、俺のところへ部隊を送るのはおすすめしない」
スナックの安っぽいソファに深く沈み込みながら、天井のシミを見上げた。
「俺が死ぬと、『歌姫』の曲は全世界の無料音楽サーバーへアップロードされる」
「…安い脅しだな。それに手が古い。そんなのはどうとでもできる」
「名曲だぞ?数百万ダウンロードはされるだろうな。世界中の端末が、最新曲を喜んで保存してくれる。あんたんとこの株が紙屑になるまでな」
電話の向こうからは呼吸音しか聞こえない。
俺はゆっくりと数を数え始めた。
「要求は」
カウントが俺の誕生日を過ぎる前に返答が来た。
ビジネスライクな「計算」の響きが混じる。ここからは俺の土俵だ。
「歌姫の未発表音源、その独占権を譲ってやる。金額は2億、ドル建てで」
「独占権?」
「データは俺が契約している外部サーバーにある。デッドマンスイッチが作動すれば、そこからバラ撒かれる仕組みだ」
俺は端末を操作し、認証コードを表示する。
「今から言うサーバーの管理者権限をあんたに譲る。データを吸い出すなり、曲を聴くなり好きにしろ。で、あんたがフォーマットすればいい」
沈黙が流れる。俺は畳み掛ける。
「俺が消したと言っても信じないだろう。だからあんたがやれ。そうすりゃコーポの日報には『脅威の完全排除』と書ける。上司への言い訳も立つ」
「お前がコピーを残していない保証は?」
「この状況でそんなん作るほど馬鹿じゃない。コピーがあればあんたらは死ぬまで殺しに来る。俺が欲しいのは『継続的な不労所得』じゃない。『美味いコーヒーを飲む人生』だ」
嘘は言ってない。これ以上、この懐メロに関わるのは御免だ。危ない女を抱いたまま死ぬ気はない。
「金はどこへ」
「旧市街のブックメーカー『ラッキーラット』の口座へ。IDは『歌姫』だ」
男が息を吸う音が聞こえたが、悪態をつかれる前に俺は電話を置いた。
俺は大きく息を吐いて、震える指先で煙草を取り出す。銃撃戦より、舌先三寸のほうがよほど寿命が縮む。
ーーーーー
店を出ると、湿った夜風と共に街頭ビジョンからあの『歌姫』の曲が流れていた。
どこか物悲しい、透き通るような声。
街ゆく人々は足を止め、その美しい調べに聴き入っている。
俺はふと、足を止めてビジョンを見上げた。そもそも、なぜ歌姫はこんな真似をした?悲劇のヒロインを気取った正義感か。それとも高級ホテルのシーツの上で、寝言を拾っちまったのか。
……考えるだけ無駄か。死人は語らない。ただ、歌うだけだ。
俺は耳に装着していた解析用イヤーモニターを指先で弾いた。スイッチが入ったままのモニターは、歌姫の高音パートに隠されたノイズを拾い続け、テキストとして俺の鼓膜に伝え続けている。
「いい曲だが、ノイズが多すぎる」
俺は独りごちて、モニターの電源を切った。プツッという音と共に、耳障りな雑音が消える。あとには、ただ美しいだけの嘘が夜の街に響いていた。
それでいい。真実なんてものは、金にならない上に耳に悪い。
俺は懐の温かい端末を叩き、路地裏のバーへ足を向ける。合成コーヒーはもうたくさんだ。今夜は本物の酒が飲める。




