メシア讃歌
<水曜日>
せわしなくキーボードを叩く音で、志音は目覚めた。
……あれ?……
彼の机に座って、アミカナがパソコンを操作していた。いつの間にか、日付が変わっていた。外では鳥のさえずりが聞こえている。部屋の床には毛布が敷かれていた。彼女はうちに泊まったのか……。
「起きた?」
彼には目を向けずに、彼女は聞く。
「……あ、ああ……」
「ごめんね。計算機、勝手に使ってる」
「別にいいよ」
答えてから、彼は内心首を傾げた。あれ、パスワード、どうしたのかな?……
「日曜日の、球体が現れた時の話……」
そこで、チラリと彼女は彼を見た。
「……辛いだろうけど、聞いて欲しいことがあるんだ……」
「何?」
ゆっくりと頷きながら、彼はベッドの上に身を起こした。
「……真時間に物体を転送するのは比較的簡単なの」
タイピングをやめたアミカナは、伸ばした右腕から人差し指を突き出すと、その先を見据えた。そもそも、時間転送できること自体、簡単とは思えなかったが、志音は黙っていた。
「時刻や場所を狙い撃つようにして、物体を転送できる。その時、転送元では重力振が発生する。それを分析すれば、いつ、どこに、どれだけの質量が転送されたかが推定できる。そして、転送先では……」
「……偽時間が流れ始める?」
志音が確認すると、彼女は頷いた。
「そう。私達ラキシス機関は、歴史改変阻止のため、その偽時間の中にエージェントをダイブさせる必要がある」
胸元に戻した彼女の指が、また回る。例え話のサインだ。志音は密かに微笑んだ。
「それは、嵐の中の船に、上空から降下用のロープを垂らすようなものだから、時空座標の決定には高度な技術が必要なの。それに、歴史改変のタイミングより前の時刻に転送しては意味がないから、どうしても余裕を持たせた転送になる」
そういうと、彼女は彼に向き直った。
「だから、あの球体が出現した直後の時刻・場所にはダイブできない。私がこの世界に着いて、あの場所に行くまでの間に、球体が何をしたのか、私には知る術がない」
思いつめた青い瞳で、彼女は彼の顔を見つめる。
「それを知っているのは、あなただけ。だから、あなたの助けが必要なの」
思わず、志音は身震いしそうになった。確かに、彼は変わらない日常からの跳躍を望んだ。そして、それはやって来た。だがどうだ。今、彼はかつてないほど巨大な非日常の嵐のど真ん中に着地しようとしている。こんな大それたことを望んだ訳ではない! ただ、ほんの少しだけ、違った風景が見たかっただけだ。何もかもが塗り換えられ、全く馴染みのなくなった世界に、彼の心は大きくよろめいていた。
……しかし……同じように日常の裂け目から現れた目の前の女性が、助けを求めている。今となっては、彼女こそが彼の心を正常に保つ唯一の拠り所なのだ。彼女の願いに応えなければ……。
志音はゆっくりと、しかししっかりと頷いた。安心したように彼女は微笑んだ。その微笑みは、彼の心にも安寧をもたらしていくように思えた。
少しだけ余韻を残してから、彼女は調査者の顔に戻った。
「……光、風、匂い……これらは、時間転送時の現象として記録されているわ。ただ……音……というか、むしろ歌、なのよね? そんな現象の記録はないのよ」
腕を組んで、天井を見上げる。
「そんなこと、ネットに書いてあるの?!」
彼は驚き、彼女は苦笑した。
「今調べてるのは別件よ。とにかく!……」
人差し指を鼻先に沿える。
「問題は、何を歌っているか、なのよね……」
眉根を寄せて黙り込む彼女のために、彼はもう一度、昨日の記憶にアクセスした。音だけに神経を集中させる。やがて、彼は歌い出した。
「……コル・ハティクヴァ・メハデヘド・ベラマー……」
彼女は目を見開いていた。
「待って! まさか、全部歌えるの?」
「ああ。意味は分からないけど、音は耳に残ってる」
「凄い……。ちょっと待って!」
そう言うと、一瞬、彼女は硬直した。目をそらしたかは微妙であったが、どこか遠くを見つめる目になっていた。やがて焦点が戻ると、彼女はゆっくりと呟いた。
「その歌、ヘブライ語よ」
* * *
『希望の声が高らかに鳴り響き
見よ、メシアは再び光と共にやって来る
神の御業から搾り取ってできた結晶の森を遍く砕き
群がる赤い一つ目のイナゴのはらわたを膠にして、メシアの歩く道を作ろう
……』
「取り敢えず、ここまでにしましょう」
頭痛と吐き気を催している志音の体調を気遣って、アミカナは声をかけた。
「……メシアか……」
志音はベッドへと倒れ込んだ。何度も強烈な記憶を呼び起こしたせいで、かつてない疲労感を感じていた。志音が思い出し、アミカナが翻訳したそれは、救世主の再来を讃える歌のようであった。
アミカナは、歌詞の日本語訳を記した紙の上にペンを置くと息をついた。歌の内容は一部分かったが、それが意味するところは謎のままであった。
「ある意味、犯行声明だとは思うけど……」
暫くして、彼女は言った。
「犯行声明?」
「メタクニームは、奴らの教義に基づいて行動している。闇に紛れてコソコソと悪事を働くような犯罪者じゃないの。むしろ、堂々とラキシス機関に戦いを挑んできているわ」
そこで、彼女は横たわる彼を見た。
「だから、この歌は、これから起こす歴史改変の暗喩だと思うのよね……」
……暗喩……
天井を見つめながら、志音は考えを巡らせた。
メシア――救世主を、科学的に作り出すには、どうしたらいい?……
「……例えばさ、君のような未来人を原始時代に送って、そこで未来の科学技術を見せつけたら……例えば、アトロポスで大岩を消し去ったりしたら、過去の人達は、君を神だとか、救世主だとか思うかも知れないよね?」
呟くように彼は言った。
「わかるけど、それは無理ね」
彼女は椅子に寄りかかる。
「未来人も未来から転送された物体だから、時間が彼を迂回し切ると、彼は光となって消えてしまう。彼が過去で過ごせる時間は……まあ、せいぜい5分くらいよ」
驚いて彼は身を起こした。
「そんなに短いんだ!」
彼女は肩をすくめた。
「質量が小さいからね。あの球体なら、一週間くらいは持つだろうけど」
「?」
志音は混乱した。アミカナと出会ってから、既に三日が経っている。
「君も未来から転送された物体だよね? じゃあ、どうしてこうやって存在していられるの?」
微笑んだ彼女は、椅子の背から身を起こした。
「今、私達は偽時間の中にいるって言ったわよね?」
彼は頷いた。
「真時間は、あの球体が大皿となって堰き止めている。私は、その堰き止められた偽時間の中に落とされた……ええと……お猪口のようなものなの」
彼女は、両方の手のひらを水平にして重ねてみせた。
「スリップ・ストリームだったっけ? 時間の流れる勢いに晒されているのは球体の方。私はその陰に隠れていられる。だから大丈夫なの」
下になった右手をひらひらと揺らす。
「ダイブに高度な技術が必要なのはそのためよ。球体出現より前に落とされると、エージェント自身が時間の流れに晒されてしまう。そうなると、10分で消滅してしまうわ」
右手を左手の上に出すと、破裂するように右手だけを上に向けて開いた。
意味を理解して、彼はため息をついた。天井に視線を戻す。
「そうなんだ……もしかしたら、過去の聖人なんかも、実は未来から送られた人だったりして、と思ったんだけど……」
彼女も虚空を見る。
「そうね……存在した記録はあるけど、実物は既に存在していないようなものなら、可能性はあるかも……」
……待てよ……
志音は眉をひそめた。
彼女は大皿の下に隠れている。大皿が消滅するまでは、彼女は時間の流れには晒されない……
勢いよく、彼は彼女を見た。
「でもさ、君と同じように、偽時間の中にダイブさせたら、一週間は存在できるってことだよね? その間に、奇跡の御業を示せば!」
核心を付いたような気がしたが、アミカナの反応は鈍かった。
「うーん……」
腕を組むと、ちらりと彼を見る。
「言ってなかったけど、時間転送には重要な原則があるの……」
彼女は、言うべきかどうか思案しているようであった。やがて意を決して、しっかりと彼を見据える。
「時間転送で、生物を生きたまま送ることはできない」
「……え?……」
「物体としては届く。でも、必ず命は失われる。だから、未来から救世主を送り込むことはできない」
「え?……でも、じゃあ君は?……」
慌てて聞くと、彼女は微笑んだ。
「私は大丈夫! ラキシス機関には、その原則を克服できるような技術があるから。でも、奴らは持っていない」
そこで彼女は頭の後ろに手を組むと、深く椅子に寄りかかった。
「……そのはず、なんだけど……」
急に自信がなくなったように、彼女は呟いた。
その時、妙な軋みと共にパイプがひしゃげて、椅子の背が後ろに倒れ込んだ。
「キャッ?!」
反応が間に合わず、すらりとした脚を二本とも天井に投げ出して、彼女は後頭部を床に打ち付けた。追いかけるように、椅子の下部が彼女の上に倒れ込む。
「大丈夫?!」
慌てて志音が駆け寄る。彼女は頭を抱えていた。
「痛ったぁ……」
彼は手を差し出した。彼女が握ったことを確認して引き起こす。彼女の体勢が悪かったのか、渾身の力が必要だった。
「ごめん! その椅子中古でさ。あんまり丈夫じゃないんだ。頭打った?」
触れるか触れないかの位置で、彼は彼女の頭に手をかざした。
「大丈夫!大丈夫!」
ぎこちない笑顔を作りながら、目を合わせずに彼女は乱れた髪を直した。羞恥のあまり指先が震え、視線が泳いでいる。白い頬がピンク色に染まっているようであった。
「……カッコわる……」
そう呟くと、彼女は急いで背を向けた。
「ちょっとトイレ!」
彼女が廊下へと消えると、志音はミュートにしていたテレビの音量を一気に上げた。ニュースは、明日、陸軍が球体への直接接触を行うことを告げていた。ふと、彼は自分の手を見た。
……まさかね……




