彼が日曜日に見たもの
謎の球体が、一般市民――正確には、目標はアミカナ一人であったが――に攻撃を加えたということで、球体の監視は警察から軍へと移ることになった。そのことで、陸軍報道官が記者達の質問に答えている臨時ニュースを、二人は志音のアパートのベッドに腰かけて見ていた。
彼の家に着いてから、二人はボロボロの服を着替えた。アミカナは、志音のTシャツとジーンズを借りることになった。散らかり放題の部屋の様子を彼は詫びたが、アミカナは、微かに微笑んだだけだった。今朝出かける時と全く変わらない部屋を眺めると、さっきまでのことが全て夢だったのでは、と思えてくる。しかし、テレビは冷酷な現実を繰り返し伝えていた。
先刻から、彼女はずっと黙っていた。現時点での死傷者の数が告げられると、苦しそうに目を伏せる。重苦しい沈黙についに耐えられなくなり、努めて明るい声で、志音は聞いた。
「あの……あのさ……。もし、歴史改変が成功してしまったら、未来の人はどうなるの?」
「……どうなるって?」
「つまり、例えば、歴史改変である事件が起きなくなったら、未来の人の、その事件が起きたという記憶はどうなるの?」
「ああ……それね……」
彼女は困ったように眉根を寄せた。人差し指が円を描く。
「歴史改変は……世界が丸ごと電車を乗り換えるって感じかな?」
志音は眉を顰める。
「電車を乗り換える?」
「そう。世界中の人の……そうね、意識だけが、ある電車からある電車へと乗り換える。そうすると、電車の内装が変わるでしょう? それが新しい世界であり、新しい記憶でもある」
「どういうこと?」
自分でもいい例えではないと悟ったのか、彼女は苦笑した。
「う~ん、これは例えるのが難しいんだけど、さっきの話だと、ある事件が起きたという記憶は、全員の頭から消え失せるわ。初めからなかったことになる」
「え? でも、さっきまでは覚えていたのに、一瞬で全員忘れるの?」
「そう言えないこともないけど……歴史改変の時点から世界はやり直されているのだから、その事件が起きたという記録も記憶も、初めからないのよ」
それ以上は聞かないで、という風に彼女は肩をすくめた。
「でも……じゃあ、歴史が改変されてもされなくても、それを知る術がない気がするけど……」
「さすが理系学生。考えることが論理的ね」
茶化すように言うと、彼女はテレビに目を戻す。
「そう。でも、電車を乗り換える時に、世界に痕跡が残るらしいわ。だから、改変が起きたことだけは感知できる」
「痕跡?」
「私は時空物理学者じゃないから、詳しいことは分からないけど、特殊な計測器を使えば、分かるそうよ」
そう言うと、彼女は志音へと向き直った。
「この世界は、もう何度も電車を乗り換えている。メタクニームに汚染されているの。これ以上の歴史改変は、何が何でも阻止しないと……」
それまで見せなかった、重大な使命を帯びた真剣な彼女の瞳に、志音は言葉を失った。
……それが……真実なのか……
我に返って、彼は目を逸らした。
「……僕が気になっているのは、メタクニームの歴史改変が成功して、もし、ラキシス機関そのものが無くなってしまったら、君は一体どこに帰るのかってことさ」
ハッとした彼女は、志音の顔をじっと見つめた。
「ありがとう。心配してくれて」
そういって微笑む。
「そうならないように、精一杯頑張るわ」
初めて会った時とはまるで違う、悲しみを帯びた笑顔に、志音は何かが胸につかえたようになった。海の表面を塞ぐ氷の層に息継ぎ穴を探すように、必死に話題を探す。
「そうだ! 一昨日のこと、聞きたかったんだったよね?」
「そうだった。聞かせて」
彼女の興味を引き出すことに成功して、彼は密かに安堵の息をついた。
そして、彼は話し始めた……。
* * *
<二日過去、日曜日>
志音は飲み会が好きではなかった。それは、自分が下戸であるというよりも、泥酔した人間なら、自ら話したことでさえ忘れてしまうのに、彼には忘れられなかったからだ。飲み会は本音が顔を出す場。もっと言えば、悪意が剥き出しになる場だった。人間には本音と建前がある。それは分かっているつもりだが、人の悪口を聞き続けていると、まるでそれが自分で言ったかのように思い出され、自分自身が汚れていく気がした。その日の夜も、居酒屋の一角で、他の客にも聞こえるような大声で、教授の悪口で盛り上がる研究室の学生達に馴染むことができなかった。早々に退散したかったが、先輩に絡まれて、結局深夜まで苦い時間を過ごした。
家への帰り道、ため息をつく。
……全てはこのままなのだろうか……
彼らにうんざりしている訳ではない。彼らを受け入れられない自分にうんざりした。苦手なもの・ことを自覚する度に、どこか、どんどん袋小路に入っていく感覚があった。何も変わらない、窮屈な蛸壺の中へと、ただただ追い込まれている感じがした。もう、羽ばたくことはできないのか? もう一度、こことは違う別世界に、一気に跳躍することはできないのだろうか?
心の中に沈み込み過ぎて、注意が疎かになった彼は、縁石に躓き、植え込みの中へと派手に倒れ込んだ。
……クソ!……これだ……いつもこれだ!……
肉体的な痛みと、顔を焼くような羞恥、そして何より、自分自身の不運への憎しみが膨れ上がった。
その時だった。
植え込みの中で、何かが音を立てていた。
「……北緯XX度XX分XX秒、東経XX度XX分XX秒……」
それは、緯度・経度を繰り返し読み上げている。その数値に、彼は覚えがあった。近所の公園に、同じ緯度・経度を刻んだ石碑があったはず……。
……一体、何が話しているんだ?……
彼は、茂みの中で喚いているそれを拾うと、立ち上がった。
掌に乗るような、黒いドーナツ状の物体であった。しかし、明らかにドーナツではない。その表面には、奇怪な赤い九つの目が彫り込まれていた。見開かれた瞳は、それぞれが出鱈目な方向を向いている。
……気持ちわる……
彼がそれを植え込みに戻そうとした時だった。不意に詠唱がやみ……光がさく裂した。突然の出来事に目をつぶることができず、視界は白い光の残像で埋め尽くされた。爆発したのかと思ったが、持っていた手に熱さはなかった。
やがて、漸く視界が戻ると、ドーナツの姿はなかった。落としたかと思って、植え込みをくまなく探したが、何も見つけることはできなかった。
……酔って、ないよな?……
視野の隅には、まだ細かい光が乱舞している。確かに光はあった。ドーナツもあったはず!……
そして……彼は歩き出した。その公園に向かって……
普段なら、そんなに行動的にはならなかったかも知れない。だが、彼には跳躍が欲しかった。何も変わらない、むしろ狭まり、固着していく現実を、打ち砕く何かが欲しかった。それは、地獄に下りてきた蜘蛛の糸のように思えた。
* * *
深夜の公園に人影はなかった。風が強めに拭いて、木々や草原を揺らしている。恐らく、雨が近い。彼は石碑のところまで来ると、数値を確認した。
「……やっぱり同じだ……」
先程のドーナツが知らせていた座標は、石碑に刻まれていたものだった。
「……ここで、何かが起こるのか?……」
それは、疑問というよりは、祈りだった。何かが起きて欲しい。それが、僕を変えて欲しい。
ふいに風が止み、辺りは静寂に包まれた。
いや……無音なのに、高音の何かが響いているようだった。それは次第に大きくなり、彼は思わず耳を塞いだ。だが、高周波のノイズは、頭の中で響いているかのようであった。そして――
先程のドーナツの光が、線香花火の小さい火花に思えるような、凄まじい閃光が閃いた。公園全体が光ったようであった。白以外の全ての色が消え失せ、輪郭までもがなくなった。瞼など役に立つはずもなく、眼底どころか、脳髄まで焼かれるようであった。ついで、凄まじい風圧が襲った。あっけなく、彼は吹き飛ばされた。白い世界の中を何度も転がる。そして、プールの消毒液のような異臭が鼻に突き刺さった。
その時――
何もない白い世界に、球体が膨れ上がるのを見た。見た――という表現は正しくないかも知れない。ホワイトアウトした視界に、それがとてつもない大きさへと沸き上がるのを感じた。そして、轟音が耳をつんざく。爆発音ではない。何万人もの人々が一斉に声を上げた感じだった。幾重にも重なった声のようなものが耳の中をビリビリと振動させる。
……歌?……
詞もメロディーもある――ような気がした。繰り返し繰り返し押し寄せる音の波は、脳を激しく揺さぶった。余りに強烈な刺激に、彼は意識を失った……
どれ位の時間が経ったのか、彼は顔を激しく打つ雨に気付いた。草むらの中に倒れていた彼は、既にずぶ濡れだった。何度も転がったせいで、全身が痺れていた。ゆっくりと顔を上げる。辺りは闇に閉ざされていた。雨音だけが聞こえる。
やがてゆっくりと立ち上がると、彼は公園を後にした。何の思考も湧かなかった。ただ、帰りたいと思った。一度公園を振り返る。そこには、降りしきる雨の中、そびえる様な巨大な球体が姿を現していた。彼はそれを目にしたが、そのまま公園を立ち去った……
* * *
<再び火曜日>
一昨日の出来事の一部始終を話し終わると、あまりにも鮮明なフラッシュバックに襲われ、志音は口元を押さえた。こみ上げる吐き気で不規則に震える彼の背中を、アミカナは優しくさする。
「ごめんね、嫌なことを思い出せて……」
ようやく落ち着くと、志音はどこを見るとでもなく呟いた。
「……あの時、バチが当たったと思った……」
「バチ?」
「……身の程も弁えずに、天国を夢見て蜘蛛の糸に飛びついたバチさ……。見事に糸は切れて、こっぴどく地面に転がった。……僕には、夢を見る資格さえないってことさ……」
そう言って、彼は頭を掻きむしった。
「……そんなことない。誰にでも、夢を見る資格はある……」
アミカナが宥めると、彼は勢いよく顔を上げて彼女を見た。
「でも叶わない! だから苦しむ!」
驚いた彼女は、それでも何かを言おうと口を開いたが、結局言葉にすることはできず、俯いた。
「……なら、何故夢はあるんだ。夢なんてなければ、つまらない現実に不満を持つことだってないのに……」
最後の方はうめくように彼は言った。急に息苦しさが募り、肩で空気を貪る。
「落ち着いて……」
彼女は彼の両肩を取ると、正面から見据えた。
「……少し寝た方がいいわ……」
そう言うと、桜色の唇を微かにすぼめて、ゆっくりと志音に息を吹きかける。何とも言えない甘い香りが漂った。途端に、ベッドの底が抜けたような錯覚を感じながら、彼の意識は遠のいた……




