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メタクニームの球体

挿絵(By みてみん)


「特に動きはないみたいね……」

 街を見渡せる百貨店の屋上から、銀色の球体を見つめて、彼女は呟いた。

「奴らが転送させる物体の座標を事前に知らせるなんて、今までの報告にはないわ……」

 そう言うと、彼女は巨大なパンダのゴーカートに腰を下ろした。

「まずはスローンを過去に送り、後に転送させる球体の座標を喚かせる」

 目を伏せ、煤けたゴーカードの毛並みを確かめるようになでる。

「この作戦の目的は一つしかない」

 顔を上げると、彼女は志音を見た。

「その座標を聞いた人間を、球体の下に導くためよ。きっと、複数のスローンをばら撒いたはず。たまたまその一つを、あなたが見つけた」

 瞳の力に気圧されて、志音はたじろいだ。

「でも、球体の出現に立ち会わせて、一体何をしようというのかしら……」

 再び俯いて、彼女は口をつぐんだ。

 志音は、小銭が切れて見れなくなった据え付けの双眼鏡から離れて、ゴーカートに座る彼女に近づいた。

「ねえ、メタクニームってどんな組織なの?」

 志音が尋ねると、アミカナは少し目を見開いて彼の顔を見た。

「……本当に、すぐ覚えるのね。ありふれた言葉じゃないのに……」

 気を取り直して、彼女は球体に目を戻す。

「メタクニームは、『正す者たち』という意味のヘブライ語よ。時間転送装置が発明された時、奴らはそれを神の思し召しだと言い出した。堕落した今の世界をやり直すために神が遣わした……言わば神器よ。そして、時間転送装置を強奪し、奴らの基準で、やり直すべき時点に物体を転送しては、様々な歴史改変を画策している。世界を支配したいとか、大金持ちになりたいとか、そういう分かりやすい意図じゃないから、余計に厄介なのよ」

 苦々しそうに彼女は言った。

「……で、それを、君達ラキシス機関が防いでいる……」

 彼が確認すると、彼女は頷いた。不意に立ち上がり、虚空を見上げる。

「世界は、あらゆる人々の日々の選択の膨大な積み重ね、無限に存在する波動関数の収束の連続で構成されており、どの選択も等しく尊重されるべきものである。時間転送による歴史改変は、それがどれほど些細なものであっても、選択を侵害するものであり、今ある世界に脅威を与えるものである。ラキシスとは、人々の運命を決定する古代神話の女神であるが、我々の運命は神によって定められているのではなく、我々個人の選択の繰り返しによって綾なされていく。つまり、ラキシスとは我々が選択する権利の象徴なのである。我々は、ここに、個人の権利を侵害する如何なる歴史改変も断固として阻止するため、ラキシス機関を創設する。」

 空中の文章を読み上げるかのように滔々と話すと、彼女は彼を見た。

「ラキシス憲章の前文よ」

 フェンスへと近づく。

「二度とないからこそ、選択は尊いの。迷っても、後悔してもいいけど、何度もやり直せるのなら、選択する意味はないわ。いえ、何かを選択しようとする意志に意味はない……」

 そう呟くと、彼女は沈黙した。

 ……そうなのか?……

 志音の中に、拒絶する部分があった。

 僕だって、全力で選択してきたつもりだ。でも、ある日悪魔がやってきて、過去のどの時点からでもやり直せると告げられたら、僕は迷わずその話に乗る。選択が誤りなら、正したい。それは、人間の本能じゃないか……

<彼女の言ってることは、綺麗事だ>

 そんな黒い感情が頭をもたげてきて、彼は激しく首を振った。その様子に、彼女は気付いていないはずだった。

 過去の嫌な記憶が蘇る前に、志音は話題を変えようと試みた。

「……ねえ、あの球体は、さっきの話の、いわば皿だよね? あんな大皿を打ち砕くことはできるの?」

 彼が聞くと、彼女は振り返り、自信たっぷりに微笑んだ。

「もちろん!」

 そう言うと、スカートの腰の辺りに手を突っ込んで、彼が昨日目にした黒い銃のようなものを取り出す。

「『アトロポス』よ。これを撃ち込めば、あれを余剰次元に吹き飛ばして、素粒子まで分解できる。崩壊によるエネルギーは、発散している波動関数を収束させて、元の世界線が焦点を結ぶ」

「こんな小さなもので?……」

 恐る恐る、志音はアトロポスという名の銃に顔を近づけた。彼女がスイッチのようなものを入れると、回転するような、振動するような重低音がそれから響き出し、志音は思わず身を引いた。

「知ってる? 実はこれ、日本製よ。他にも……!」

 言いかけて、彼女は沈黙した。

「……まあいいわ。とにかく、あなた、誇りに思っていいわよ」

 彼女はスイッチを切ると、話題を変えるための息を短くついた。

「あなたは、あの球体が出現する場に居合わせたんでしょ? その時何か変わったこと……いえ、全てが変わったことだとは思うけど、その時のことを聞かせてくれない?」

「ああ……」

 彼女の瞳の真剣さに、彼は、一昨日の記憶を紐解くことを決意した。

「まず……」

 彼が虚空を見上げながら、全ての始まりを思い返そうとした時、変化に気付いた。

 銀色の球体の最上部から、複数の物体が飛び出したのだ。ドローンのようにふわふわと空中を漂う胡麻粒のような物体は、やがて輪郭が鮮明になる。

「アミカナ?!」

 志音は慌てて彼女の背後を指さした。

「動いた?!」

 振り返った彼女は、反射的に銃を構える。ドローンのような物体は、明らかにこちらに向かって飛んで来ていた。

「……なんか、ヤバい……」

 後ずさりながら志音が言うと、アミカナは不敵に微笑んだ。

「……なるほど、分かったわ。これが『ヤバい』ってやつね」

 接近してきたドローンのような物体は、銀色の碁石のような扁平な形で、どうやって飛んでいるのか、プロペラは付いていなかった。各ドローンの最下部から何かがせり出すのを確認すると、アミカナはドローン群の中心に狙いを定めた。起動したアトロポスが低音の唸りを上げる。志音は思わず彼女の背中に隠れた。唸りの周波数が高まる――

 パスッ、という拍子抜けするような発射音の直後、空中に凄まじい緑色の閃光が花開いた。いや、緑色の渦と言った方が正しいかも知れない。音はなかった――なかった気がした。渦は、ドローンの群れを巻き込みながら激しく回転すると、急に一点に収束した。日が陰ったように周囲が暗くなる。そして――

耳をつんざくような轟音が響いた。爆発――のはずだったが、渦の消えた一点に、むしろ空気が吸い込まれるようであった。耳を押さえた志音は、空気の流れによろめいて、アミカナの背中へとしがみついた。肩越しに彼女は何かを叫んだが、聞き取ることはできなかった。そして、光の渦と同じように、轟音も忽然と消え去った。風だけが、取り残されたように二人の周りで旋回を続けている。

 ……一体、何なんだ?!……

 ……彼女の言ってることは……本当なのか?!……

「撃ち漏らした!」

 耳鳴りの中、彼女の緊迫した声が届く。見上げると、残った一機のドローンの最下部から、何かが発射されようとしていた。

「逃げるわよ!」

 彼女の叫ぶような声が、屋上での最後の記憶だった。その後は、閃光と轟音、埃と煤と煙を孕んだ風の嵐に、木の葉のようにただひたすら翻弄されていた。自分を抱えるアミカナの腕と、頬を乱れ打つ彼女のリボンタイの感触だけが、突如現れた、あり得ない現実の裂け目に飲み込まれそうな彼が抗う、かすかな拠り所だった……


* * *


「……大丈夫?……」

 彼女に言われて、彼は我に返った。交差点の角にあるコンビニの外壁に寄りかかって、彼は座り込んでいた。

 ……なんだ?……さっきのは……

 ふと顔を上げると、500メートルほど先に、先刻まで屋上にいた百貨店が、半壊して黒い煙を上げているのが見えた。周囲は交通規制がされているようで、車は動いておらず、パトカーに救急車、消防車のサイレンが鳴り響いている。歩道や車道には、百貨店周辺から逃げ出したと思われる人々が、立ち尽くしたり、うずくまったり、倒れ込んだりしていた。

 ……あれは、現実だったのか?……

 一体、どうやって無事にここまで逃げてきたのだろうか? 彼は、思わずすがるように彼女を見つめた。昨日買ったばかりの彼女のブラウスとスカートはあちこちが裂け、埃と煤にまみれていた。艶やかな黒髪も、灰の手で搔き乱されたようになっている。恐らくは、志音も同じようになっていることだろう。

 思いつめた表情で、彼女は口を開いた。

「……自動攻撃機よ。恐らく、起動したアトロポスに反応したんだわ。そして、球体から一定距離離れると、攻撃をやめた……」

 そこまで言って、彼女は悔しそうに唇を嚙み締めた。

「ごめんなさい、迂闊だったわ」

 救急車が目の前に到着して、中から複数の隊員が飛び出して来た。怪我人はいないかと周囲に叫ぶ。

「……行きましょう」

 彼女はそっと彼の腕を引いた。

「オフィシャルな機関に正体がばれると厄介だから……」

 彼はゆっくりと頷いて立ち上がった。その時だった。頭上に爆音が響いて、戦闘ヘリが球体へと飛んでいくのが見えた。

「……軍が動き出した……」

 志音は呟いた。

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