僕が僕であること
その時だった。
空気が唸った。閃くように飛来した三本の針が、彼女に深々と突き刺さった。勢いで、彼女は瓦礫の中に吹き飛ばされた。手足が意志を失ったように曲がりくねりながら、彼女は何度も転がった。
「アミ?!」
倒れた彼女は動かなかった。砂煙が上がり、体からは激しく火花が散っている。
<……ラキシス機関はしつこいね……>
彼女に駆け寄ろうとした志音の背後から声が響き、彼は立ち竦んだ。
それは、彼が長年聞いてきた声だった。
四分の一が欠け、内部の様々な装置が剥き出しになった球体から、一人の青年が、数機の蜘蛛を侍らせながら、ゆっくりと歩み出てきた。不規則に点滅する照明や、飛び散る火花を背景に、まるで階段を下りるように、破壊された装置類を一つまた一つと踏み付けて、やがて地面へと降り立つ。
それは彼自身――シオンだった。
見慣れない白装束をまとった彼は、少しやつれているように見えたが、自信に満ちた顔をしていた。胸には、黒い車輪に九つの赤い目がついたスローンの文様が刻まれている。どこを向いているのか分からない九つの視線は狂気を感じさせた。
メシアとなったシオンは、口を開いた球体――神の子宮の中から、悠然と姿を現していた。
<やあ、志音。まさか君が戻って来るとはね。体の調子はどうだい? そいつは、メタクニームがアンドロイド・メーカーから強奪した最新型らしいけど>
ゆっくりと志音に近づく。
<僕の方は、この一週間、この球体の中で過ごして、数百年分の歴史と科学技術を記憶させてもらった>
「数百年?!……あり得ない!」
<僕は覚えるのが得意なことを、君も知っているだろう?>
……何てことだ。彼は、メシアの依り代としてうってつけの特性を持っている……
シオンは遠くを見つめた。
<この数百年分の知識を使って、世界を、過ちのない、よりよい方向へと進ませる>
「そんなこと、できるものか!」
<できるさ。一人でこの球体を破壊した者として、誰もが話を聞く>
シオンは志音に顔を向けた。
<いいかい。無知者に選択させることほど愚かなことはない。彼らは往々にして間違いを選択する。ましてや、多数決システムなど愚の骨頂だ。継続された意志などなく、世界は右に左にとあてどなく漂流することになる。それがこれまでの歴史だ。世界を正しい方向に導くためには、知者による、継続した、単独の意志が必要だ。誰も間違った選択などしたくはないだろう。だから迷う。それなら、選択する必要はない。答えは知者が用意してやる。無知者はただ従えばいい。それによって、千年王国は実現できる>
「それは独裁だ! そんな国家が千年も続いた試しはない!」
<それは独裁者が無知だからだ。僕はこれから起きる数百年分の出来事を知っている。僕になら可能だ>
志音は歯ぎしりした。
「……大体、君は千年も生きられない!」
シオンは余裕の笑みを浮かべた。
<不滅の肉体なら君が持っている>
志音はハッとした。
<残念ながら、君は消え去る運命だが、君の体にまつわる基本的なデータは僕の頭の中にある。まあ、少し時間はかかるだろうが、ロボット好きのこの国ならいずれ実現できるだろう。この生身の肉体が朽ちる前に>
……タロスの如き器とは、そういうことか!……
「……何と言おうが、歴史改変は認められない。それは個人の選択を無視する行為だ!」
志音の言葉に、シオンは肩をすくめた。
<ラキシス機関のようなことを言うんだな。君だって、変えられるものなら、過去を変えたいと思っていたんじゃないのかい?>
「……」
志音は言葉に詰まった。
<僕は……いや、君は、世界を回す何者かになりたかったんだろう? それを、僕は幸運にもこうして手に入れることができた。君の望んだ通りじゃないか。後は、安心して消滅してくれ>
「違う! 僕はそんなことを望んだんじゃない! 僕は!……」
<覚悟もないくせに、安易に大それた者になりたいなんて願うな!>
急にシオンは怒鳴った。
<あれも嫌、これも嫌、あれでもない、これでもない……そして、歴史改変は認められない、と来た。君は否定ばかりだ。それ自体、安易なんだよ。否定するだけなら、誰にでもできる。君の肯定したいものは何なんだ? 何になりたくて、そのために何を捨てる覚悟があるんだ? 聞かせてくれよ>
シオンは、さあとばかりに手を差し伸べる。沈黙があった。
「……少なくとも……僕は君のようにはなりたくない……」
志音の答えに、シオンはあからさまな侮蔑を浮かべた。
<また否定だ>
嘲笑うシオンに向かって、志音はアトロポスを構えた。蜘蛛が反応し、シオンは大袈裟に驚いた身振りをした。
<僕を撃つのか? 僕は君のオリジナルだぞ。僕が死ねば、『しおん』という存在は永遠に失われる>
「……君は、僕じゃない……」
アトロポスの銃身が微かに震えていたが、それでも志音は言った。
<また否定。否定ばっかりだ>
シオンはいらついた声を上げた。
「……」
<君がなりたかった者に僕はなったのに、なぜ自分自身を否定する>
「……」
<言えよ! 君は一体何になりたいのかを!>
シオンは絶叫した。しかし、志音は怯まなかった。
「僕は……僕だ!」
銃声が響いた。
シオンは体勢を崩したが、倒れることはなかった。胸のスローンの文様の上には、確かに銃痕が残っていた。
<……『僕は僕だ』か……。全く君らしい。何も定義していない。日曜の晩の課題と一緒だ……>
余裕の笑みを浮かべたシオンは、銃痕に指を突っ込むと、弾丸を取り出し、それを足元に投げ捨てた。
「……防弾チョッキ?……」
<違う>
勝ち誇ったように笑う。
<僕が、球体の中でただ知識を得ただけだと思っているのかい? 僕は究極の肉体も手に入れたんだ。メシアに相応しい肉体をね>
そう言った彼の体が、膨らんでいくように見えた。全身の筋肉が盛り上がり、白装束がはち切れんばかりに引き伸ばされる。
シオンの姿が消えた――と思った瞬間、激しい衝撃が襲った。腹部を殴られて、志音は吹き飛ばされた。地面に転がる。
……息ができない! 機械の体に呼吸など必要ないはずなのに、窒息の苦しさがあった。激しく咳き込んだ志音が口から吐き出したのは、黒いオイルと金属片であった。
<ほら、生身の体で、君の体を破壊することもできる>
誇らしく拳をかざすシオンを、志音は地面に這いつくばったまま、絶望の表情で見上げていた。
……ダメだ……僕じゃ全く太刀打ちできない……
[本当にそうなのか?]
志音の中の一部が囁いた。
[あれも、君じゃないのか?]
……彼が……僕?……
口からオイルを滴らせながら、志音はゆっくりと立ち上がった。シオンを見つめる。
「……僕は……いや、君は、そんな大それた者になりたいんじゃない……」
<何?>
シオンは眉をひそめた。
「ただ、今まで、君の横で跳躍し、何かを手に入れることで、君に、羨望や、嫉妬や、自己嫌悪を与えた人達を見返したいだけだ……」
<何を言っている?>
志音は叫んだ。
「じゃあ、君の目指す理想の世界とは何だ? 定義してみろ! 君の言葉で!」
<……>
怯んだ表情を見せたシオンは口を噤んだ。顔を伏せた志音は呟いた。
「……覚えるだけじゃダメだ……理解しないと……」
再び顔を上げた志音は、憐れむようにシオンに微笑みかける。
「……精神までは強化されていないんだろ? メシアなんて存在の重圧に、君は千年も耐えられない!」
そして睨んだ。
「僕は分かってる! それも僕なんだ!」
<黙れ!>
狼狽するシオンの一撃をもう一度その身に受けて、志音はアミカナのそばまで飛ばされた。再び激しい咳と嘔吐が彼を襲う。しかし、かろうじてアトロポスは放していなかった。歩み寄るシオンの前で、志音は再び立ち上がった。足元がふらつく。
<……おや、君の相棒は、まだ動けるようだね>
余裕を取り戻したシオンに促されて、志音は振り返った。
ゆっくりと、本当にゆっくりと彼女は起き上がった。相変わらず、体から火花が飛んでいる。
「アミ?!」
しかし、志音の声が届いていないのか、彼女は明後日の方向を向いたままだった。ぼんやりとした瞳で、彼女は何かを呟いていた。
「……ハアム・シェエイノ・ミシュタハヴェ……」
メロディに乗せて、何度も同じフレーズを繰り返す。
シオンは苦笑した。
<まあ、量子頭脳は機能不全を起こしているようだけどね>
志音は眉を顰めた。
……ヘブライ語……このフレーズは!……
不意に、志音は身をかがめた。その陰から、蜘蛛の針を握りしめたアミカナが猛然と飛び掛かっていた。シオンの心臓へとそれを突き立てる。彼女は叫んだ。
「『<ひれ伏さぬ民>は等しくアラクネの牙の露と消えるであろう』……不勉強ね! あなたを讃える歌なのに!」
突然の攻撃にシオンは顔を歪めたが、唇の端を吊り上げる。
<こんなものが僕に効くか!>
「ならこれはどう?」
彼女は、シオンに口づけした。直接息を吹き込む。それは、最高濃度の麻酔ガスだった。彼は慌てて彼女の顎を掴み、引き離した。しかし、彼は『魅惑の吐息』を十分に吸い込んでいた。足元をふらつかせる。だが、やはり倒れることはなかった。
……昏倒させられない!……
しかし、彼女は刺さった針を握る手に力を込めた。肉に分け入る感覚があり、シオンの白装束に血が滲み出した。
……でも、筋肉は弛緩する!……
痛みに気付いたシオンは、慌てて彼女を突き飛ばした。
「志音!」
その時、立ち上がった志音がアトロポスを構えた。銃口を、シオンに刺さったままの針の頭に当てる。
再び銃声が轟いた。
銃弾に弾かれた針は、彼の心臓を易々と貫通し、背後から飛び出して、瓦礫の山に突き刺さった。
驚愕に目を見開いて、シオンはその場に倒れた。
今更ながらに二人に襲い掛かろうとする従者の蜘蛛達を、志音は残らずアトロポスで撃ち抜いていた。
銃声の反響が消え去ると、辺りには静寂が訪れた。口を開いた球体の内部で弾ける火花の音だけが聞こえていた。
二人は、地面にへたり込んだまま、呆然としていた。
やがて、ゆっくりと視線を合わせる。
「……やったね……」
彼が微笑む。
「……ええ、やったわ……」
微笑み返した彼女は、シオンの亡骸へと目をやった。
「……これで、メシアは生まれない。改変は阻止したわ……」
天を仰ぐと目を閉じる。ゆっくりと息を吸うと、一際ゆっくりと息を吐いた。その吐息は、安堵に震えていた。
暫くして、志音に視線を戻したアミカナは、明るい声で尋ねた。
「……作戦とはいえ、あいつにキスしちゃった……妬いた?」
彼は笑った。
「……いいや。彼も僕だから……」




