あなたの世界
二人は、数えきれないほどの蜘蛛を倒して、球体の真下へと辿り着いていた。
球体は、空爆を受けてところどころ凹んではいたが、大きなダメージがあるようには見えなかった。かつて公園にあった遊具やトイレ等は全て吹き飛び、地面はあちこちが陥没していた。山側の斜面も崩れ、球体下側の半分が埋もれたようになっている。
今のところ、球体からの反撃はない。走り疲れて、志音は肩で息をしていた。アミカナの方も、人間の頃の生理反応をそのまま反映して、胸が上下している。彼女が持った刀は、二本とも既に折れてしまっていた。柄を投げ捨てると、彼女は、最後の燃料を補給した。
……このタイミングしかない……。彼女は決意した。
「……志音、今のうちに伝えておきたいことがあるの……」
一息つくと、目を合わせずに、彼女は言った。
「ああ……これが終わったら、未来に……帰るんだろ?」
彼も、彼女の方を見ることなく答えた。
アミカナはわずかに目を見開いた。
……そうね。普通はそう思うわね……。
「……私……未来には帰れないわ……」
彼女は呟くように言った。
「この時間転送は、一方通行なの」
彼は目を見開く。
「え?……」
彼女は努めて明るく言った。
「私の運命は二つに一つ。世界に消滅させられるか、自分で消滅させるか」
「……どういうこと?」
「……球体が消滅したら、次に時間の流れに晒されるのは私。未来からの異物だからね。10分もすれば、時間は私を迂回し、私を消し去る。それが嫌なら、その前にアトロポスで自分を撃つしかない……」
一瞬の沈黙の後、志音は彼女が驚くような大声を上げた。
「何だよそれ! 君はこんなにも頑張っているのに、ラキシス機関は君を見捨てたのか?!」
「見捨てた訳じゃない。時間転送には大掛かりな装置が必要なの。しかも、送り出す専用の装置が。ここにはそれがない。だから……始めから、戻る手段はないのよ……」
肩をすくめて、彼女は微笑んだ。が、志音の興奮は収まらなかった。
「じゃあ、帰れないと分かっているところに、君を送り込んだのか? ありえない! ラキシス機関は、たった一人の人間に全てを任せて、最後は捨て駒にするのか? 君の……君の命を何だと思っているんだ!……」
最後の方は弱々しい呻きとなり、志音はうなだれた。
……ああ、志音……。
「志音、私は人間じゃないの」
諭すような穏やかな声で、彼女は呟いた。その言葉に、志音は勢いよく顔を上げた。
「いいや! 君は人間だ。これほどまでに人間らしい人がいるものか!」
……ありがとう、志音……。
「違うわ。私は機械なの。過去に送られたラキシス機関のエージェントは、全くの孤立無援となる。その状態で、歴史改変阻止の任務を遂行しなければならない。それは、ロボットのような自動機械には荷が重いわ。想定できない状況に対して、人間のように極めて柔軟な思考が必要なの。でも、人間を生きたまま送ることはできない。そこで生み出されたのが、私のようなアンドロイドなの。この体には、人間と全く同じ思考を実現する量子頭脳が搭載されている。そこに、オリジナルの人間のニューロン・ネットワークをコピーしたものなの。私のオリジナルは、ミカ=アンダーソン。私は、その思考がコピーされた機械なの。だから、ラキシス機関はミカを殺すことにはならない。失われるのは、精巧な機械だけ……」
「君はミカじゃないだろ! この一週間のことは、君だけが経験したことだ。僕と会ったことだって、ドライブして、露天風呂に入ったことだって……。君が消えるってことは、君が……君が、死ぬってことじゃないか……」
俯くと、彼は悔しそうに自分の膝を叩いた。
……そうよね……私もそう思う……でも、問題はそこじゃない……
彼女は目を閉じて、天を仰ぐとゆっくりと息をついた。再び彼を見る。
「私が苦しいのは、私自身が消えてしまうことじゃない。私のことを、あなたに覚えておいてもらえないことなの……」
「そんな!……君のことを忘れるはずがないじゃないか!」
彼は顔を上げて叫んだ。彼女は苦笑した。
「ここは偽時間の中よ。何も確定していない。球体を破壊すれば、それが出現する直前の状態に戻る。あなたはスローンに導かれてこの公園に来るけど、何も起こらない。私に会うこともない……」
彼は目を見開く。
「そんな……嘘だろ?」
志音は激しく頭を振った。
「……じゃあ、破壊しなければいい。球体が自然消滅するのに任せれば、偽時間での出来事は歴史として定着するんだろう? そうすれば、君と僕が出会ったことも歴史になる。例え君が消え去っても、君のことを覚えておける……」
彼女は肩をすくめた。
「……それはダメよ。瓦礫になったあなたの街も残る。たくさんの人の命も失われたままになる。それは、本当の歴史じゃないの……」
「本当の歴史って何だよ……」
彼は必死に食い下がった。
「歴史は人間の選択の積み重ねだろ? その選択は、何人にも侵されることのない権利なんだろ? どうして、僕の……僕たちの選択だけが誤りだと言われなくちゃならないんだ……」
彼女は寂しそうに微笑んだ――いや、微笑もうとしたが、表情が作れなかった。なるべく冷静な声を出そうと努める。
「志音、ここは世界の揺らぎの中なの。あなたは、選択しているように見えて、揺らぎの中を漂っているだけ。そして、私はその中の泡でしかないのよ……」
そう言った後、彼女は思わず身震いした。
……もう、物わかりのいい女のふりは限界だ……
急に両手を膝に置いてかがみ込む。背中が震え出した。
「……志音、あなたとはフェアでいたいから、本当のことを言うわ……」
微笑みを作ることはできなかった。胸の奥からこみ上げるものを抑えられない。
「私、怖いの! 怖くてたまらない!」
彼女は怯え切った顔で叫んだ。
「任務が遂行できないかも知れないことも! あなたが私のことを完全に忘れてしまうことも!……そして……私自身が消えてなくなってしまうことも!」
顔を伏せる。息の乱れが止まらない。膝も震えて、立っているのがやっとだった。
『任務が終われば、ミカとして目覚める』――それは詭弁だった。この世界にある精神が、遥か未来のミカの元に戻る術はない。それは、機械の体に閉じ込められ、異世界に落とされた憐れな魂に対し、死の恐怖から目を背けさせるための詭弁。この夢の終わりには、死しかない。そして、今この瞬間の夢も、彼女だけのものであった。彼女が生きたことを、誰も覚えてはいない。生きた証をほんの一欠片も残すことなく、彼女は死ぬしかないのだ……
「……怖くて……怖くて……泣き出したいのに、この体はそれを許してくれない。私には、泣く機能がないの……」
呻くように言うと強く目を閉じた。しかし、どんなに力を入れても、涙が出ることはなかった。それが余計に心を乱す。いや、心が張り裂ける。しかし、どんなに裂けても、沸き上がる感情が収まることはない……
……どうして、私は志願したのだろう?……
私がまだミカだった頃、狭き門であるエージェント・オリジナルの適性試験に合格した時は本当に嬉しかった。彼女の複製は無事任務を遂行し、ミカは優良オリジナルとして何度も複製された。私は4人目のアミカナだった。それを、私は誇りに思っていた。しかし……
……私の前の3人のアミカナも、こんな恐怖と戦いながら消えていったのだろうか……そして、エージェント・オリジナルに選ばれたミカは、優良オリジナルとなったミカは、私達がこんな思いで消えていくことを、知る機会はあるのだろうか……
……どうして、私は志願したのだろう?……
「……でも……」
彼女はゆっくりと顔を上げた。
「……私は、あなたの世界を守りたい……」
彼にしっかりと瞳を向ける。
……そう、これほどの恐怖に溺れても、許してはならないことがある。だから、私は志願した……
「好きじゃなくても、馴染めなくても、ここはあなたの世界よ。他人が勝手に改変していいはずがない……」
そう言うと、彼女は彼の手を取った。力の限り握り締める。
「この世界を変えていいのは、あなたの意志だけなの!」




