君が君であること
<少し過去、土曜日に変わる頃>
アミカナは恐る恐る足先を湯に浸した。彼女が恐れていたのは『浸水』だった。百貨店の屋上での戦闘の際に、人工皮膚の気付かない位置に深い傷を負っていると、浸水により体の機能に深刻なダメージが生じる恐れがあったからだ。シャワー程度なら問題はなかったが、湯にじっと浸かるとなると、注意するに越したことはなかった。
しかし、足先から伝わる温泉の温かさは、そんな心配など些末なことと思わせるに充分であった。彼女は湯の中に体を滑り込ませた。温かさが全身を包み込む。思わず息が漏れた。
湯船の縁の岩に頭を載せると、空には星の海が広がっていた。彼女の世界では、既に天の北極から外れ始めた北極星を探す。そう、星空さえ、この世界は彼女の世界とは違っているのだ。
波音を聞きながら、彼女は湯船の中にゆっくりと四肢を投げ出した。目を閉じる。私の世界……私の世界が始まったのは……
アミカナは、こんな風に横たわり、ゆっくりと意識を結んだ過去の記憶――もっとも、この世界から見たら遥か未来の出来事であったが――に手を伸ばした……
「……私の声が聞こえるかね?」
遠くで男の声がする。目の前には、白く光り輝く空間が広がっている……ように見えた。
「……はい」
痺れたようになかなか口が動かず、彼女はようやく声を出した。
「よろしい。君の名前を教えてくれ」
「……私は……ミカ……ミカ=アンダーソン……」
「所属は?」
「……ラキシス機関、歴史管理部、歴史改変阻止課……」
ようやく目が慣れると、彼女はベッドの上に寝かされていることに気付いた。大きなガラスの向こうから、マイク越しに技官が質問を続けている。この部屋、しばらく前まで、私はガラスの向こうにいたような……
「……では最後に、ラキシス憲章の前文を暗唱してみてくれ」
……ラキシス憲章前文……何度も復唱し、暗記した宣言文……
「世界は、あらゆる人々の日々の選択の膨大な積み重ね、無限に存在する波動関数の収束の連続で構成されており、どの選択も等しく尊重されるべきものである。時間転送による歴史改変は、それがどれほど些細なものであっても、選択を侵害するものであり、今ある世界に脅威を与えるものである。ラキシスとは、人々の運命を決定する古代神話の女神であるが、我々の運命は神によって定められているのではなく、我々個人の選択の繰り返しによって綾なされていく。つまり、ラキシスとは我々が選択する権利の象徴なのである。我々は、ここに、個人の権利を侵害する如何なる歴史改変も断固として阻止するため、ラキシス機関を創設する。」
「よし。複製は問題ないようだな」
技官が呟いた。
「あの!……私は移植されたのですか?」
彼女は戸惑いを隠し切れない。先刻までと、全く何の違いも感じられなかったからだ。少なくとも、精神的には。
「そうだ。気分はどうかね?」
技官は微笑んだ。
「……少し、頭がぼーっとします」
「最初はそんなもんだ。いや、そんなもんらしい。私には分からんが」
技官は座り直す。
「じゃあ、右手を上げてみてくれ」
右手……。彼女が意識すると、視界の中に、銀色の金属の腕が入ってきた。これが私の右手?……しかし、彼女の意志に合わせて、金属の手は握ったり開いたりを繰り返した。
「どうかね?」
技官に尋ねられて、彼女は眉根を寄せた。
「動かせますけど、触った感覚がありません」
「まだ、顔以外には人工皮膚を被せていないからね。鏡は見ない方がいい。ああ、皮膚を装着する時は女性技官に替わるから、安心してくれ」
ふと、ガラス越しの制御室に女性の影を見つけて、彼女は注意を向けた。その時、以前の体ではあり得ないほどのズームが働いて、部屋の暗がりに立っている女性が、自分であることに気付いた。いや、『以前の』自分か……。彼女は、少し心配そうにこちらを見つめている。いや、怯えているようにも見えた。
「さて、ミカ君。複製された君に、アイデンティティの問題が発生することは我々も理解している」
技官は言った。
「だから、このように考えて欲しい。君は今からアミカナだ。アミカナ=デフォルマ。君は今、夢の中にいる。ミカ君の夢の中で、アンドロイド戦士、アミカナを演じているんだ。アミカナは敵を抹殺し、任務を遂行する。任務が終われば、夢も終わりだ。君はミカ君となって再び目覚める。問題あるかね?」
……夢が終われば、元に戻る?……
彼女は頷くしかなかった。
ガラスの向こうも私なら、ガラスのこちらも私だ。向こうが生身の肉体を持っているのなら、向こうがオリジナルなのだろう。しかし、コピーとして人工物の中に埋め込まれても、自分の思考が劣化しているような感じはしない。私は私だ。
「君はアミカナだ」
思考を見透かしたかのように、技官は繰り返した。
「夢の中だから何でもできる。強力な敵とも戦える。そうだろう?」
私は……アミカナ……。まあ、夢の中ならそれでもいいだろう。
「はい。」
アミカナは答えた……
ふと、湯船の中に身を起こしたアミカナは、右腕を湯から出し、左手でその腕を擦った。自分がまだミカだった時――生身の体であった時と、殆ど何も変わらない。この滑らかな肌の中では、様々な機械部品が動作しているというのに、彼女自身、全くそれを感じない。今度は、胸の二つの膨らみの間に左手を当てた。そこに心臓の鼓動はない。それでも、私は生きている――はず……。それは、まるで夢を見ているようであった。
彼女の体に睡眠は必要なかった。だから朝が待ち遠しい。志音の言う通りだった。夜は全てが止まる。止まるから何も決められない。決められないから迷う。いっそ、眠れたらどんなに楽かと思う。この鬱々とした時間を、一気にスキップできるからだ。そして、眠りはなくても、夢だけが常にある。
……この夢が、永遠に続いたらいいのに……
ふと、不謹慎なことを夢想する。あの球体を原子崩壊させようが、自然消滅するに任せようが、彼女に残された時間は僅かだった。
……この選択でいいのか?……
これまで何度も繰り返してきた問いが、また脳裏をかすめる。歌に歴史改変のヒントがあると信じて、既に数日を費やしている。歌など気にせずに、一刻も早く球体を破壊した方がいいのではないか……
湯に浸かっているのに、思わず彼女は身震いした。どうして自分はこんなにも軟弱なのだろう……自分の選択を信じられないなんて……
人差し指で鼻先を擦ろうとして、志音の言葉を思い出した彼女は手を止めた。
「……ゼンマイか……」
ふと、彼女は呟いた。
夜の間に巻いたゼンマイの力で、朝になったら一気に跳躍する。まあ、そうなのかも知れない――でも、どこに? 跳躍した私が着地できるところは、どこにあるのだろう?
不意に志音の顔が浮かんで、彼女は苦笑した。
……何を考えているんだか……ほんと、バカね……
* * *
<再び土曜日>
彼女の肩の深い傷から覗く金属の構造と、時折小さくはじける紫色の火花に、志音は思わず後ずさった。
「どういうことだ……これは一体……」
裸を見られたかのような羞恥を感じて、アミカナは咄嗟に傷を隠した。覚悟を決めてゆっくりと息を吸い、長く吐き出す。いや、正確には、彼女に呼吸は必要なかった。人間だった時の彼女の生理反応が電気信号に変換され、ゆっくりと息を吸うかのような動作を行い、そして、長く吐き出すかのような動作を行っただけであった。
「……言ったでしょ。時間転送では、生物を生きたまま過去に送ることはできないの……」
志音は、その意味するところを知って息を荒げた。
「……じゃあ、君は、ロボット?!……」
「……まあ、平たく言えばそうよ……」
――それも正確ではなかった。彼女の身体は確かに人工物だったが、その思考は、ラキシス機関に所属する実在の人物、ミカ=アンダーソンのニューロン・ネットワークを正確に模倣した量子頭脳から生成されるものだった。
先刻まで志音の目に宿っていた親愛の情が消え失せ、恐れと拒絶の色が溢れるのを見て、アミカナの心は蒼く沈んだ。
……私の夢もここで終わりか……
彼女はロボットに徹することに決めた。
虚無の表情を作り、抑揚のない声で話し出す。
「……全てはプログラムなの。駅前であなたをターゲットに定め、色々なところに連れ回したり、家に上がり込んだり、思わせぶりな態度を取ったり……全ては、あなたの興味を引き留め、利用し、任務を円滑に遂行するためのプログラム……。あなたは、数百万行のプログラムコードに恋をしただけ……。もう十分よ……。ここは危ないわ。早く半島に帰った方がいい……」
信じられないという表情を浮かべる志音に、彼女の胸は少しだけ痛んだ。
……ごめんね、志音……。でも、機械の体であることで、あなたの信頼が得られないのなら、もう一緒にいるべきじゃない……。この後のことを考えたら、むしろ、一緒にいない方がいいの……
「……僕は……」
彼は、何とか言葉を紡ぎ出そうとしていた。何と言われようと、振り払うしかない……彼女は身構えた。
「……僕は、別に恋してない……」
「?」
全く想定していなかった言葉に、彼女は収音マイクの機能不全を疑った。
「……は?……」
あっけにとられた彼女に、彼は挑戦的に微笑む。
「……僕は、ただ一人この世界に落とされた君を憐れに思って、手を貸していただけさ……」
頭を殴られたような衝撃があった。
「……何それ……」
単に裏切られたということではない。侮蔑すら感じた彼女の心には、ゆっくりと怒りがこみ上げた。
「ちょっとどういうこと?!」
思わず彼へと詰め寄る。私の苦しみを、彼は分かっていてくれたんじゃないの?!……だから、支えていてくれたんじゃないの?!……
「憐れに思って、って何よ?!」
彼女は彼の胸倉をつかんだ。呼吸が乱れ、手が震える。
「……私達は……私達は……」
……繋がっていたんじゃないの?!……
「それもプログラムなの?」
志音の言った言葉が浸透するのに、感情の昂ったアミカナには時間がかかった。
「……何?……」
「……その怒りも、興奮した息遣いも、肩の震えも、全部プログラムだというのなら、それはもう、プログラムの域を超えてるよ……」
彼は優しく微笑んだ。
「いや、プログラムかどうかなんて関係ない……。君は君だ。だから惹かれた。君の力になりたいんだ……」
アミカナは目を見開いた。
感情が渦になる。
――そう、私は私。
何かが溢れ出しそうになって、天を仰ぎながら目を閉じた。息をするかのように、胸がゆっくりと上がり、そして肩がゆっくりと下がる。それは、興奮した量子頭脳が冷却されることを祈る、おまじないの動作であった。
彼女は彼のシャツをゆっくりと離すと、うなだれた。そのまま、頭を彼の胸に付ける。
ありがとう、志音……。私を認めてくれて……。
「……ごめん、傷付くようなことを言って……」
彼女の気持ちが落ち着いたことを悟って、志音は彼女の肩に手を置いた。
「でも、その前に君も同じようなことを言ったから、これでフェアだね……」
彼女は苦笑した。
「……そうね……」
二人は見つめ合った。アミカナは瞳を閉じた。唇が重なった。
やがて二人の体が離れると、志音は照れくさそうに切り出した。
「君はさ、何かたとえ話をする時、こうして、右手の人差し指をクルクル回すよね」
彼女の仕草をまねて、彼の指が円を描く。
私が……そんなことを?……
訝しがる彼女の表情を確認して、彼は再び笑う。
「そんな意味のない動き、ロボットには必要ないだろう? だから君は……君さ」
アミカナは虚を突かれた。それが――私が私である証なの?……
彼女は再び目を閉じた。……ダメだ、感情がメチャクチャだ……
自分を認めてくれたことに対する安堵と、触れ合うことのできた喜び、自分の気付かない仕草まで覚えていた驚き、妙な納得の仕方への失望……。そう、彼はまだ真実を知らない。私の体のことなど、どうでもよくなるような真実を。だからこそ、彼女は、この時間が愛おしくてたまらなかった。
「……なるほど。君の体重が重いのは、そのせいか……」
志音は一人呟いていた。しかし、彼女の収音マイクは、それを逃がさなかった。
彼の方へ向き直ったアミカナは、微笑みを浮かべながらも鋭く睨んだ。指を突き付ける。
「知ってる? あなた今、ものすごく失礼なことを言ったわよ」
「アミ!」
一瞬怯んだ志音だったが、彼女の背後を見て突然叫んだ。彼女が振り返ると、暗闇に、次々と赤い三つ目が光り出していた。
「水ちょうだい!」
彼に背を向けたまま、彼女は勢いよく左手を差し出した。
「え?!」
「水よ! 水がこの体の燃料なの!」
彼は慌てて、リュックから2リットルのペットボトルを手渡した。蓋を開けたアミカナは、唇を近づけ、ボトルの底を一気に天に向ける。大量の水が、容赦なく彼女の中に流し込まれていく。やがて、彼女の耳にだけ、タンクが満たされたことを告げるメッセージが流れた。空になったボトルを投げ捨てると、袖で乱暴に口を拭いて、彼女は言った。
「正体がバレたなら、もういいわ……」
彼女の体の中から、何かの回転音が聞こえ始める。その周波数が上がると、全身から湯気が立ち上り始めた。噛み締めた歯の間から、彼女は蒸気のような息を吐き出した。腕を交差させ、両腰の刀の柄に手をかける。顔を上げた彼女の瞳は、より一層青く輝いていた。
「……ここからは、出力全開で行くわよ!」




