余剰次元の牙
<金曜日>
旅館の主人は、彼らのことをあからさまに怪しんでいた。当然の反応だ。対岸の大惨事で、予約客は軒並みキャンセルしていることだろう。こんな時期に、若いカップルがどんな理由で予約もなしに泊まろうというのか。
「ここは、小さいですけど、数百年続く老舗だと伺ってます。温泉は源泉かけ流しで美肌に効くとか。確か、部屋毎に露天風呂がついているんですよね? それから、ご主人が毎日漁に出て採ったものを食事に出されているとか。今時、そんなにしてくれるところなんてなかなかないので、凄く興味を惹かれて……」
志音は、飛びきりの笑顔で淀みなく話していた。アミカナを指し示す。
「彼女、海外からの留学生なんです。日本の温泉に凄く興味を持っていて、SNSでも色々と発信してて、それで、ここの話をしたら、是非泊まってみたいってことになって。こんな時に大変申し訳ないんですが、前々から色々と計画を立てていたので、何とか泊めてもらえませんか? お願いします!」
彼は深々と頭を下げた。
「ほら!」
彼に促され、彼女は、状況をよく理解していない体で、明るく微笑むと頭を下げた。
「オネガイシマス!」
適度な片言で話す。結局、旅館の主人は渋々宿泊を承諾した。
* * *
「凄いわね。ここのこと、いつ調べたの? インターネットにはそんな情報なかったと思うけど……」
襖の向こうで彼女が聞いていた。部屋に通されるまでの間、留学生という設定で、彼女は沈黙を守っていたからだ。昨日、渋滞に巻き込まれた二人は、志音の街に帰ることは諦め、半島に宿を構えて、引き続き歌の解読をしようとしていた。
「旅館の周りで、色々と見聞きしてね」
既に浴衣に着替えた志音は、テーブルの前に腰を下ろしていた。
「すぐに入らずに、町の中をぶらぶらしてたのはそういうこと!」
彼女は感嘆の声を上げた。
「断られる可能性が高かったから、少しでも情報を……と思ってさ。我ながらうまく行ったと思う」
「ねえ! 何これ?!」
突然、襖が開け放たれた。彼女は両手を広げて仁王立ちになっていた。浴衣の袖と裾から素肌が覗いているところを見ると、黒いボディスーツも脱いだらしい。
「ちょっと無防備過ぎない? みんなこんななの?」
……いや、無防備だと思うのなら、仁王立ちを何とかしろよ……心の中で反論しながら、彼は目を逸らした。
「浴衣はそういうもんだよ。着物とは違う」
「えー、これ……ええと、ちょっとみだら、だよね? ほら、ここがこうなるとさ……」
裾をヒラヒラさせながら、嫌なのか、気に入ったのか、どちらとも付かないテンションで彼女は言う。
「分かったから! 歌の解読の続きをするんだろ?」
「ごめん、待って! やっぱスーツ着てくる」
襖の向こうに行きかけて、彼女は窓の外を見つめた。部屋に付いている石造りの露天風呂が見えていた。湯船は小さかったが、恐らく、それに浸かれば、日が沈む内海が見渡せるはずであった。立ち尽くしたまま、時間が過ぎる。
「気になるなら、入ってみたら?」
彼が勧めたが、彼女は微かに顔をしかめた。
「う~ん……大丈夫かな?……」
「何が? 別に覗かないけど」
「いや、そうじゃないんだけど……」
彼女は腕を組むと、目を閉じて天を仰いだ。思案の時が過ぎる。
「……やっぱ止めとく!……肌に……そう、肌に合わないかも知れないから」
「は? 美肌の湯なんですけど……」
「未来人の肌は繊細なんですぅ!」
唖然とする彼に、彼女は強がってみせた。
「いいの、その選択で? 二度とないかもよ。ラキシス憲章によると……」
「うるさい!」
彼がからかうと、彼女は睨んだ。その後、憐れむように笑う。
「そっちこそがっかりした? 覗けなくて」
そこで、ふと彼女は跪き、座っている彼に顔を近づけると微笑んだ。
「いいのよ、覗いたって」
「え?」
彼が言葉を返すより早く、彼女は彼に背を向けた。鼻先を、彼女のポニーテールがかすめる。立ち上がった彼女は凛とした声を響かせた。
「さあ、解読! 解読!」
跪いた時に、彼女のはだけた胸元が目に焼き付いたことを叱責された気がして、彼は思わず背筋を伸ばした。
* * *
布団に倒れたまま、彼はむかつきをこらえていた。今、実際に目や耳にした訳ではないのに、めまいと耳鳴りがひどい。日曜日の記憶を呼び起こす度に、ひどい体調不良となったが、ようやく全ての歌詞を翻訳することができていた。
日は西に傾き、部屋の中に、外の植栽の長い影が伸び始めていた。
「具合はどう?」
部屋に戻って来たアミカナが聞く。部屋のブラウン管テレビは既にオブジェとなっており、ネットも繋がりにくいため、彼女は夕刊を仕入れに行っていた。
「まあまあかな? で、どんな感じ?」
彼女はテーブルの上に夕刊を広げた。志音はゆっくりと体を起こした。
「球体は健在。空爆でも殆ど傷付かなかったみたい」
そこで、志音を見る。
「空爆自体は成功してるから、球体のドローンは尽きたとみていいわ。残っているなら、爆撃機は攻撃されてる」
「確かに……」
彼女は紙面の地図を指差した。
「今、攻撃は一時中断しているみたい。代わりに、避難命令が出ているわ」
避難命令の出ている地域の広さに、志音の背筋はざわついた。
「……まさか……核攻撃?……」
「あり得るわね」
……核攻撃か……それをすれば、本当に何もかも取り返しがつかなくなる……
「……核なら、あれを破壊して、歴史の改変を止められる?」
尋ねる彼に、彼女は浮かない顔をした。
「期待できないわね……物理的に破壊するだけでは、真時間の流れを遮る皿はなくならない。これじゃないと……」
テーブルの上のアトロポスに手を載せる。
「通常兵器でも大したダメージを与えられないものを、アトロポスで破壊できるの?」
銃としては大きかったが、球体を相手にするには、あまりにも非力に思えた。彼の心配を察して、彼女は微笑んだ。
「これは、物体を余剰次元に押し込んで粉砕する武器よ。どんなに硬くても、物理的に防ぐことはできない」
「余剰次元に押し込む?」
聞き慣れない言葉に彼は首を傾げる。
「そう。丸まった8次元のうちの……」
「待って待って! 何が8次元?」
体調不良のせいか、頭がしっかり働いていない気がした。彼女は天を仰ぐ。
「……そこからか……」
気を取り直して、彼女は説明を試みた。
「これは……例えるのが凄く難しいんだけど……」
腕を組むと、今までにない位、顔をしかめる。人差し指で螺旋を描く程度では、例えることは難しいらしい。ひとしきり小さな唸り声が続いた。
「……例えば、私達の周り、それこそそこら中に、鰐がいるの……」
自信なさげに、彼女は話し出した。
「……鰐?!……なんで急に鰐?」
唐突な設定に、彼は思わず聞き返す。
「黙って聞いて!」
苛立ちが矢のように飛んで来て、志音は身をすくめた。
「鰐は、いつもは口を閉じてるけど、アトロポスで鼻先をつつくと、大きく口を開けて世界を吸い込む……」
「……はあ……」
「その時に、皿も……それから、その上の偽時間も吸い込まれて、後は鰐が噛み砕いて飲み込む。皿は一かけらも残らない。だから、皿を砕くのは鰐であって、アトロポスではない……分かる?」
「……いや、何で鰐なの?……」
「だから、余剰次元の例えなの!……私だっていい例えとは思ってないわ……」
目を閉じた彼女は、再び天を仰いだ。
「……余剰次元はそこかしこに存在していて、アトロポスで刺激すれば、あらゆる物体を飲み込んで消滅させるのよ……」
チラリと彼を見る。
「他にも、同じ匂いのするものだけを鰐達に吸い込んでもらう拡散モードもあるんだけど……分からないわよね?」
「同じ匂いのもの?……匂いってどんな?」
疑問の塊となっている彼に、彼女は深いため息をついた。
「……もういいわ。とにかく、アトロポスのことは信じて。球体まで辿り着けば、必ず破壊できる」
「あのさ……」
不意に彼は言った。
「……百貨店の屋上で、ドローンを飲み込んだ光の渦は緑色だった。だから鰐、とか?……」
おずおずと志音は尋ねた。彼女は頭を抱えた。
「……まあ、それで納得できるなら、勝手にどうぞ……」




