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『境界線の夜明け』  作者: キロヒカ.オツマ―


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第八章 逃亡



午前二時。

名古屋・中村区の旧印刷工場は、すでに廃墟と化していた。

錆びついたシャッター、崩れかけた壁。

桐島との約束の時間、直人は小さな懐中電灯を手にして、静かに足を踏み入れた。


床には散乱した紙くず、インクの臭いがまだかすかに残っている。

——しかし、桐島の姿はどこにもなかった。


その代わり、中央の机の上に置かれた一台のノートパソコン。

画面には「再生」ボタン。


恐る恐るクリックすると、映像が流れた。


『直人さん、この映像を見ているということは——私、もう彼らに捕まったのかもしれません。』

『“希望の灯”のデータ、USBに入れておきました。机の裏です。それが証拠。』

『もし、私に何かあったら……この真実を——』


映像が途切れた。


その直後、背後で「ガチャリ」と音がした。

反射的に振り返ると、暗闇の中に懐中電灯の光が揺れる。


「警察だ! 加瀬直人、そこを動くな!」


直人は息を呑んだ。

数人の警官が廃工場に突入してくる。

(なんで……俺が?)


「桐島紗江の失踪事件について聞かせてもらうぞ!」


直人は叫んだ。

「俺は何もしてへん! 助けようとしてただけや!」

しかしその言葉は届かない。

警官の一人が手錠を構えた瞬間、頭の中で“声”が響く。


「走れ。お前が捕まったら、真実は消える。」


それは幻聴か、それとも本能か。

直人は一瞬の隙をついて走り出した。

廃工場の裏口を抜け、線路沿いのフェンスを飛び越える。

遠くで警笛の音。


息が切れ、胸が焼けるように痛む。

(あかん……捕まったら終わりや……)


頭の中で、声が次々と重なる。


「右へ行け!」

「今だ!」

「誰かが追ってる!」


視界がぐにゃりと歪む。

夜の街がまるで水の中に沈んだように揺れて見える。

幻覚か、過呼吸か、それとも現実か。


やがて、古い公園のベンチに倒れ込んだ。

冷たい空気の中で、息を整える。


携帯を見ると、ニュース速報が表示されていた。


【桐島紗江氏、NPO不正受給に関与か 元職員・加瀬直人(49)を事情聴取へ】


「……俺が、犯人?」


震える声でつぶやく。

画面には、自分の顔写真。

“無職・生活保護受給者・精神障害者”という見出しがついていた。


社会が、世間が、一瞬で彼を“加害者”にした。


胸の奥で、何かが切れた。


——もう、誰も信じられへん。

——でも、このまま黙って死ぬわけにはいかん。


「声」が再び囁く。


「USBを持って逃げろ。駅のロッカーに“それ”を隠せ。」


(USB……机の裏……)

直人ははっとした。

廃工場に置いてきた。


立ち上がり、フラフラと歩き出す。

その途中で、頭の奥にもう一つの声が割り込む。


「戻るな。罠だ。」

「いや、行け。あれが全ての証拠だ。」


二つの声が喧嘩するように、同時に響く。

直人は耳を押さえて叫んだ。

「やめろ! 黙れ!!」


通りがかったタクシーの運転手が驚いて見ていたが、直人は気づかない。

彼の中で現実はもはや複数存在していた。


——信じるべき“声”はどちらか。

——いや、もしかすると、どちらも“自分”なのか。


夜明け前。

彼は再び港の方向へと歩き出す。

背後ではパトカーのサイレンが近づいていた。


雨が降り始め、路面に街灯の光が滲む。

その光の中で、直人の瞳だけが確かに燃えていた。


「俺は逃げん。真実を暴くまで、絶対に。」


その決意は、もはや幻聴よりも強く、現実よりも確かだった。

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