第五章 闇の帳簿
翌朝、直人は一睡もできなかった。
封筒の中の紙切れが、まるで毒のように心の中に沈殿していた。
——“あなたの名前で動いている口座”
頭の奥で麻衣の声が何度も反響する。
午前九時、直人は思い切って外に出た。
向かった先は、生活保護の受給を担当している福祉事務所だった。
窓口で対応した職員は、書類をめくりながら淡々と言った。
「ええと、加瀬直人さん……ですね。
こちらで確認できる口座は、生活扶助と家賃支給の振込先のみです。
他の口座は……登録されていませんね」
「……じゃあ、この銀行口座、俺の名前になってるけど、役所には届け出てないってことですか?」
職員は一瞬だけ顔を上げた。
その目には、微かに警戒の色が浮かぶ。
「お客様名義で勝手に作られた可能性があります。
ただ、こちらから金融機関に照会はできません。ご本人が直接確認を」
「わかりました」
窓口を出ると、冷たい風が頬を刺した。
ビルの谷間にある冬の光が、薄く、まるで現実そのもののように淡々としていた。
***
午後、麻衣と合流し、名古屋駅前の地方銀行支店へ向かった。
窓口の女性が、直人の提示したメモを見て首をかしげる。
「この口座は、確かに加瀬直人様名義で開設されています。
ですが、現在は“団体登録”扱いになっており、取引履歴の開示には代表者の承諾が必要です」
「代表者って……誰ですか?」
「こちらに記載があります」
直人は、書かれた文字を見て息をのんだ。
代表者:桐島玲子(希望の灯)
麻衣が小さく息を呑む。
窓口の女性はそれ以上の説明を避けるように、控えめに頭を下げた。
銀行を出ると、麻衣が呟いた。
「やっぱり……彼女、全部自分の管理下に置いてる」
直人は、歩道橋の下で立ち止まった。
信号の音、人の流れ、アナウンス。
すべてが遠くに霞んで見えた。
(俺の名前で……金を回してる。俺は知らんまま、利用されてたんか)
怒りよりも、空虚だった。
誰かに裏切られることには慣れていた。
だが、「信じた相手」に裏切られる痛みは、まるで別物だった。
麻衣は慎重に言葉を選んだ。
「証拠を集めましょう。彼女は口座の存在を絶対に隠したいはず。
内部の会議や電話、録音できれば一気に動ける」
「……そんなこと、できるやろか。俺に」
「できます。
“何もできない”って思い続けてきた人だからこそ、
今、あなたが動く意味があるんです」
その言葉に、直人はゆっくりと頷いた。
***
翌週の作業日。
倉庫の片隅、古いスチール棚の上に置かれたノートパソコン。
北山が何かを入力しているのを、直人は横目で見ていた。
「……何してるんですか?」
「日報だよ。あんたらの作業時間、全部記録してんの」
北山は画面を閉じたが、その一瞬、モニターに見えたファイル名が直人の目に残った。
“灯帳簿2024_収支明細.xlsx”
その瞬間、直人の中で何かが閃いた。
その夜、麻衣と連絡を取り、密かにスマートフォンの録音アプリを準備した。
自分の古い携帯しか持っていなかったが、麻衣が貸してくれた中古スマホで十分だった。
「怖いことをしてる実感がある。でも……俺、やってみます」
「大丈夫です。私も一緒にいます」
彼女の声は、震えながらも確かに強かった。
***
翌日、北山が電話で誰かと話していた。
倉庫の奥、壁越しに漏れる声。
直人は静かに録音を開始した。
「……役所の確認は通った。名義はあいつのままにしとけ」
「今月の分は“人件費処理”で回す。桐島にはそう伝えろ」
息が止まった。
全身が凍りつく。
——やっぱり、本当だった。
録音を止めた直人は、手の中のスマホを強く握りしめた。
それは、小さな光の塊のように見えた。
暗闇の中に差し込んだ、かすかな“夜明け”の光。




