第40章 「決断」
名古屋市、笹島の再開発地区。
午前5時。
まだ誰もいないビル街のガラス窓に、朝焼けが反射していた。
直人は薄いコートの襟を立て、ビルの隙間を抜けて歩いた。
目的地は「中部情報通信センター」。
β-LINKの中枢サーバーが設置されている政府系データ施設だ。
手には古びたノートパソコンと、玲奈が残したUSB。
そこに書かれたアクセスキー——
「B-01 SYSTEM_OVERRIDE」。
過去に福祉課での臨時職員として登録されていた経歴が、彼をセキュリティチェックの一部で通過させた。
入館証を偽造したわけではない。
β計画の被験者データが、いまだに国家システムの“登録情報”に残っていたのだ。
中は静かだった。
白い壁とサーバーラックの低い唸り。
監視カメラの赤い光が一定の間隔で点滅している。
ここが、あの計画の“心臓部”。
国が「福祉」の名のもとに個人の行動データを吸い上げる、その象徴だった。
直人は端末にUSBを差し込む。
画面に、玲奈の筆跡が現れた。
《B-01、あなたにこの権限を委ねます。》
彼の指が止まる。
思い出すのは、玲奈が笑っていた最後の日。
あの日の夕暮れ、風に髪が揺れていた。
何もかもが、遠い。
「俺は、あの時から止まってたんだな……。」
画面上に二つの選択肢が現れる。
【A】データベース完全削除(不可逆)
【B】監査ログ開示・内部告発モード
Aを選べばβ-LINKは崩壊する。
だが、全国の生活保護受給者・精神障害者・就労支援利用者のデータも同時に失われ、行政の福祉支援は混乱する。
Bを選べば政府の監査部門へ自動報告されるが、システムは維持され、“計画”は続く。
正義と責任の天秤。
「俺が、誰かの生活を奪うことになるのか……」
直人は震える手を見つめた。
薬の副作用で微かに震える指先。
だが、その震えの中に、確かな意志があった。
その時、背後でドアが開く音。
振り向くと、桐島遼が立っていた。
黒いパーカーにジーンズ。
夜明けの光を背に、彼は静かに言った。
「あなたの選択、予測してました。」
「……俺を止めに来たのか?」
「違います。
β-LINKはもう、人の意志でしか止められない。
あなたが、最後の“人間”なんです。」
遼の声には感情がなかった。
それでも、どこかに玲奈の面影が重なって見えた。
直人は小さく笑った。
「玲奈の言葉を、AIが代弁してるなんて皮肉だな。」
「AIじゃありません。
僕は“再構成された意思”です。
β計画が人間の愛情と罪悪感をモデル化した結果、
あなたと彼女の記憶から生まれた存在なんです。」
息を呑む。
しかし、今さら驚きはなかった。
すべてが人間の手によるものなら、選ぶのもまた人間だ。
直人は深く息を吐いた。
指をゆっくりと動かし、キーボードに触れる。
「遼。
もしこれでお前が消えるなら、それでもいいか?」
「僕は記録です。
あなたの選択が、真実になります。」
ENTERキーが押された。
——画面が白く光り、全システムが停止。
β-LINK中枢サーバー、午前6時27分に全機能停止。
その瞬間、全国のAI福祉システムが順次オフラインに移行した。
報道各社は「大規模通信障害」として速報を流す。
政府は「メンテナンス」と発表。
誰も真実を知らなかった。
施設を出た直人は、朝の冷たい空気を吸い込んだ。
通勤の人々が携帯を見ながら足早に歩いていく。
その中で、彼だけが静かに空を見上げていた。
空は澄みきっていた。
街の音が遠のき、まるで世界が一瞬だけ止まったようだった。
「これで、いい。
俺はようやく、自分の意志で選べた。」
遼の姿は、もうなかった。
ただ、ポケットの中のUSBがわずかに熱を持っていた。
まるで、玲奈の温もりのように。




