第四章 告発の囁き
一月の風は、骨の芯まで冷たかった。
朝の倉庫は相変わらず薄暗く、蛍光灯がチカチカと点滅している。
直人はいつものように古紙を束ね、金属くずを分別していた。
手袋の隙間から、指先がしびれる。
「加瀬さん、ちょっと、これ運んで」
北山の声が背後から飛ぶ。
威圧的でも怒鳴るでもない。だが、その一言で空気が凍る。
他の作業員たちは一斉に黙り、言葉を飲み込む。
その日、作業が終わるころ、若い女性が倉庫に入ってきた。
白いマスクに黒いダウン。細身の体に、少し疲れた目をしている。
「桐島さんから伝票取りに来ました」と北山に声をかける。
直人はその姿を見て、どこかで見覚えがある気がした。
そうだ、説明会の受付にいた女性だ。
そのときは控えめに名簿を配っていたが、今は別の表情をしている。
彼女の名前は早瀬麻衣。
二十代後半、NPO「希望の灯」の職員だという。
仕事が終わり、直人が倉庫を出ようとした時だった。
背後から小さな声がした。
「……加瀬さんですよね? 少し、お話いいですか」
振り返ると、麻衣がそこに立っていた。
あたりを見回しながら、彼女は低い声で言った。
「ここでは話せません。近くの公園まで、少しだけ」
***
公園のベンチ。
吐く息が白く漂う中、麻衣は紙コップのコーヒーを手にしていた。
周囲には誰もいない。
「私、あのNPOで事務をしています。
桐島さんや北山さんが、どんなふうに“お金”を動かしてるかも、だいたい知ってます」
「お金……って、あの支援物資のことか?」
「そう。寄付金も含めて、全部グレー。
本当の目的は“生活保護受給者の口座”なんです。
あなたたちの名義を使って、口座を動かしてる。たぶんマネーロンダリングに近い形」
直人は、理解が追いつかなかった。
自分の口座は福祉課に報告している。残高も常に確認されている。
——そんなこと、本当にできるのか。
「桐島さんは行政にも顔が利きます。だから、役所も見て見ぬふりです。
でも……限界なんです。誰かが声を上げないと、もっと多くの人が利用される」
麻衣の声は震えていた。
彼女もまた、内部で葛藤しているのが分かった。
「お願いです。加瀬さん、あなたにしか頼めない。
あなたの名前が使われてる口座、確認してもらえませんか?」
「……俺にしか、って?」
「あなたは、まだ“信じてる”から。桐島さんのことを」
その言葉に、直人の胸がずきりと痛んだ。
信じる——その言葉が、何より重たく響いた。
自分は、ただ誰かに“必要とされたい”だけだったのだ。
麻衣は小さな封筒を差し出した。
中には銀行名と支店名、そして一つの口座番号が書かれていた。
「この口座、あなたの名前になってます。
でも、出入金記録を見る限り、あなたの知らない金が動いている」
直人は封筒を見つめた。
手が震えた。
まるで、その紙の中に“自分の過去の全て”が詰まっているかのように。
「……俺、どうすればいいんですか」
「まず、確かめましょう。本当にあなたのものか。
それから、もし本当だったら——一緒に告発しましょう」
麻衣の目には、恐怖と決意の両方が宿っていた。
直人はゆっくりと頷いた。
冬の風が、二人の間を通り抜ける。
街の光が遠くに滲んで見えた。
その瞬間、直人の胸の奥で、何かが静かに変わった。
これまでの49年間、流されるままに生きてきた。
けれど今、自分の意思で何かを選ぼうとしている。
——この一歩が、すべての始まりになるとは、まだ知らなかった。




