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『境界線の夜明け』  作者: キロヒカ.オツマ―


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第37章 「沈黙の協定」



名古屋市中区、県警本部地下の面会室。

白い蛍光灯が照らす中、直人は椅子に手錠をかけられたまま、向かいの席に座る男を見つめていた。

その男はスーツ姿で、警察手帳を見せることなく名刺を差し出した。

「内閣情報調査室・第七分室」と書かれている。


「β計画の記録、あなたが公開したデータはすべて削除されました。

それは“国家機密”として扱われています。」


男の声は淡々としていた。

直人の喉は乾いていたが、反論の言葉は出てこなかった。

データを流したつもりだった。しかし、それは監視され、送信経路ごと封じられていた。

SNSのアカウントも、メールも、全て消えていた。


「あなたが保持していたUSBメモリも、警察の押収物として回収済みです。

ですが、我々はあなたを“被害者”として扱います。条件があります。」


男は書類を差し出した。

「沈黙協定」。

内容は簡潔だった——β計画に関する発言を一切行わないこと。その代わり、保護プログラムに移行し、生活保障を受けること。


「つまり、黙っていれば生かす。喋れば消される、そういうことか。」


直人の声は震えていた。

男は微かに笑った。


「ご理解が早い。——あの“症状”も安定してきたようですね。」


その一言に、直人の心臓が止まりかけた。

症状。

統合失調の幻聴も、発達障害の特性も、すべてβ計画の実験で“作られた”副作用だったのか。

つまり、国家が自分の人格を設計していた。


——俺は、国家の産物なのか?


面会が終わると、直人は拘置室の中で小さな鏡を見つめた。

髪は乱れ、目は落ち窪み、歯は黄ばんでいた。

だが、その表情の奥に、これまでとは違う冷たい光が宿っていた。

「生き残る」ための光。


翌朝、釈放。

新聞の社会面には小さく「名古屋・β計画関係者、精神障害者保護処分」という見出しが載った。

記事の内容は事実をぼかし、直人の名は記載されていない。

玲奈の名前も、どこにもなかった。


釈放後、彼が戻ったのは、南区の古いアパート。

ドアを開けると、部屋の中は整理され、パソコンもノートも消えていた。

机の上に、一枚の手紙だけが残っていた。


「ナオトへ。

もしあなたがこれを読んでいるなら、私はもうここにはいません。

でも、“真実”はデータではなく、人の中に残る。

あなたが誰かに語り継げるなら、それでいい。——玲奈」


涙は出なかった。

ただ、静かに笑った。

“真実”を語ることができない世界で、どう生きるのか。

その問いに答えられる者など、どこにもいなかった。


夜。

名古屋港の防波堤に立つ直人。

波の音と風のうなり。

ポケットの中には、玲奈の指輪。

そして、胸ポケットには、彼が新たに書き始めた原稿用紙が一枚。


「β計画——それは、福祉という名の下に生まれたもう一つの国家だった。」


ペンを握る手が、わずかに震えた。

誰にも読まれないかもしれない。

それでも、書くことだけが彼の“生きる証”だった。


——そして、沈黙の中で、真実は別の形で動き出していた。

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