第36章 「輪郭の崩壊」
名古屋市南区の安アパート。
玄関の鍵は外から壊され、部屋の中には警察の鑑識テープが貼られたままだった。
蛍光灯が切れかけた部屋の中、直人は壁に貼られた新聞の切り抜きを眺めていた。
「β計画」と呼ばれる極秘医療実験。その資金源が、厚労省の裏口ルートと、地方自治体の医療助成金を通じて洗浄されていたという報道が流れたのは、わずか三日前だった。
玲奈の死。
あの事件以来、直人は一度も「普通の生活」に戻ることはできなかった。
彼の手元には、玲奈が死の直前に残したUSBメモリがある。
中には、β計画の初期被験者の名簿。
そして、名簿の中に——自分の名前があった。
「…俺が、実験体?」
直人の声は震えていた。
生まれてすぐ「赤ちゃんポスト」に捨てられた理由。
両親の身元が不明のままだった理由。
すべて、β計画の被験者として“意図的に”身元が抹消された結果だった。
その夜、直人は名古屋市役所の裏口で、元福祉課職員の西田に会った。
西田は退職してから鬱病を患い、現在は生活保護受給者。
だが、かつて「β計画の補助金処理」を担当していた。
彼は震える声で言った。
「あの計画は、“福祉”なんかじゃない。
生まれてきた人間を、“国が最初から選別”してたんだよ……」
直人は立ち尽くした。
自分が生きてきた49年間、そのすべてが社会実験の延長線だったのか。
誰も愛してくれなかった理由、誰にも必要とされなかった理由が、ようやく説明される。
だが、それは救いではなかった。
むしろ、存在の意味を崩壊させる“呪い”に近かった。
部屋に戻ると、郵便受けに封筒が入っていた。
差出人は不明。
中には、短いメモ。
「真実を公表するな。君の“治療”はまだ終わっていない。」
手が震えた。
背中の古い傷が疼いた。
幻聴が、また始まる。
「ナオト、もう一度やり直せるよ」
玲奈の声が、どこからともなく聞こえる。
だが、その声は——彼の脳内に埋め込まれたチップの信号だった。
β計画はまだ、終わっていない。
直人は涙をこらえ、机に向かって日記を書き始めた。
「これが、俺の記録だ。生きた証を、誰かに残すために。」
窓の外には、夜明け前の名古屋の街。
車の音と、遠くの救急車のサイレン。
彼の中で、現実と幻覚の境界が、ゆっくりと溶けていった。
——そして物語は、最終章へと動き始める。




