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『境界線の夜明け』  作者: キロヒカ.オツマ―


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第32章 告発の行方



USBメモリの中のファイルをすべて複製し、暗号化して外付けディスクに保存したのは夜明け前だった。

山崎は疲労で指が震えるのを感じながら、もう一度画面を見つめた。

そこに並ぶファイル名――「研究助成金」「被験者選定リスト」「桐島玲奈_死亡経緯報告」。

どれもが、現実を壊す力を持っていた。

同時に、持っているだけで「人生が終わる」ほど危険なものでもあった。


午前9時。

名古屋市役所の庁舎。

庁内メールの受信ボックスに、厚生労働省の通達が届いた。

件名:《β計画に関する行政情報の管理徹底について》。

内容はこうだった。


「本研究に関しては、関係者以外への情報提供を厳に慎むこと」

「取材や問い合わせがあった場合は、担当部署を通さず回答しないこと」

「SNS等での情報発信は服務違反に該当する場合があります」


山崎は背筋を伸ばした。

“封じられた”のだ。

行政という巨大な装置が、ひとりの人間の真実を押し潰そうとしている。

直人の死を知りながら、誰も声を上げない。

同僚たちは何事もなかったかのように、端末の前で申請データを処理し続けている。


昼休み。

彼女は市役所裏の喫煙所にいた。

手にしたスマートフォンには、フリーの記者・高木の名前がある。

以前、生活保護制度の改正を取材したことのある記者だ。

――告発するなら、今しかない。

迷いながら通話ボタンを押す。


「……山崎さん? 久しぶりですね。どうしました?」

「β計画って知ってますか?」

「厚労省の研究助成のひとつですよね。詳細は……非公開ですが」

「非公開にされてる理由を知ってますか? あれ、研究じゃない。人体実験なんです。」


通話の向こうで、息をのむ音がした。

「証拠は?」

「あります。USBに全部。行政と医療法人の契約書、死亡報告書まで。」

高木は数秒沈黙し、低く言った。

「……それ、今ここで言うのは危険です。会いましょう。今日の夜、栄の地下喫茶〈ルシア〉で。」


午後、山崎はUSBをバッグに忍ばせたまま、平静を装って業務を続けた。

だが、帰り際、庁舎のロビーで一人の男が声をかけてきた。

「山崎さんですね。厚労省・地域医療研究推進室の中里です。」

グレーのスーツに、無機質な笑顔。

「β計画の資料をお持ちと伺いまして。回収に参りました。」


――なぜ、知っている?

背筋に冷たいものが走る。

「そんな資料、私は――」

「隠さなくて結構です。これは“行政間の誤送信”として処理できます。今なら。」

淡々とした口調に、言外の圧が潜んでいた。

「もし外部に出れば、守秘義務違反。あなたの職も、生活も、終わります。」


山崎は沈黙した。

バッグの中のUSBが、重く感じられた。

ほんの数秒の間に、頭の中でさまざまな計算が回る。

――告発しても、消される。

――でも、黙っていれば、直人の死は無駄になる。


やがて、彼女は小さく微笑んだ。

「……わかりました。渡します。」

バッグを開け、黒いUSBを取り出した。

中里は満足げに受け取り、名刺を置いて去っていった。


だが、彼がビルを出た瞬間、山崎はデスク下の古いPCを起動させた。

――二つある。

本物のUSBは、彼女の家の金庫の中だ。

渡したのは、外装を同じにしたダミー。

直人の手口を、彼女も引き継いでいた。


夜。

栄の喫茶〈ルシア〉。

山崎は小さなテーブルに座り、冷めたコーヒーを前にしていた。

待ち合わせの時間を30分過ぎても、高木は現れない。

店員が気まずそうに「そろそろ閉店でして」と声をかける。

彼女は頷き、外に出た。

夜風が冷たい。

ふと、スマートフォンに通知が届いた。


《この通信は監視されています。βを止めろ。》


顔から血の気が引いた。

周囲を見回す。

誰もいないはずの路地裏に、黒いワゴン車が止まっている。

エンジン音。

ドアがゆっくりと開く。


彼女はバッグを抱きしめ、反射的に走り出した。

信号の赤が街を染める。

胸の奥で、ひとつの声が聞こえた。

――直人が、まだどこかで見ている。

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