第31章 沈黙のメール
名古屋市中区役所・福祉課。
朝の蛍光灯がまだ冷たい光を放つ中、山崎亜紀(42)は一通の封筒を開けていた。
無地の茶封筒。差出人欄は空白。
中には、黒いUSBメモリと小さなメモ用紙。
《証明は終わらない。》
それだけが書かれていた。
数秒間、心臓の音だけが響いた。
――彼だ。
直人が最後に自分へ向けて送ったものだと、直感で分かった。
封筒の消印は「千種郵便局」。
直人が転落死したのも、同じ区内の廃ビルだった。
公式には“自殺”として処理された事件。
彼の死亡記事は数時間で削除され、SNS上でも話題にはならなかった。
「精神障害者の孤立死」という一行で、社会はすべてを片づけた。
だが、USBを開いた瞬間、画面に現れたフォルダ名がその“公式記録”を覆した。
《β_Keikaku》《被験者リスト》《研究費_流用》《死亡例_内部報告書》。
どれも行政機関と医療法人の連携を示すファイルだった。
しかも、改ざん防止のための電子署名付き。
偽物ではない。
山崎は震える手でマウスを握った。
ファイルを開くたびに、息が浅くなる。
――これが、あの男が命をかけて残した“証拠”なのか。
最初のファイルには、こう書かれていた。
《β計画とは:精神・発達障害者の社会的自立支援プログラムとして申請された実験的研究。対象者は低所得層、生活保護受給者、社会的孤立者を主とする。目的は新規向精神薬の臨床データ取得。》
つまり、“支援”の名を借りた人体実験。
しかも、それを支援していたのは行政自身――福祉課、彼女の職場でもあった。
背筋に冷たいものが走る。
自分が日々押していた“生活保護支給決裁”の電子印が、実はその「研究対象者」選定の基準にも使われていた。
その仕組みを知らない職員は、誰も疑わない。
だが、システムの中では“人”が“データ”に変えられていた。
彼女は椅子を蹴って立ち上がった。
「どうして……あんな優しい人が、こんな形で消えなきゃならないの……。」
夕方。
山崎は外勤の名目で市役所を出た。
向かった先は、直人が最後に通っていた「市立中村メンタルクリニック」。
受付で名前を告げると、職員が少し戸惑った顔をした。
「……ああ、小川さんの件ですね。記録はもう、すべて本庁に引き渡しました。」
「どこの部署に?」
「厚生労働省の、ええと……“地域医療研究推進室”とか、そんな名前でした。」
その瞬間、背筋に確信が走った。
β計画は、まだ続いている。
直人の死で終わったのではなく、“体制が守られた”だけなのだ。
夜、帰宅した山崎は、古いノートに一行を書いた。
《すべてを明るみに出す。それが、私にできる彼への弔い。》
ペンの跡が震えている。
彼女の目には涙が滲んでいたが、その奥には確かな光が宿っていた。
遠くでスマートフォンが鳴った。
見知らぬ番号からの着信。
画面には、ただ一言だけ表示されていた。
「βは止まらない」
山崎は静かに息をのんだ。
そして受話器に手を伸ばした――。




