第30章 報われぬ証明
夜の名古屋市千種区。
郊外の廃ビルの屋上に、直人は立っていた。
足元の床には、散乱した書類とノートパソコン。
そこに映っているのは、彼がこれまで集めたすべての証拠――
「β計画」の裏帳簿、研究助成金の虚偽報告書、桐島玲奈の死に関する内部メール。
どれもが確かな“証明”だった。
だが、どこへ出しても潰される。
警察も、厚労省も、マスコミも、すでに沈黙していた。
直人は、スマートフォンを取り出した。
画面には、唯一信じていた刑事・長谷川の番号。
通話ボタンを押すと、すぐに繋がった。
「……小川か。どこにいる?」
「もうすぐ終わるところです。あんたにだけは、全部見てほしかった。」
彼の声は、妙に穏やかだった。
「データは全て暗号化してあります。パスは、玲奈の誕生日と俺の番号を足したもの。」
「おい、何をする気だ。小川!」
「これは俺の証明です。誰も、俺たちを“なかったこと”にはできない。」
通話が途切れた。
風が強く吹き、パソコンの画面が明滅する。
その瞬間、下の階から足音がした。
「小川直人! そこを動くな!」
捜査員たちの声。
ビルの入り口を突破した彼らのライトが、階段を照らす。
直人は柵の縁に立った。
下を見下ろすと、夜の街の灯りが点々と続いていた。
玲奈と初めて出会った街も、あの時と同じ光を放っている。
「玲奈……俺、ちゃんとやったよ。」
その呟きは風に消えた。
だが次の瞬間、別の音が響いた。
――携帯の通知音。
画面には「転送成功」の文字。
彼が最後に送信したのは、β計画の内部記録と研究者の署名入りデータだった。
送信先は、彼がかつて夜間相談所で出会った福祉課の女性――山崎。
彼女だけが、最後まで「人としての目」で直人を見た。
足音が近づく。
「やめろ! まだ終わってない!」
刑事・長谷川が叫んだ瞬間、直人は振り返った。
笑っていた。
まるで、すべての恐怖から解放されたような笑み。
「これで、やっと……届く。」
光と闇の境目で、彼の体が前へ傾いた。
風が鳴き、紙が舞った。
その一枚が、玲奈の写真を挟んだ報告書の切れ端だった。
《桐島玲奈 死亡:β計画関連事故》。
翌朝、全国ニュースのテロップに短い一文が流れた。
「名古屋市で男性転落死 医療機関の不正資料を送信か」
報道はすぐに削除され、検索しても出てこなくなった。
だが、同じ頃――匿名のデータが複数のメディアと大学に同時送信されていた。
「β計画」の存在は、その日を境に、少しずつ世間に滲み出し始めた。
数週間後。
山崎の机の上には、一通の封筒が置かれていた。
差出人不明。中には、古びたUSBとメモ紙。
《証明は終わらない。》
署名のない文字。だが、筆跡は確かに直人のものだった。




