第29章 報告書の中の死
朝の光が、区福祉事務所の小さな窓から差し込んでいた。
前夜、薄い毛布にくるまって眠れぬまま過ごした直人は、職員の呼び声で目を覚ました。
「小川さん、警察の方が少しお話を伺いたいそうです。」
応接室のドアを開けると、警察手帳を下げた中年の刑事が待っていた。
名刺には「愛知県警中村署・生活安全課」と印字されている。
「桐島玲奈さんの件でね。君、最後に会ったのはいつだ?」
直人は数秒、言葉を探した。
「……2週間前。あの夜、研究棟の前で別れたきりです。」
刑事は小さくうなずき、鞄から書類を取り出した。
「これは、警察の検視報告書の概要。君の関係を確認するため、署で正式に話を聞きたい。」
紙の上に打たれた印字は無機質だった。
《桐島玲奈(28) 遺体発見日:令和7年9月14日 場所:名古屋市港区埠頭地区倉庫内 死因:薬物中毒(大量服用による急性中毒)》。
「自殺の可能性が高い」と小さく添えられている。
――息が止まった。
直人の頭の中で、あの夜の声が蘇った。
「直人さん、もし私がいなくなったら……」
あれは冗談じゃなかった。
そして“いなくなった”のではなく、“消された”のだという確信が、胸の奥で膨らんだ。
「……自殺じゃないと思います」
直人は震える声で言った。
刑事は無表情のまま、淡々と答えた。
「気持ちはわかるが、現場に外傷も争った形跡もなかった。服薬量は致死量を超えていたが、指紋は彼女自身のものだ。」
そして書類をしまいながら言った。
「ただし、彼女の勤務していた医療法人の帳簿に、少し妙な点がある。β計画って言葉、知ってるか?」
直人の体が反射的に強張った。
刑事はその反応を逃さなかった。
「やはり、知ってるんだな。」
取調べ室でもない狭い応接間で、二人は数分の沈黙を共有した。
その間、古いエアコンの音だけが響いていた。
刑事は立ち上がり、低い声で言った。
「上の指示で、この件は“個人の自死”として処理される。これ以上の調査はできない。……だが、俺たちも全員が納得してるわけじゃない。気をつけろ。お前、見られてる。」
その言葉を最後に、刑事は去った。
扉の閉まる音が、遠くの世界の出来事のように響いた。
――報告書の中の死。
彼女の人生は、数行の活字と判子で終わりとされた。
そこに血の温度も、声の震えも、残っていない。
ただの数字の羅列に、全てが置き換えられていた。
午後、福祉センターの担当職員が手続きを進めに来た。
「生活保護の再申請、今月中に通ると思います。それまで簡易宿泊所で過ごせますよ。」
職員は穏やかに言った。
だが、直人の心には何も響かなかった。
世の中の仕組みは、こうして淡々と動いていく。
誰かが死のうと、誰かが消えようと、申請と承認と印鑑のリズムは変わらない。
夜、直人はセンターを出た。
名古屋の夜風が、街の埃と排気を混ぜて肌を刺した。
ポケットの中の紙切れを握りしめる。
それは、桐島玲奈の《死亡診断書控》。
病院の署名欄には、β計画に関わる医師・安原の名前があった。
「……やっぱり、繋がってる。」
直人の中で何かが音を立てて崩れた。
そして、代わりに静かな怒りが芽生えた。
誰も彼を信じない。
だからこそ、彼自身が立ち上がるしかなかった。
――玲奈の死の真相を、自分の手で暴く。
その決意が、彼の運命を決定づける一歩となる。
彼は夜の街に消えていった。
再び、誰も知らない場所へ。
そして、β計画の“裏側”を暴く旅が、ここから始まった。




