第28章 断絶の街
夜の名古屋駅前。
雨上がりの路面に反射するネオンの光が、濡れたアスファルトを血のように染めていた。
直人は、白衣姿の研究員に腕を掴まれたまま、ビルの地下通路を歩いていた。
「β計画」の記録を見た直後から、周囲の空気は明らかに変わっていた。
誰もが無言。
無表情のまま、ただ彼を「被験者」として扱っているように見えた。
地上に出た瞬間、冷たい風が頬を叩く。
だが、外の空気に触れたのは数日ぶりだった。
研究棟の外に出られる許可など、彼には与えられていなかった。
その自由の感覚が、同時に恐怖を呼び覚ます。
「逃げろ」という声と、「逃げられるわけがない」という声が、頭の中でぶつかり合っていた。
直人の発達障害の症状は、緊張や環境の変化で顕著になる。
強い光と音に過敏な反応を見せ、視界が揺らぐ。
通行人の話し声が、罵声のように聞こえた。
ビルのLEDサインが閃光のように目を刺す。
彼は耳を塞ぎ、うずくまった。
「……やめてくれ。誰も責めてない、そんな目で見るな……!」
通りすがりの人々が足を止めたが、誰も声をかけなかった。
「またか」
「最近こういう人多いな」
冷たい視線だけが降り注いだ。
その時、背後から声がした。
「大丈夫ですか?」
小さな声だった。
顔を上げると、保健師の身なりをした中年の女性が立っていた。
「どこかに帰るところはありますか?」
直人は一瞬ためらい、首を横に振った。
「少し休みましょう。ここ、福祉センターの夜間相談所です」
彼女に連れられて入ったのは、駅裏にある区の福祉事務所の別棟だった。
消毒液と湿った毛布の匂いが漂う部屋。
カウンターの奥には、ケースワーカーらしき若者が書類を整理していた。
「この方、行き場がないようで……」
保健師の女性が事情を説明する間、直人は壁のポスターを見つめていた。
《心の病は一人で抱えないで》
《相談無料・匿名OK》
その文字が、どこか遠くの国の言葉のように見えた。
やがて、若い職員が椅子を持ってきた。
「お名前は?」
「……小川直人」
「住所は?」
「……ない」
「身分証は?」
「……研究所に取られた」
職員の手が一瞬止まった。
だがすぐに、淡々とした口調で言った。
「とりあえず今夜はここで休めます。ただし、明日の朝、生活保護の再申請の手続きをしましょう。あと、医療機関の紹介も」
直人は小さくうなずいた。
しかし、彼の心にはある確信が芽生え始めていた。
――自分はもう、「社会の中の一人」ではない。
――自分は、何かの「実験体」として扱われている。
彼の幻聴は、その確信をさらに強めた。
「見られてる」「記録されてる」「戻れない」
誰の声か分からない低い囁きが、頭の奥で途切れ途切れに鳴り響く。
彼はこめかみを押さえ、叫びを飲み込んだ。
外では、遠くでサイレンが鳴っていた。
桐島玲奈が「行方不明」になってから、すでに一週間が経っていた。
警察の捜索は続いていたが、進展はなく、報道も次第に下火になっていた。
だが、直人は知っていた。
彼女の行方が「β計画」と繋がっていることを。
――いや、もしかすると、彼女はもう……。
夜が明けるころ、直人は布団の中で静かに呟いた。
「俺が……暴く。全部、暴いてやる」
彼の目に、かつてない光が宿っていた。
その光は脆く、危うく、だが確かに――覚醒の始まりを示していた。




