第十二章 厚生統合局
午前十時、名古屋市千種区・東山公園駅近く。
小雨の降る中、三浦沙耶は傘を差しながら小さな喫茶店の扉を押した。
奥の席には直人がいた。
不安げに周囲を見渡しながら、指先でコーヒーカップを回している。
「……徹夜で調べた。例の“希望の灯”は、厚生統合局の外郭団体や。」
彼が差し出したのは、ネットカフェでプリントアウトした資料の束。
「助成金、雇用促進交付金、委託費……全部“名義”だけ変えて金が動いてる。」
沙耶は無言で目を通した。
実際にあり得る、現実的な数字が並んでいた。
年度ごとの交付額、監査対象外となった支出、関連法人の所在地。
その一部は、名古屋市役所内の特定部署を経由していた。
「厚生統合局……表向きは省庁再編の“統合モデル”やけど、実態は天下り官僚の利権集団ね」
彼女は静かに言った。
「厚労省・内閣府・経産省、それぞれの余剰予算を“委託研究”として吸い上げる仕組み。
NPOや民間施設を噛ませることで監査が入らない。……完全に出来上がったシステム。」
直人は黙って頷いた。
「俺らみたいな“支援される側”が、数字にされとるわけやな。
再就職一件につき、30万円。精神障害者一人雇用で100万円の助成。
俺、桐島さんに雇われたとき、名前だけで登録されたんや。」
「名前だけ……?」
「実際は働いてない日も“出勤”にされてた。
俺の分の給料なんて半分も来てへんのに、国からは満額支払われとる。」
沙耶は深く息を吐いた。
「それが“希望の灯”の正体よ。
福祉と雇用を名目に、障害者や生活困窮者を“書類上の人間”にすることで金を回す仕組み。」
彼女はノートパソコンを開き、厚生統合局の公式サイトを見せた。
【共生社会推進モデル事業】
心身障害・生活困窮・高齢者等を対象とした包括的就労支援を推進します。
「この“共生社会モデル”、内閣官房の資料にも載ってる。
でも実際の現場では、“モデル”という名目で法的監視が外される。
つまり——実験してもバレない。」
「実験……」
直人はその言葉に反応した。
「桐島さんが言ってた“βプログラム”って、たぶん……ここでの実地研究のことやと思う。
障害者支援を装って、精神薬の新しい適応データを取るとか……そんな話もあった。」
沙耶は顔を上げた。
「つまり、“希望の灯”は福祉じゃなくて、厚生統合局の臨床データ収集機関だった。
企業と政治家が絡む医療ビジネス——再犯防止、就労訓練、精神薬、全部繋がる。」
直人は苦く笑った。
「結局、俺らみたいなもんが“人柱”やな。国のための数字。」
しばらく沈黙が続いた。
喫茶店のテレビでは、昼のニュースが流れている。
《豊田市の研究所火災、放火の疑いで捜査中。逃走中の男は——》
直人の顔写真が映った。
店内の空気がわずかにざわつく。
沙耶はすぐにテレビを背に座り直し、静かに囁いた。
「……もう表には出られないわ。
でも、あなたが持ってるUSBが“国を揺るがす証拠”になるかもしれない。」
「警察に出したら……潰されるやろ。」
「そう。だから“警察の外”に出す。」
彼女は小さな名刺を差し出した。
【中日新聞・社会部記者 葛城真】
「彼は、過去に『生活保護ビジネスの闇』を追って干された記者。
今は独立系ネットメディアをやってる。
信用できるとは言い切れないけど、政府よりはマシ。」
直人は迷った。
(俺なんかが、国に喧嘩売ってええんか……)
だが、そのときふと脳裏で“声”がした。
「これはお前の戦いじゃない。皆の声を、代わりに叫べ。」
直人はコーヒーを飲み干し、静かに頷いた。
「……やろう。逃げるんはもう飽きた。」
沙耶は口元だけで笑った。
「そう言うと思った。
でも気をつけて。——厚生統合局には公安上層の連中も絡んでる。」
「公安……?」
「つまり、私の上司。
私たちは、もう完全に“裏切り者”よ。」
その瞬間、喫茶店の外に黒い車が止まった。
スーツ姿の男が二人、無言でドアを開ける。
沙耶は小声で言った。
「走って。」
直人が振り返ると、男たちがすでにこちらを見ていた。
無表情。官僚のようで、警官のようでもある。
二人は裏口から店を出て、細い路地を走った。
遠くで無線の声が響く。
「対象移動。確保に向かう。」
息が切れる。
直人の頭の中で、再び“声”が囁く。
「これは、もう国の病気だ。治療は——暴露しかない。」
彼はポケットの中のUSBを握りしめた。
冷たく、確かな現実の重み。
それは、彼が初めて自分の意思で掴んだ“生”だった。




