第十章 長谷川研究所
国道一号線を南下する夜行バスの窓から、直人はぼんやりと街の灯を見つめていた。
USBは胸ポケットに隠してある。
心臓の鼓動が、その小さな金属の温もりに反応するように波打つ。
——豊田市・山間部。
バスを降りると、夜の冷気が肌を刺した。
その先に、灰色のコンクリートに囲まれた無機質な建物が見える。
門には「長谷川神経医科学研究所」の看板。
桐島のメモに記された場所だ。
守衛はいない。
ただ、監視カメラの赤い光がこちらを睨んでいた。
直人は躊躇いながらもフェンスを越えた。
足元には、錆びた研究機器の残骸、崩れたポスター。
かつてここが“国のプロジェクト”の拠点だったことを示していた。
希望の灯 プロジェクトβ
——精神的再生による労働復帰支援プログラム
壁に貼られたその文字を見た瞬間、直人の頭の中で“音”が鳴った。
——ザザ……ガガガ……という電波のようなノイズ。
「またか……!」
頭を押さえる。
耳の奥で“あの声”が囁く。
「ここで作られたんだ。君の“ような人間”を、使うために。」
「社会の隙間を埋める駒として、ね。」
直人は息を呑んだ。
過去の断片がフラッシュバックのように流れ込む。
——白い部屋。
——電極をつけられた子どもたち。
——医師の笑い声。
(俺は……見たことがある。ここに……いたのか?)
視界が揺れ、廊下の向こうに誰かの影が見えた。
白衣を着た男。
背が高く、顔の半分がマスクで隠れている。
「待て!」と声をかけるが、男は無言で奥へ消えた。
直人は追いかけ、研究室の扉を開ける。
中は静まり返っていた。
机の上には古いノートパソコン、そして、山積みの書類。
その一枚に目が止まる。
【対象個体No.0049 加瀬ナオト】
精神発達遅滞・感情統制困難・幻聴傾向
「βプログラム適合」
手が震えた。
——自分の名前。
——自分の症状。
——“プログラム適合”。
つまり、自分は「被験者」だった。
USBを挿し込むと、パソコンの画面が自動的に点いた。
動画ファイルがひとつ。
「test_0049.mp4」
再生すると、映ったのは若い桐島の姿だった。
彼女は白衣姿で、カメラの前に座っている。
「もしこの映像を見ている人がいるなら——あなたは『β』の被験者です。
この研究は“希望の灯”の名を借りた国家実験。
精神障害者に特定の音波を与え、従順化・労働適応を促す“社会調整計画”です。」
映像がノイズで歪む。
桐島の表情が崩れ、最後の言葉だけがかすかに残った。
「——もしあなたが加瀬直人なら、逃げないで。あなたは“失敗作”じゃない。」
画面が暗転する。
直人はしばらく動けなかった。
“失敗作”——その言葉が胸を刺した。
自分は国に“造られた存在”なのか?
それとも、ただの幻覚か?
だが確かに、USBも、研究所も、桐島の声も、現実にあった。
「見ただろう。君の生は、設計されたものだ。」
再び“声”が響く。
もはや恐怖ではなく、どこか懐かしい響き。
——それは幼い頃、施設で聞いた“もう一人の自分”の声に似ていた。
直人は立ち上がり、パソコンを抱えた。
「だったら……俺がこの“実験”を終わらせる。」
建物を出ると、朝焼けの光が山の向こうから差し込んでいた。
夜明け。
だが、直人にとっては新たな闇の始まりでもあった。
遠くで、車のエンジン音がする。
黒い車がゆっくりとこちらへ向かってくる。
ナンバープレートには「名古屋公安局」の文字。
彼は、もはや“逃亡者”ではなく、“告発者”となっていた。




