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前編

 西船橋はいやらしい街ですよ。

 どうしてかって? 答えは単純明快。駅の真正面、改札を出て数十歩という距離に、堂々とラブホテルが二軒も鎮座しているからだ。ホームの端に立てば、否が応でも目に飛び込んでくるその姿をちらりと見れば、まるでこちらを嘲るかのように、ネオンがぬらぬらと妖しく光っているじゃありませんか。

 あの怪しさ満点の建築物が、駅の目と鼻の先にあるだなんて……嗚呼、正気の沙汰じゃない!

 仮に俺がこのラブホテルの経営者だったら『日本初! 駅直結のラブホテル!』なんて宣伝文句を打ってSNSでバズりを狙っているところだった。我ながら、なんて破廉恥極まりない文字列なのだと驚嘆する。このキャッチコピーを目の当たりにして、まともな精神状態でいられる人間が果たして何人いるだろうか。いや、いるはずがない。いてたまるか。

 そして、俺は今まさに、そのラブホテルのひとつを下から睨みつけている最中だった。忌々しさと悔しさと、そして、ちょっぴりの劣等感がないまぜになった、極めて複雑な感情の発露とともに。

 そもそも、ここに至るまで、様々な苦難に見舞われていた。

 なけなしのバイト代を増やすために向かった聖地中山における激闘の末、財布には硬貨が数枚、紙幣は一枚もなし。一文無しの一歩手前にまで成り下がった。

 つい数時間前まで握りしめていた馬券は、赤線でバッサリと切り捨てられ、見事に紙屑と化した。ハナ差で夢破れた三連単二頭軸マルチ。あれは、最後の希望だったのだ。自信の本命馬がまさかの四着だなんて……さすがにおかしい。作為的なものを感じる。まさか、主催者側が俺の思考をジャックしている……? それはマズイぞ。次に挑む時は、きちんと頭にアルミホイルを巻いて対策しなくては!

 なんておふざけはともかくとして、結果、俺は帰りの電車賃すら失い、徒歩で自宅を目指す羽目になった。

 そして、ようやく中継地点である西船橋駅にまで辿り着いたと思ったら、目の前に聳え立つのが、よりにもよってラブホテルとは……踏んだり蹴ったりではないか!

 我、未だ乙女の柔肌を知らず故、ラブホテルとの相性の悪さは筆舌に尽くしがたし。

 そうなんですよ……今年で二十四歳になるというのに、あの建物の仕組みすら、ろくに理解していないのですよ。『休憩』とか『フリータイム』だとか、意味はなんとなく想像がつくが、具体的に何がどうなっているのかはまったくわからない。料金体系もピンとこないし、それこそ今まさに表に貼られた看板に『食事』とか書かれているのを見て「ええ……ラブホテルって食事もとれるの……?」と新鮮な驚きを獲得したくらいには事情に疎かった。

 少なくとも、俺のようなハミ出し者が足を踏み入れていい世界ではない気がする。いや、好きでハミ出しているわけじゃないんですけどね……なんかいつの間にかハミ出ていた。「何もしていないのに壊れた!」とかクレーム入れる阿呆ユーザーか何かかな?

 みんなは自然に彼女をつくって、自然に手をつなぎ、自然に『初体験』などというイベントをクリアしているみたいですが、俺にはその手順がどうにも掴めずにいる。だって、教科書もなければ、マニュアルも存在しないじゃないですか。受験のように、やれば報われる世界ではないことは薄々気づいているものの、どう動くのが正解であるのかは未だにわからずにいる。

 それでも、せめてスタート地点だけでも教えてほしかった。なんならチュートリアルが欲しかった。そして、相手も欲しかった。さすがに至れり尽くせり過ぎやしないか? と各方面から怒られそうであるが、俺にとっちゃあそれくらい無理難題なのですよ。ミレニアム懸賞問題に挑む方がまだ難易度が低い。

 ってなわけで、いまだに俺は、恋愛という競技のグラウンドにすら立てていなかった。球拾いどころか外周しかさせてもらえない。一年生はいつまで基礎体力つけてりゃいいんですか、先輩?

 だからといって俺には「へへっ……自分、童貞なんすよ」と自虐気味に開き直る勇気もなく、誰かが恋バナを始める度に、話題を逸らすか、曖昧な相槌を打つしかない。「そういえば、佐藤って何年くらい彼女いないの?」「アッ、ソッスネ。サンネンクライッスカネ」「なんかずっと三年から更新されてなくないか……?」となるのがお決まりの展開であり、言わなくてもバレるなら、いっそ言ってしまった方がマシなのでは? と日々悶々としているがこの臆病な自尊心と傲慢な羞恥心が邪魔をしている。このままじゃ虎になりかねないよ……。

 嗚呼、眼前のラブホテルのネオンが、ますます眩しく見えてくる。

 俺を拒絶するような、あるいは誘い込もうとするような、どちらともつかぬ輝き。いや、俺なんかを誘い込むわけはないので、前者確定なのでしょうね……あ! 今、ちょうど妙齢の男女が入って行った! くそったれ、アイツらは虫確定だぜ、けっ!

 ひとしきり悪態をついたあと、ハァとひとつ溜め息をつく。

 心が寒々しかった。

 誰にも必要とされていないような、取り残されたような、そんな感覚に苛まれる。財布も空っぽ、心も空っぽ。そんな絶望的な状況下では、あの不健全極まりない建築物が、よりいっそう俺を追い詰めるのだ。

 結論、俺は西船橋が嫌いだった。蛇蝎の如く嫌いだった。

 アイヘイト西船橋。

「……帰るか」

 誰にでもなく呟いてから、ラブホテルに背を向けて、夜の繁華街を歩き始めるのであった。

 トボトボとした力ない歩調で……。

 

 ネオンの看板が目に痛い、けばけばしい通りを、ひとり抜けていく。

 どこかの飲食店から漏れてくる笑い声や、道行くカップルのくすくすとした会話。そのどれもが、まるで俺をバカにしているように聞こえてくる。それは孤独と恥と屈辱が見事なスクラムを組んで勢いよくぶつかってくるようなものであり、こうなっちまえば、もうどうにでもよくなるのが人間ってもんだ。

 というわけで、気づけば、コンビニのレジでプライベートブランドのストロングチューハイを購入していた。

 レジ係のバンドマン風のバイトくんは終始無言であったが「ザ・底辺って感じの生き方っすね」とでも言いたげな目で小銭を渡してきた気がする。けっ、モテそうなキミにはわからんかもしれないがな、底辺ってのは、てえへんなんですよハイ。

 そして、数枚の小銭しか残っていなかった財布がついにその役目を終え、ぺったんこになってしまった。中身も、希望も、もう何もない。俺の人生、いよいよ残弾ゼロってやつだ。このストロングチューハイもゼロってやつだ。

 コンビニから少し歩いた人気のない通りで、表面にはうっすらと汗が浮かんだそれを一息にあおる。炭酸が喉を駆け下り、胃の奥で何かが爆ぜたような気がした。じんわりと、アルコールが血流に乗って脳へと回っていくのがわかる。

 酒ってのは、合法的に阿呆になれる薬だ。

 それで得られるのは、ささやかな高揚感か、あるいはしんとした虚無感か。いや、もはやそんな選択肢すら、どうでもいい。今の俺にわかるのは、人生という名のレースで完全に周回遅れになっているという現実だけだ。

「……マジで、人生、詰んでますな」

 独り言は、当然ながら誰にも届かない。唯一反応するのは、街灯に群がる夜の虫くらいのもんだった。


 五十分近く、ひたすらに歩き続けていた。

 西船橋の喧騒はとっくに背後へと遠ざかり、街灯の数もまばらになった頃、ようやく見慣れたアパートが視界に入った。

 今夜も変わらず、薄暗く、そして醜い。

 アパートとは名ばかりのその安普請は、もうほとんど人が住んでいること自体が異常なのではないかと思わせるような佇まいだった。

 外壁のコンクリートは無惨に剥がれ落ち、所々に鉄骨が露出している。しかもその鉄骨はすっかり赤錆に覆われ、まるで血のような色をしていたし、階段の手すりには無造作にダクトテープが巻かれていた。見るからに『修繕』ではなく『延命処置』といった体裁であり「とりあえず死んではいませんよ」と必死に言い訳しているような状態であった。

 それに、耳を澄ませば、何かに怒鳴っている男の声。次いで、すすり泣く女の声。そして、どこからかアダルトビデオの嬌声が音量マックスでかぶさってくる……。

 まるでこの建物全体が、人々のストレスと鬱屈の排出口になっているようだった。

 ──ああ、現代の九龍城はここにあったのか。

 そんなふうに思わずにはいられなかった。

 俺は酔いに任せて、空になったストロングチューハイの缶を手に取り、それをアパートに向かって掲げてみせる。敬意の表明なのか、あるいは侮辱の表明なのか、自分でもよくわからない。

「ワッハッハ!」

 酒臭い笑い声が夜の空にこだました。

 誰も反応しない。むしろ、この場所では酔っ払いの独り言など、ありふれた生活音の一部にすぎないのだろう。

 そして笑い声のすぐ後に、無意識の鋭い舌打ちが続く。

「ちくせう……」

 この腐った場所に住み着いてしまった理由はただ一つ──家賃が、馬鹿みたいに安いから。それだけだ。それだけなのに、それだけだったのに、今じゃすっかりこの九龍城が似合う男に成れ果てている。

 求職活動『さえ』まともに進めば、正社員に『さえ』なれば、この泥沼から抜け出せる可能性はいくらだってあった。だが、その『さえ』が、いつまで経っても手に入らない。

 自分の未来が、どこまでも灰色にしか思えなかった。

 このまま俺は、この廃墟の中でおっ死ぬのではないか。

 そんなふうに打ちひしがれていた時だった。

「佐藤さん」

 突然背後からかけられた声に、身体が硬直するのを自覚しながら、振り向く。

 そこには、ゆるくパーマをかけたボブカットの女性が立っていた。月明かりに照らされたその顔は、非常に整っていて、まるでどこかの美術館に飾られている肖像画のように端麗であった。

 服装は白のブラウスに黒のスキニージーンズ。シンプルながらも洗練された出で立ちであったが、その美しさに対して唯一の異物ともいえるのが、眠たげで半開きになっている瞳だった。現代の女性たちが、自身の目を大きく見せるために日々涙ぐましい努力をしている中で、彼女だけは時代に逆行しているかのようだった。

 それでも、その美しさが全く損なわれないのを見て、「美人ってのは、生きているだけでも得するもんなんですね」と僻みたっぷりの感情が噴出してきたものだから、少し自己嫌悪。

 それを必死に押し込めるために、俺はわざとらしい空咳を挟み、

「廣瀬くん」

 そう彼女の名を口にした瞬間、胸の奥が少しだけ軽くなった気がした。どん底の中にも、まだ人との繋がりがあったことに、少しだけ救われた気がしたのだ。

 廣瀬くんは「どうも、こんばんは」と短く挨拶して、

「今日は、ずいぶんと遅いお帰りですね。何か、ありましたか」

 その問いかけは、彼女特有の温度のない口調で発せられたものだったが、なぜだろう、妙に胸に響いた。

「……あったとも!」

 なので、思わず叫んでしまった。夜の静寂を破る声。近所迷惑だという自覚はあったが、もう抑えきれなかった。

「……あったとも」

 瞬間的に燃え上がった感情は、次の瞬間には萎んでしまう。

 手元の空き缶が、うなだれた拍子に地面へ滑り落ちそうになる──が、その直前で廣瀬くんがさりげなく拾い上げた。

「これ、いつもの差し入れです」

 空き缶の代わりに握らせてきたのは、パン屋のロゴが入ったビニール袋だった。袋の口からはフランスパンがにょきっと飛び出し、その下にはクロワッサンやデニッシュが詰まっていた。

「廃棄になったパンです。あまり、日持ちしないと思うので、なるべく早く食べてください」

「いや、冷凍すれば一か月は持つ。あらゆる食材は、冷凍すれば延命できるのだよ」

 口に出してみると、「はて、このアパートと似たようなものですな」と気づく。あらゆる事象は、コールドスリープさせてしまえば堕ちずにいられるのかもしれない。

 彼女はそんな俺の感傷にはお構いなしに、淡々とした口調で言う。

「さすがに一か月はキツいと思いますよ」

 あくまで穏やかに、無表情のまま、こちらを気遣って注意してくれたというよりかは、ありのままの事実を淡々と述べただけといった感じではあったが、それでも、彼女がこうして現れくれて、こうしてパンをくれて、こうして話してくれること。それだけで、たとえ一瞬でも、自分が人間でいられる気がするのだった。

「なあ、廣瀬くん。今夜は……まだ、時間あるか?」

 思いの他、心がほっこりとしたこともあり、酔いがまわった舌で問いかけてみるが、いざ口に出した言葉のその頼りなさに、自分でも少し笑いそうになった。

「まあ、ありますけども」

 対して廣瀬くんは、いつものような平板とした口調で答えた。

 俺は、彼女のその温度感が好きだった。寄り添いすぎず、突き放しすぎず。あくまでもニュートラルでいてくれることが、何よりの救いになった。

「……良かったら、俺の部屋で話さないか。今日はちょっと……いろいろと、吐き出さないとやってられないんだ。」

 まるで失恋したばかりの男みたいな言い方になってしまったが、これは本音だった。無理やり明るく見せるテンションすら、今の俺には不足している。

「はぁ」

 どうでもよさげな相槌の後、

「まあ、いいですけども」

 そんなやり取りの末、俺は彼女を部屋へと招いた。

 部屋のドアを開ければ、廣瀬くんは特に驚いた様子も見せず、すっと中へ入って行く。彼女からすれば見慣れた光景なのかもしれないが、もし、初めましての来訪者がこの部屋を見れば、かなり異様に映るに違いない。

 部屋の中は、驚くほど空っぽだった。

 家具も家電も衣服も、ほとんど何もない。なぜなら、おカネになりそうなものは、もうほとんどリサイクルショップに持ち込んで売っ払ったからだ。テレビもねえ、ラジオもねえ、車も……じゃなかった、ちゃぶ台すら無い部屋。かろうじて残っているのは、座布団代わりの古いクッションと、値段すらつかなかったボロボロの文庫本と専門書くらいだった。

 意識してないのに、いつの間にやら、ミニマリスト風の空間になっていた。

 しかし、それは精神的な清貧や美意識から来たわけではなく、ただ生活を維持するためだけの結果であった。

「……まあ、適当に座ってくれ」

 そう言いながら「座れっちゅうても、どこに座ればええねん」ってツッコまれそうだな、なんて思う。

 しかし、廣瀬くんは何のためらいもなく、部屋の隅にあるクッションを引っ張り出して、そこに腰を下ろした。その動作は、まるで事前にリハーサルでもしていたかのように滑らかで無駄がない。

 背筋はピンと伸び、両手はきちんと膝の上に重ねられている。目線は真正面。まっすぐに俺を見つめることもなければ、そらすこともない。まるで就職面接の待機時間みたいなピリついた構えだった。

 それは、この部屋の空気──貧困の匂いが染みついた空間には、あまりにも不釣り合いだった。

「……いや、もっとだらしなくしてくれよ。ちゃんとした感じの空気、嫌いなの知っているだろ」

 彼女はしばらく無表情のまま黙っていた。何を考えているのかわからなかったが、眠たげな瞳のまま、やがて「……だらしなく、ですか」とだけ応じる。

 それから、ゆっくりと首元のボタンに手をかけ、一つだけ外した。

 真っ白なブラウスの襟がわずかに開き、鎖骨のラインが覗く。彼女の肌は、蛍光灯の下でも驚くほど白くて──それが、妙に人間らしさを欠いて見えた。

 続いて、そのまま身体を横たえ、頭をクッションに預けてから、両腕と両脚をだらりと放り出す。

「こんな感じ、ですかね」

 言葉も表情も、相変わらず平熱だった。

「うーむ……ちょっと作られた感じのだらしなさなんだよなぁ……養殖モノのだらしなさというか……俺には響かないなぁ。嘘っぽいっていうか」

「意外と厳しいですね」

 彼女は横になったまま、淡々と評価を受け入れた。

 それから、廣瀬くんが身を起こしたタイミングを見計らって、俺は──おずおずと切り出す。

「……あ、そうだ。廣瀬くん。ちょっとばかし、一万円ほど貸してくれないか」

 声に出した瞬間、自分の中で何かが萎れていくのがわかった。

 なるべく軽いトーンを心がけたつもりだった。だが、言い終わる頃には喉がひりついていて、自分の声がわずかに震えていたのに気づく。

 なけなしの自尊心──それは、それこそダクトテープでつぎはぎしたような薄っぺらい見栄だったが、それすらも剥がれ落ちていく音が、たしかに自分の中で響いた。

「一万円?」

 廣瀬くんは一度だけ、首を傾げた。

 それだけだった。目を見開くこともなければ、眉一つ動かさない。喜怒哀楽のどれにも属さないような、無機質な反応。

「まあ、いいですけど。何に、おカネを使ったんですか?」

 口調こそ平らなままだったが、彼女の瞳の奥には、わずかに探るような光が宿っていた。

 まあ、何も聞かずにおカネを貸してくれる人なんて、親兄弟も含めてこの世には存在しないから、ある意味、当然っちゃ当然の質問なのだけれど、俺にはナイフのように鋭く胸に突き刺さった。

 さあ、選択を迫られたぞ。

 正直に話すか、それとも、優しい嘘で誤魔化すか。

 理性と虚栄心がせめぎ合う中──俺が選んだのは、後者だった。

「いや、なんていうか、その……農林水産省への……納税に」

 一拍。

 二拍。

 沈黙が流れる。

「……ああ、また競馬ですか」

 彼女の反応は、予想以上に冷静だった。軽蔑で目は細めることもなく、ただ一度だけ、静かに瞬きをしたくらい。

 それはまるで「はい、確認完了」と言わんばかりの、淡々とした処理だった。

「わたし、調べたんですよ」

 お決まりの前口上に、ゾッと背筋が冷たくなる。

 廣瀬くんは、何でも調べる。

 それも、単に調べるだけではなく、調べたことを噛み砕いて理解し、相手にわかりやすく伝える能力も持ち合わせている。

 そして、それを──無表情で、感情の起伏なく、淡々と語ってくるのだ。

 今回のテーマは『競馬で利益を確定させることがいかに困難なのか』だった。俺の誤魔化しの裏にある愚かさを、彼女は冷静に解剖していった。

「──というわけで、パリミュチュエル方式というのは、主催者側が予め一定の割合を控除する仕組みですから、つまり、最初から『胴元が勝つ』構造になっているのです」

 言葉は滑らかに流れた。だが、その一つ一つが針のように俺の灰色の脳を刺す。

「この仕組みが維持されている限り、長期的に見れば、やればやるほど損をしますし、統計的に収支がプラスになる可能性は……ほとんどゼロです」

 理路整然としたその説明。それはまるで冷水だった。

 氷の入ったバケツを、頭から一気にぶっかけられたような感覚。いや、違う。それはむしろ、血の代わりに知識という液体でゆっくり溺死させられているような苦しさだった。

「聞きたくない! 聞きたくない! 聞きたくない!」

 俺は両耳を塞ぎ、叫んだ。

 演技じゃない。完全に本気の叫びだった。

 自分が無知で、自堕落で、何の努力もせずに生きているゴミみたいな人間だという事実を、誰よりも冷静な声で突きつけられたその瞬間、思考はすべて逃げに向かっていた。

 耳を塞いでも、廣瀬くんの説明は頭の中でこだまし続けた。

 けれど──彼女は、動じない。

「佐藤さん」

 その呼び方もまた、いつも通り。

「耳を塞いで、目を逸らしても、現実は変わらないですよ」

 その一言は、まるで氷の粒を声に混ぜて喉元へ流し込まれたようだった。

 冷たい。でも、不思議と痛くはない。ただ、じわじわと全身の温度を奪っていくような冷たさだった。

 いつもの声で、いつもの調子で。

 何ひとつ乱さず、ただ淡々と──それでいて容赦なく。

 まるで、看護師が点滴針を淡々と刺すような冷静さで、現実を注入してくる。

 俺はしばらく、両耳を塞いだまま、床にうずくまっていた。

「うう……ひどい、ひどすぎるよ。クズ人間に現実を突きつけることが、拷問にも等しい所業であることを、廣瀬くんはまだ理解していないな……」

 目を閉じても、耳を塞いでも、現実はそこにある。

「……ああ、なんだってこう、世界ってものは、ままならないんだろうな」

 立ち上がるでもなく、寝転がるでもなく、俺はただ、部屋の隅でぺたりと畳に座り込み、ぼそぼそと愚痴をこぼした。

「この世界は俺に優しくなさすぎる。社会のバリアフリー化なんて、ぜんぶ嘘っぱちさ。俺にとっちゃあバリアーだらけの世界にしか見えないね。特に、西船橋がそうだよ。駅前にあんな、いやらしいラブホテルを建てるだなんて……しかも二軒も! ああ、嫌だ嫌だ。俺はね、船橋市民として恥ずかしいですよ。市のブランドイメージってもんがあるじゃないですか。あんな破廉恥な建物は行政で規制すべきだ! 嗚呼、忌々しい……」

「ラブホテル?」

 その言葉を拾ったのは廣瀬くんだった。小首をかしげて、特に感情を込めるでもなく、ただ淡々と確認するような調子でつぶやいた。

 ドキリとする。

 女子の口からラブホテルだなんて卑猥な単語を聞いてしまったことによる生々しいドキドキと、よりにもよって廣瀬くんに性的な話題を振ってしまったという後悔のドキドキ。いろんな意味でのドキドキが、胸の内で渋滞を起こしていた。

「いや、その……ラブホテルというのはね……違うんだ、俺は、あの建築物を親の仇のように憎んでいるものだから……ああいうのを見ると、こう、ちょっと正気を保てなくなるっていうか……」

 あとから思えば、たとえ不格好でも、ここで話をぶった切ればよかったのだ。

 ここで無理やり本日の天気(もう夜だけど)についてでも話題を切り替えてしまえば、すべては丸く収まった。俺の中にわずかでも自制心が残っていれば、話はそれで終わりだった。

 だが、酔いと疲労と鬱屈とが脳の回線をショートさせていたこともあり、俺は愚かにも、言葉を止められずにいる。

「知っているか、廣瀬くん……ラブホテルってのはね、食事がとれるらしいんだよ、食事が」

 彼女は頷きもせず、ただ静かに聞いていた。俺のくだらない妄想を、まるで録音するかのように。

「それにしたって、どうやって食事を運ぶんだろうね? スタッフが部屋まで来てくれるのかな? でもさ、気まずくならないのかな? なにせ、これから性的な行為に及ぼうって空気が充満している部屋の中だよ? 見知らぬスタッフさんと顔を合わせたりしたら、さすがに気まずくなるじゃん。あ、コイツらこれからエッチなことをするんだなって目で見られるわけじゃん。そしたら、さすがに食事どころじゃないと思うんだがな……あ、もしかしたら、某ファミレスみたいにネコ型の給仕ロボットが運んでくれるのかな? お届けしましたニャ! とか言ってさ……そっか、なるほど。やっぱネコ型だよな。ネコ型だよ。ネコ型なら許せるかも……」

 俺は、何を話しているのかもうわからなくなっていた。言葉が勝手に口をついて出る。誰かに止めてほしかった。でも、誰も止めてくれなかった。

「廣瀬くんは、さ……その辺の仕組みって、知っていたりする?」

 俺の純度百パーセントのセクハラ質問に、彼女はほんのわずかに瞬きをして、

「いえ。よくわからないです。ラブホテル、行ったことないんで」

 ……おお。

 廣瀬くん、行ったことないんだ……ラブホテル。

 なんというか、それを聞いて俺は妙な安堵を覚えてしまった。

 いや、別に彼女の純潔がどうとか、そういうのは本質的にはどうでもよくってだな、問題の焦点は、自分の中で勝手に膨らんでいた『廣瀬くんはとんでもなく高みにいる』というイメージが、少しだけ霧散したという事実だった。彼女は、何事においてもスマートにこなしてしまう人なので、恋愛面においても、俺のかなり先を突っ走っているのだと思い込んでいたが、意外とそうでもないらしい。

 もっとも、二十二歳という廣瀬くんの年齢を考えれば、さすがにもうやることはやっているのだろうけど。それでも、あの邪悪な建築物に足を踏み入れたことがないという事実はいくらか好感が持てた。

 案外、彼女ほどの美人さんともなれば、ラブホテルなんてものは利用しないのかもしれない。ほら、ラブホテルって、世間的にも低俗な印象が付き纏っているじゃないですか。付き纏っているよね? 芸能人の不倫とかバレるのって、たいていラブホテルからじゃないですか。だから、廣瀬くんみたいなタイプの人々はあまり足を運びたがらず、もっと高級なホテルとか? リゾートとか? それとも自宅? ……いや、考えるな考えるな考えるな。

 俺はラブホテルの話を広げたいんじゃないんだ。今はそんな話をするべきじゃないんだ。

「佐藤さんは、どうしてラブホテルに興味があるんですか?」

 ──だが、あろうことか、その話題をさらに引き伸ばそうとしたのは廣瀬くんだった。

 ゆるいパーマのかかった黒髪をくるくると指でいじりながら、高くもない低くもないトーンで問いかけてくる。

「や……その……もしかしたら、使うことになるかもしれないじゃん。将来的に。あるかもしれないから……その、気になって」

「え?」

 珍しく、彼女の半開きだった瞳が、少しだけ見開かれる。

「そんな予定、あるんですか?」

「ア……アルヨ!」

 俺はなぜか反射的にそう答えてしまった。張らなくてもいい見栄を、いや、張ってはいけない見栄を張ってしまったが、時すでに遅し。

「イマ、マッチングアプリデ……チョットイイカンジノ……オンナノコガイテ……」

「え、わたし、把握していないですけど」

 彼女の声には、純粋な驚きが混じっていた。

 いや、お前みたいなクズオブクズの最底辺野郎になびく女なぞいるわけないだろうと、反射的に思ったからかもしれない。

「どんな子なんですか?」

「ま、まあ、その……普通の子? うん。普通な感じの子だね、普通の。見た目も、性格も、ベーシック中のベーシック。京都お土産界隈における生八つ橋みたいな、そんな感じの子だね」

 自分で言っててなんだけど、普通の子が俺といい感じになるわけないよね? 俺みたいなクズといい感じなれる子って、絶対に普通の子じゃないと思う。聖母に匹敵する慈愛の精神を持ち合わせていて、ようやくワンチャンあるかないかというレベル。俺と恋愛するってのは、もはや福祉の領域ですからね。福祉ですよ福祉。

「もう何回会っているんですか?」

「つ、次会えば……三回目になるのかな。うん。三回目」

 通説によれば、マッチングアプリにおける告白に至るまでの平均デート回数は三回目だという。無論、俺はマッチングアプリなんぞやったこともないので(有料だから)又聞きの知識でしかないが、大きくは外れてないと思う。

「学生ですか、社会人ですか? どこに住んでいる人なんですか?」

「もう、この話は良くない? 終わり、終わり!」

 声が上ずっていた。思わず両手をひらひらと振りながら、話題を切り替えようとする。脳内が軽いパニック状態で、何を言えば空気がリセットされるかもわからず、とにかく逃げるように言葉を押し出していた。

「それよりも、早く一万円を貸しておくれよ。このままだと、今月の電気代が払えなくなっちゃうんよ……」

「それは確かに困りますね」

 廣瀬くんは存外あっさりとこの話題から身を引くと、財布の中から迷いのない手つきで一万円札を取り出した。

 その所作は、どこか手慣れたものであり、もしかすると、彼女にとって『佐藤におカネを貸す』という行為が、日常の一部になってしまった影響かもしれない。ゴメンよぉ……こんな救いようのない最低最悪な先輩でゴメンよぉ……。

「はい。今月分の延命費です」

 冗談か皮肉か、あるいはただの事実確認か、その一言すら彼女の口調からは読み取れなかった。

 俺はというと、綺麗な偉人の肖像を手にして、子どものようにはしゃいでいた。

「わあいわあい! これで生き延びられるぞ! さすが廣瀬くん、キミは命の恩人だ!」

 自嘲と感謝と開き直りがない交ぜになったこの騒ぎが、彼女の目にどう映ったか、気になるような、知りたくないような、そんな気持ちだった。

「それよりもさ、もっと楽しい話をしようぜ」

 わざとらしく明るい声を作る。話題を転換したかった。過去も、現実も、見えない未来も、どれも直視するには痛すぎた。

「俺の将来性についてとか、経済状況についてとか、そういう話を、さ」

「その話題だと、どう努力しても楽しくなりようがないのでは」

 そんなやりとりを繰り返しながら、気がつけば夜も更けていた。

 時計の短針と長針が重なりそうなその時、廣瀬くんは何の前触れもなく、すっと立ち上がった。

「そろそろ帰ります」

 その声は、会話の流れとは無関係に、まるで彼女の体内時計が告げるタイミングのようだった。

「おう、またな」

 俺もゆっくりと腰を上げて、彼女を玄関まで送った。

 この九龍城のようなアパートの中に、彼女の清潔な香りがほんの一瞬だけ入り混じる。使い込まれたドアノブ、剥げかけた床材、錆びた郵便受け。そのどれとも調和しない廣瀬くんの存在は、やっぱりこの場所には場違いだった。そして、場違いだからこそ、その美しさが際立った。

「あ、そうだ佐藤さん」

 靴を履きながら、彼女がふと口を開く。

 その声には、いつもと違う、わずかな逡巡があった。

 そのまま、何かを言いかけるが、

「やっぱり、いいです」

 そう言って、廣瀬くんはことさら無表情なまま、履き終えた靴の踵をコツンと鳴らして立ち上がる。

 扉を開けると、夜の外気が流れ込んできた。

 彼女はそれを一度吸い込むと、何も言わずに出て行った。

 足音は、階段の踊り場まで続いて、それから消えた。

 ──やっぱり、いいです。

 さっきの言葉が、やたらと耳に残っていた。

 何を言おうとしたのだろうか。

 それは問いかけだったのか、ある種の軽蔑だったのか、それともただの冗談の種だったのか。わからない。だけど、わからないまま終わったその余白が、妙に胸をざわつかせた。

 俺はひとり、素寒貧の部屋へと戻る。

 電気代はまだ払っていないが、まだ部屋の明かりは点いている。そして、おそらく、今月は闇の中で過ごさずにいられる。

 静寂と、少しだけ残った缶チューハイの匂い。

 それだけが、廣瀬くんの不在を際立たせていた。


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