16通 週末は笑って恋人らしく過ごしたい件
ーー週末、駅前の待ち合わせ
最後の『恋人』だと思うと、朝から心臓がうるさくて。いつもより早く家を出て、何度もスマホを見返して、さらに、時間を確認して。でも、結局、落ち着かないまま、海里くんを待った。
ふと、視界の端に、見慣れたシルエットが現れた。少し大きな歩幅で、まっすぐ、こちらへ向かってくる。
「お待たせ。……南ちゃん、今日、なんか……可愛い」
「ばっ、なっ……急に、な、何……っ!」
コートに、お気に入りのマフラー。髪も、少しだけセットした。今日は『最後のデート』。だから、気合いを入れてきた。
「……あたりまえじゃん。今日くらい、めいっぱい『彼氏』やらせてよ」
言った瞬間、海里くんが目を細めて笑った。
……だめだ。そういう顔されると、胸の奥が痛くなる。ずるい。そんなところも、好きだよ、海里くん。
ーーーーーーーーーーーー
ーーーーーーーー
ーーーー
午前中は、水族館。ペンギンがよちよち歩く姿に、ふたりで声を上げて笑って。イルカショーでは、タイミングを合わせて手を叩いた。
「わぁ、クラゲ、綺麗……」
「こんなに綺麗でも、刺されたら痛いのかな?」
「……そりゃそうでしょ」
何気ない会話すら、いちいち胸がきゅっとなる。こんな時間すら、『もうすぐ終わる』って知っているから。
そっと、手を伸ばして、海里くんの手を取る。指を絡めて、しっかりと繋ぐ。『恋人』っぽく。ちゃんと。
でも、心のどこかで数えてしまう。
ーーあと、何時間?
この時間が終わってしまったら、僕たちはもう、ただの『元・恋人』だ。
ーーーーーーーーーーーー
ーーーーーーーー
ーーーー
ーー夕方
観覧車の前で、僕たちは、無言のまま立ち止まった。
「……乗る?」
「乗る」
迷いもためらいも、なかった。だって、この景色は、きっと一生忘れられない。ふたりだけの小さな空間で、沈む夕陽を見る。
窓に映る横顔すら、愛しくて仕方がない。
「綺麗……だね」
「うん。……でも、俺は南ちゃんの顔のほうが見ていたいかも」
「……じゃあ、見たら? 僕の顔」
からかうように言いながら、ちゃんと向き直る。海里くんの瞳に、自分の顔が映っているのがわかった。
「ねぇ、忘れないでよ。……僕の顔」
「忘れないよ。絶対、忘れない」
観覧車が、ゆっくりと頂上に差しかかる。夕陽が射し込んで、僕たちの影を、ひとつに溶かす。その瞬間が、永遠になってほしいと願った。
そっと顔を近づけると、海里くんが目を閉じた。
拒まないって、わかる。このキスが、僕たちにとって『最後になるかもしれない』って、ちゃんと分かっていて。それでも、海里くんは……受け止めてくれる。
ーー触れ合う唇に、想いが重なった気がした。
「海里くん、好きだよ」
「俺も、好きだよ、南ちゃん」
ただのキスじゃない。
『恋人として、最後のキス』で。胸が、きゅっと痛くなるほど、今までで、いちばん、苦しくて、あたたかくて、重たいキスだった。
ーーーーーーーーーーーー
ーーーーーーーー
ーーーー
ーー帰り道
駅へ向かう道は、言葉が、どんどん少なくなっていた。でも、手は、ずっと繋いだままで。もう、手を離すのが怖かった。
改札の前で、海里くんが、そっと口を開いた。
「……じゃあ、ここで」
その『ここで』が、『終わりだよ』に聞こえた。自分で選んだ道なのに、こんなにも胸が痛くて、つらくて、息が苦しくなる。
それでも、笑って別れたかった。うまく笑えなかったけれど、なんとか笑顔を作った。
「……また、ね」
「うん。また」
指先が、すっと離れる。
あたたかかった手が、あっという間に冷えていく。そして、海里くんが、改札を通る音がした。
ピッ、という小さな電子音が、不思議なほど大きく響いて。その背中が、ゆっくりと、遠ざかっていった。
足取りは、振り返らないまま、まっすぐで。でも、その背中が、少しだけ寂しそうに見えたのは、僕の気のせいだろうか。
今、もう一度、海里くんを見たら、きっと泣いてしまう。だから、見ないように、見ないようにって、下を向いた。
……でも。
どうしても我慢できなくて。
思わず、そっと顔を上げた。
けれどもう、海里くんの姿は、見えなかった。
ーーーーーーーーーーーー
ーーーーーーーー
ーーーー
ホームで電車を待ちながら、指先にあった、さっきまでの温度を探す。……ない。当たり前だ。もう、いないんだから。
「……でも、幸せだった」
ぽつりと呟いた瞬間、涙が零れた。
海里くんと過ごした、最後の週末。
僕はちゃんと、『恋人』だった。
ちゃんと『好き』を伝えた。
ちゃんと手を繋いだ。
ちゃんと、終わらせた。
……だから。
いつかまた、再会できたとき。
あの手を、もう一度握れるように。
僕は、大人になる。
大切なひとに、『ふさわしい自分』になるために。