悪魔と幼女のふたり暮らし
冷たい雪が真新しいお墓と小さな肩に降り積もる。
母親のお墓を前に、幼いルシアは泣いていた。
先日、ルシアの母親は不幸な事故に遭ってこの世からいなくなってしまった。
父親はすでにない。冒険家だった父親は危険な旅に出て死んでしまっていた。
兄弟もおらず、彼女は一人ぼっちだった。
「ルシアちゃん、この先どうしようねえ」
ルシアに声をかけたのは近所の農家のおばさんだ。
おばさんはお墓のそばの一軒家を見やった。町のはずれ、森に近いところにぽつんと建っている木造の平屋。それがルシアの家だ。
人気がなくさみしい様子を、おばさんは心配そうにする。
「たしかお父さんとお母さんは駆け落ちだったから、頼りにできる親戚もいなかったよね。
こんなおうちにルシアちゃん一人で住むのは危ないし……おばさんが明日、孤児院に連れて行ってあげるよ」
「こじいん?」
「ルシアちゃんみたいに身よりのない子の面倒を見てくれるところだよ。同じ年頃の子もいっぱいいるから、一人でこの家にいるより楽しいよ」
ルシアは明るいオレンジ色の瞳をくもらせ、ぶんぶんと頭を横にふった。
「いや! ここにいる! ママと一緒にいたところからはなれたくない」
「そうはいってもね、子供一人じゃこんなところ住んでいられないと思うよ。……だれか一緒に住んでくれる人がいれば別だけれど」
おばさんは白い息を吐いた。陽が暮れて、外はいっそう冷えてきた。
「とりあえず、今晩はおばさんの家においで。一人じゃ不安だろう」
「わたし、一人で平気だよ。さみしくなんてない!」
ルシアはおばさんの手を振り切って、自分の家に駆けもどった。母親の愛用していた赤いケープにくるまり、暖炉の前に頑として居座る。
「また明日来るからね。スープを作ったから、温かいうちにお食べ」
おばさんはそういって帰って行ったが、ルシアは用意されたパンとスープにまったく手を付けなかった。悲しくて悲しくて、何も食べる気になれなかった。
ただ、飼っているニワトリやヤギたちに水とエサをやることは忘れなかった。彼らの世話をするのはルシアの数少ない仕事だ。
「わたしがいなくなったら、この子たちどうなるんだろう。……売られちゃうのかな」
ルシアは頭をすりつけてくるヤギの頭をなで、胸が苦しくなった。家を離れたくないという思いをいっそう強くする。
「……なんだろ?」
家に戻ったルシアは、壁に吊るされた薬草たちの中に光るものを見つけた。
薬草の束をかき分けてみると、大人の手のひらほどの大きさをしたメダルがあった。
無造作にぶら下げられていたそれを、ルシアは壁から外して手に取る。
色は金色、片面にはりっぱな角をもつヤギが彫られている。精巧なつくりで、角のみぞや毛の一本一本まで描かれていた。目の部分にはクリスタルがはめこまれ、不思議な生彩を帯びている。
もう片面には何かの文字と、いくつもの図形を組み合わせた魔法陣。なにやら怪しげな雰囲気だ。
――困ったとき、本当に困ったとき、これを使ってごらん。何より強く、すべてを知る者が現れて、きっとあんたを助けてくれるから。
このメダルは以前、旅の老婆が薬の代金としておいていったものだった。ルシアの母親は魔法薬作りが得意で、それで生計を立てていたのだ。
母親は老婆の話を信じず、苦笑しながら使い方を聞き流していたが、ルシアはまだ覚えていた。
「……魔法陣に血をたらして、呪文をとなえる、だっけ」
ルシアはおそるおそる、小さなナイフで自分の手に傷をつけた。
床においたメダルに、血を垂らす。わずかな量だったが、血はまたたくまに魔法陣のすみずみに行き渡った。
「たしか……まぐぬす、くすとす、もるふぉす……?」
たどたどしい呪文だったが、効果はあった。
メダルが淡く輝き、魔法陣から黒い煙が吹き出した。
煙は生きているように渦を巻き、部屋全体に広がった。壁や天井の暗闇と混じり合い、闇を深くした。広がった煙は次第に収束し、ルシアの前で一つの姿を取る。
スーツに身を包み、ステッキを手にした四十ほどの男が現われた。眉間にはしわが刻まれていて、気難しそうな雰囲気だ。
高い地位にある紳士といった出で立ちだが、灰色の髪の間からはねじくれたヤギの角が生え、背には黒い翼がある。人間ではない。
瞳孔の横長い眼が冷たく、尊大にルシアを見下ろす。
「我輩を呼び出したのはおまえか、幼き人の子よ」
問いかけに、ルシアはうろたえた。
「……ごめんなさい。わたし、まちがえたみたい、ワガハイさん。
おばあさん、これを唱えたらモルフォスさんって人が来るっていってたのに。ちがう人が来ちゃった」
男は呆れ、自分の胸に手を当てて主張した。
「モルフォスが、我輩だ! 我輩というのは一人称だ」
「イチニンショー?」
「話者自身を指す代名詞または名詞のことだ。性別、年齢、立場、文脈に応じて使い分けられる。そなたなら、わたし、の部分がそうだな」
ルシアは納得したが、首をかしげた。
「……なんで自分のことそんなヘンな呼び方するの?」
「変!?」
「ねー、なんで?」
無邪気すぎる問いに紳士はたじろいだ。咳ばらいをし、話をそらす。
「そんなことはどうでもよい。我輩を呼んだ訳をいえ。何が望みだ。
我輩は悪魔モルフォス。魂と引き換えにそなたの願いを一つ叶えてやろう」
「あくま!?」
名乗りにルシアは飛び上がる。
悪魔という単語については、なんとなく知っていた。教会で人を苦しめる恐ろしい存在だと教えられた。かぶっている母親のケープをしっかり体に巻きつける。
「そうだ、悪魔だ。人の欲望をかき立て、甘いささやきで堕落させる。契約を交わし、その代償として魂を得る。それが我輩の仕事、悪魔の本懐」
モルフォスは冷たく哂った。部屋の影が生き物のようにうごめきだす。影より濃い闇色の触手が壁を這い、ルシアに忍び寄ってくる。
「愚かな子供よ、願いをいえ。我輩は貴様のしもべとして願いを叶えよう。
その代わり死後、貴様の魂は我輩のものだ。貴様は我輩のしもべとなり、我輩に仕えるのだ。永遠にな!」
人間に近かったモルフォスの姿は、今や完全な悪魔の姿に変わっていた。角が天井に届くほど巨大になり、端整だった人間の頭部は完全な山羊だ。
人間の上半身は赤黒く筋骨隆々とし、背からは黒い羽根が生え、下半身はけむくじゃら。毒蛇の尾が牙を剥く。地を踏みしめるひづめは赤黒い火花を散らし、禍々しいほど赤い目がルシアを見下ろす。
恐ろしい悪魔を前に、黒い触手に囲まれて、ルシアは悲鳴もない。ただおびえて立ちすくむ。
「――願いはないようだな」
モルフォスはため息をついた。再び人間に近い姿へと戻り、闇の触手を引く。
「帰る。遊びで悪魔を呼び出すな」
「だめ! まって!」
背を向けかけたモルフォスを、ルシアは止めた。
呼び出した相手が悪魔だという事実は、ルシアにとって大した意味を持たなかった。
幼いルシアには魂を取引する重大さもよく分からない。
今の自分を助けてくれるなら神だろうが悪魔だろうカカシだろうが何でもよかった。
安易に願いを口にする。
「お願いなら、あるの。ママを生き返らせて!」
「残念だが、それは無理だ。
悪魔に死者を生き返らせる術はない。神はできるがやれぬ。ゆえにこの世に死者を蘇らせる方法はない。あきらめろ」
ルシアの目に再び涙が浮かんだ。
「わたし、一人なの。この家に住んでいたいけど、一人じゃ危ないっていわれて」
「孤児か。まあ、孤児院にでも行くのが妥当であろうな」
自分は用なしと、モルフォスは今度こそ背を向ける。
ところがルシアは後はその上着のすそをつかまえる。
「わたし、ここをはなれたくないの。だから、一緒に住んでくれる人がいるの」
「我輩に共に住む人間を探して欲しいというのが願いか?」
怪訝そうなモルフォスの足に、ルシアはしがみついた。大事な母のケープが脱げて落ちるのも構わない。
「モルフォスさんが、居て。わたしと一緒にここに住んで」
「赤の他人と一緒に住むなどおかしな話であろう」
「なら、なら――モルフォスさん、わたしのパパになって!」
「――パパぁ?」
幼女の突拍子もない願いに、悪魔モルフォスは大いにうろたえた。
*****
杖先でつつかれて、ルシアは目を覚ました。すっかり昇った朝日がまぶしい。母の葬儀の疲れが出て、ぐっすり眠りこんでしまっていた。
「おい、寝坊助。家畜どもがうるさい。なんとかしろ」
不機嫌に、モルフォスがいう。ルシアはベッドから飛び起きた。温かく着込んで外に出、遅れたことを謝りながらニワトリたちにエサをやる。めんどりが卵を産んでくれていた。二個も。
ルシアはちょっと笑顔になる。卵があるといつもより朝食が豪華だ。
「モル――パパ、目玉焼きはどうする? やわやわ? しっかり?」
「我輩は食べん」
「おなか減ってないの?」
「我輩は悪魔だ。人間のような食事をせずとも生きていける。舌を楽しませるために食べることはあるが、な」
モルフォスはつまらなさそうに卵を見下ろし、暖炉前のロッキングチェアに腰かけた。
ルシアは一人で朝食を取る。昨夜、農家のおばさんが作っていってくれたパンとスープを頬張り、暖炉で目玉焼きを作って食べた。
お腹はいっぱいになったが、満たされない気分だった。
母親と「今日はうまく焼けた」とか「一個しかないから半分こ」とかいいあって食べていたことを思い出すと、胸のあたりが苦しくなった。
玄関のノックの音に、目元をぬぐう。扉を開けると農家のおばさんが立っていた。
「おはよう、ルシアちゃん。夜はちゃんと寝られた? 今朝は何か食べたかい?」
おばさんはルシアにパンとミルクの入ったかごを渡し、家の中へ目をやった。素朴な家に似つかわしくないスーツ姿の紳士を見つけ、不審にする。
「――そちらは? お客さん?」
「ううん、パパ。わたしの」
おばさんは面食らった。昨晩いなかった男が突然現れて、死んだはずのルシアの父を名乗るのだから、当然の反応だった。
モルフォスは立ち上がり、礼儀正しく落ち着いた口調であいさつする。
「ごきげんよう、マダム。我輩はモルフォス。この子の保護者です。この子の母に生前、自分に何かあった時はよろしく頼むといわれておりましてね」
「保護者? ――ああ、そういうことかい。知人で、パパ代わりってことか」
おばさんは一旦は納得したが、やはり怪訝にした。
「でもルミアさん、あんたみたいな人がいるなんて一言も――」
「なにも、心配ない。我輩がこの娘の保護者だ。良いな?」
瞳孔の横長くなったモルフォスの目が、おばさんの目を見つめた。
おばさんの瞳がわずかに揺れて、ぼんやりとした表情になる。モルフォスがパンッと両手を叩くと、はっと我に返った。急に意見を変える。
「そうかい、ルミアさんには子供を任せられる人がいたのかい、よかったよかった。
ルシアちゃん、孤児院に行かなくていいね。頼りにできる人がいて、おばさんも安心したよ」
おばさんはルシアの頭をなで、安堵の表情で帰って行った。
ルシアは不思議そうにモルフォスを見上げる。
「催眠魔法だ。口うるさい人間はああやって黙らすに限る」
ルシアは少し身を縮こまらせた。新しいパパは悪魔だけあって、なんだかおっかない。
「……ねえ、モルフォスさん。パパってどんなもの?
みんなモルフォスさんみたいな感じなの?
わたしパパのこと全然覚えてないから、パパがどんなのか知らない」
「知るか。我輩は悪魔だぞ。父親の経験なぞないし、知る必要もない」
そっけなく返され、ルシアは口をとがらせた。
「……メダルくれたおばあさん、モルフォスさんは何でも知ってるっていってたのに。モルフォスさん、何にも知らない」
「なんだと小娘」
「自分を我輩って呼ぶ理由も答えてくれなかったし。ほんとに何でも知ってるの?」
「貴様が情趣を解さぬ愚か者なだけだ!」
また玄関の戸がノックされた。
今度は近くの町に住んでいるおじいさんだった。雪の積もった道を歩いてきて、息が切れていた。しわくちゃの顔は不安が浮かんでいる。
「ルシアちゃん、いつもの心臓のお薬はあるかね? 薬をどこかに落としてしまって、新しいのを買いに来たんじゃが」
「せっかく来てくれたのに、ごめんなさい。ママは――」
「うん、うん、知っとるよ。辛いときにすまんね。調合したものが残っていないかと思ってね」
ルシアは心当たりを探してみたが、それらしきものは見当たらなかった。おじいさんはがっくりと肩を落とし、心臓のあたりをつかむ。
「薬がないと、発作がいつ起こるかと不安で」
不安自体が発作の引き金になりそうな様子だ。ルシアはおじいさんが気の毒になった。勇気を奮い立たせる。
「わたし、作ってみる! 爆弾さくらんぼの飲み薬でしょ? 作るのお手伝いしたことあるし!」
ルシアは家の裏手にある、魔法薬を調合するための小屋に走った。
棚には作り方を書いたノートがあった、材料もそろっていた、器具ももちろんあった。
が、それだけで薬が作れるわけがなかった。ルシアの大さじは多かったし、小さじは少なすぎたし、実は材料を取り違えていたりもした。
腕組みをしながら作業を見ていたモルフォスが、不安そうにする。
「……おい、大丈夫か」
「大丈夫! お手伝いしたとき、ママ、わたしに才能があるって褒めてたもん!」
自信満々のルシアが完成させた薬は、腐った紫色をしていた。ついでにボコボコと泡立っていた。ただよう異臭で、飛んでいた羽虫が落ちた。致死率百パーセントである。
「できたよ、おじいちゃん。どうぞ!」
「おお、ありがとう、ルシアちゃん。これで楽に……」
「楽になりそうだな。永遠に」
モルフォスはステッキでルシアの作った薬瓶を叩き割った。
「どけ、小娘。我輩が手本を見せてやる。我輩のことを何も知らぬと侮った愚行を詫びさせてやる」
「モルフォスさんが作ってくれるの? でも、爆弾さくらんぼ、使い切っちゃって……」
「我輩の知識を見くびるな。星とうがらしは?」
「キッチンにあるよ?」
「さっさと取ってこい。あれがあれば同じ効果の物が作れる」
ルシアが星とうがらしを取って戻るころには、モルフォスは作業台の上に必要な器具と材料をそろえていた。
上着を脱いで袖をまくり、手早く計量し、ムダのない動きで迷いなく調合していく。流れるような手つきだ。
「……ママみたい」
ルシアは呆けて、見惚れた。
ほどなくして薬は完成した。できあがった薬を服用すると、青かったおじいさんの顔色はみるみる血色を取りもどした。元気な声で喜ぶ。
「こりゃありがたい。ルミアさんがいなくなって、これから誰を頼ったものかと思っておったが。あんたがいるなら安心じゃな」
何度も頭を下げて帰っていくおじいさんを見送り、ルシアは飛び跳ねた。両手を上げて、モルフォスをすごいすごいと何度も褒めたたえる。
「本当に何でも知ってるんだ!」
「当然だ。我輩をだれだと思っている」
「わたしのパパ!」
ルシアは満面の笑みで悪魔に飛びついた。
モルフォスは一瞬動きを止めていたが、すぐにほっぺたをつねってきた。
「痛いよ、パパ」
「安易に魔法薬を調合した罰だ。ここにあるものは二度と触るな。いいな!」
「……はい。ごめんなさい」
ルシアはしゅんとうなだれたが、すぐに顔を上げた。
頼りになるパパに紙束を差し出す。
「パパ、次、これ」
「なんだその紙束は」
「ママが頼まれてた魔法薬の注文票」
モルフォスは紙束をめくり、頬をひきつらせた。
「どれも期限が近い上に、めんどうくさいものばかりなのだが?」
「パパなら大丈夫だよね! ママみたいに魔法薬作るの上手だもん!」
「ふざけるな! だれがやるか、こんな――」
断固拒否しようとして、モルフォスは目に見えない力に阻まれた。
それは契約の力だ。
悪魔はあるじの欲望を形にするもの。あるじであるルシアが“父とは母のように魔法薬を調合できるもの”と欲したのなら、その欲望を形にせずにはおけない。
「父親というものを具体的に知らぬのなら好都合と思っていたのに……! 余計なことをするのではなかった!」
モルフォスはぎりぎりと歯を食いしばりつつ、次なる調合のために材料を手に取る。
「パパ、がんばれ!」
「うるさい! 小屋から出て入ろ! 邪魔だ!」
悪魔は悔しまぎれに吠え、かりそめの娘を追い払った。
*****
ルシアの家の裏手、魔法薬を調合するための小屋で、モルフォスは忙しく立ち働いていた。
フロックコートは脱いで作業用エプロンを身につけ、ステッキは壁に立てかけ、手には撹拌棒。眉間にしわを刻んで不満そうにしながらも、次々と魔法薬を完成させていく。
ルシアの父親となって早一ヶ月。モルフォスの魔法薬を作る腕前の良さはあっという間に近隣に広まり、まだ雪の残る道を踏みしめて客はやって来る。注文は引きも切らない。
「ありがとうございます、モルフォスさん!」
「これがないと仕事にならないものですから。助かりました」
「礼の言葉などいらぬわ! とっとと失せろ!」
笑顔と感謝の言葉に、モルフォスは耳をふさいだ。拷問だといわんばかりに。
客がいなくなると、憤然と吐き捨てる。
「我輩は悪魔だぞ! なぜ人に感謝なぞされねばならんのだ!」
「パパすごいね。パパが魔法薬作るのじょうずだから、みんな喜んでるよ!」
「悪魔の名折れだ!」
上機嫌なルシアと対照的に、モルフォスはすこぶる不機嫌だった。
このままでは悪魔として堕落する。己の存在意義に関わる。
「早く“パパ”なぞ終わらせてやる……!」
モルフォスは「ぼうけんの旅にしゅっぱーつ!」と、森へ入って行くルシアの後姿をにらみつけた。
通りがかりの農家のおばさんが、心配そうにする。
「ルシアちゃんのこと、止めなくて大丈夫かい? あんまり森の奥まで入って行くと危ないよ」
「心配無用です」
なんの確証もないが、モルフォスは断言して受け流した。
ルシアの身の安全を確保することは、モルフォスの仕事ではない。世の中には子供に構わない父親もいる。殴る父親だって、いる。子どもを放置することは“パパ”役から外れたことではない。
(むしろ、危ない目に遭ってくれた方が好都合というもの)
もしルシアが不慮の事故で命を落とせば、モルフォスはわずらわしい“パパ”役から解放されるのだ。
(契約により、悪魔は死んだ契約者の魂を支配することができる。
だが、悪魔が直接手を下すことは契約で禁じられている。寿命や事故、自殺や他殺を待つしかない)
モルフォスは酷薄にかりそめの娘を放置するが、そのうちルシアは無事に戻ってきた。登った木から落ちたのにケガ一つないという幸運つきで。
毎日元気いっぱい。当面、死にそうにない。
(……本当に我輩以外にアレを世話する者はおらぬのか? 両親に、親戚や親しい友人の一人くらいおらぬのか)
天運を期待しないモルフォスは、現実的な策を練った。家の中を漁り、ルシアの両親の出生や生い立ちが分かりそうなものを探す。
近隣の人々から聞いた話では、ルシアの父親は結婚するまで天涯孤独だったらしい。
(だから冒険家という危ない仕事もできたのであろうな)
一応いちるの望みをかけて、ルシアに親類以外の話を聞いてみる。
「貴様の父に親しい友人がいたというような話は聞いたことがないか?」
「パパはアイとユーキが友だちだって聞いた」
「愛と勇気……人間の友達はおらぬのか」
モルフォスはうなだれた。
「母親の親類――家について、何か聞いたことは?」
「うーんとね、ママは海に囲まれた小さい島に住んでたんだって。パパと島から逃げ出すときは大冒険だったんだって!」
「離島や孤島が故郷か。家名が分かれば地方が絞りこめそうだが……」
手紙や書付を調べてみても、ルシアの母・ルミアの家名が分かるものは何も残っていなかった。駆け落ちしたときに、家を捨てたという覚悟が見て取れた。
モルフォスはぱらぱらと、ルミアが受けていた魔法薬の注文票をめくる。
(若くして魔法薬作りにかなり精通しているな。一家が魔法薬にかかわる仕事をしていた可能性が高そうだが)
思案していると、玄関をノックする音が響いた。
ルシアが元気よく応対に出る。モルフォスはまた客かとうんざりしたが、違った。
「こんばんは。ルミアさんの知り合いです。
ルミアさんがお亡くなりになったと聞いて……何かお力になれればとおうかがいしました」
三十歳ほどの男だった。人当たりのよい笑顔を浮かべている。体つきはふっくら、もとい小太りで全体的にやさしい雰囲気だ。
ルシアに気付くと、しゃがんで目線を合わせた。
「こんにちは。娘さんかな?」
「ルシアだよ。あっちはパパ」
「保護者代わりで、父親役なだけだ。――そなたも魔法薬師か?」
モルフォスは目を光らせた。男は独特のにおいを漂わせていた。薬草や香草、モルフォスが最近嗅ぎ飽きているにおいだ。
「はい。同じ魔法薬師ということで、ルミアさんとは多少親交が」
「よくぞいらした。助かります。我輩ではどうにもならぬと困り果てていた所で!」
モルフォスは愛想よく男を家の中へ迎え入れた。
男の提げていた大きなカバンまで持ってやる。
「大荷物ですな。旅の魔法薬師ですか? 大変ですね。ご家族が心配なさるのでは?」
「家族はおりません。気楽な根なし草というわけです」
「なるほどなるほど。しかし、そろそろどこかに根を下ろしても良いのでは? たとえばこういうところに」
モルフォスは男の両肩をつかんだ。
渡りに船とはこのこと。ルシアの母親の知人で、旅の魔法薬師、所帯はなし。人もよさそう。小娘の面倒を押しつけるにはうってつけの相手だ。
後は催眠魔法で『自分はルミアから娘のことを頼まれていた』とでも暗示をかけてやればよい――
モルフォスはそう目論んだのだが、どうも男の様子がおかしい。
丸い顔についたつぶらな瞳が、きょときょとと、落ち着きなく家じゅうをさ迷っている。何かを探すように。
「……おい。我輩の目を見よ」
「え?」
「貴様の真の目的はなんだ。吐け」
瞳孔の横長い目が、つぶらな瞳をのぞきこむ。男はぼんやり夢心地の表情になった。
「ボクは魔法薬のレシピが欲しくて……ルミア=パンセオ。あのパンセオ家の娘!
町で見かけたときはびっくりした。彼女ならきっと金になる魔法薬のレシピをたくさん持って――うわっ、ボクは何を!?」
催眠魔法は途中で切れた。我に返った男は両手で口を押さえた。
バレてしまっては仕方ないと居直り、護身用の短剣を抜く。
「いっ、痛い思いをしたくなければ、魔法薬のレシピを寄こせ!」
「愚か者が。そんなもの我輩に――」
「パパ、危ない!」
ルシアは薪を投げた。男に向かって投げたはずの薪は、狙いが外れてモルフォスの頭部を直撃した。
「このっ、小娘えええええっ!」
「ごめんなさいいいいいっ!」
怒りのあまり、モルフォスは本性をさらした。毒蛇の尾に黒い翼を持った、半身半獣の怪物の姿になる。
男は度肝を抜かれ、短剣を取り落とした。
「ひっ、ひいっ、悪魔あああ―――――っ!」
男は脱兎のごとく逃げ去って行った。
「……ふん、この姿を見ただけで逃げるとは。腰抜けめ」
「パパ、見るからに強そうだもんね」
頼もしそうに見上げてくる小娘を、悪魔は憤怒に燃える赤い目でにらみつけた。
「我輩に薪を投げつけるとはいい度胸だな!」
「ち、ちがうよ、パパを助けようとしたんだよ! うまく当たらなかっただけで!」
「余計な手出しをするな!」
「ごめんなさい! ……痛かった?」
小さな手が悪魔の頭部をさする。
毒気を抜かれ、モルフォスは人の姿に戻った。
ルシアよりも早く短剣を拾い上げ、不機嫌に注意する。
「……刃物は危ない。むやみに触るな」
モルフォスはカバンと短剣を外に放り投げた。忘れていなければ男は取りに戻ってくるだろう。
「代理の父候補にはあいにく逃げられたが、収穫もあったな。そなたの母はパンセオという家の者だったのか。パンセオ――はて、どこかで聞いたことが」
目をつむって考えること数秒、モルフォスは明るい表情になった。
「パンセオ家。999の工程と999の日を経て作られる霊薬『千日目の奇跡』で有名な、魔法薬作りの大家ではないか! 小娘、おまえはなかなか名家の生まれだな!」
「そうなの?」
「そうだぞ。パンセオ家は他にも門外不出の魔法薬レシピをいくつも持っていて――」
そこまで口にして、モルフォスは沈んだ表情になった。
「門外不出のレシピを抱えておるから、孤島住まいなのだったな。島への人の出入りは制限され、一族は一生を島で終えるという……」
「わたし、ここを離れるなんてイヤ」
「……であろうな」
結局、自分が一緒にいるしかないと悟った悪魔だった。
お読みいただき、ありがとうございました。
人外×幼女が読みたくて自作。
世にこのカップリング作品がもっと増えますように。