婚約破棄されて首を吊ろうとした令嬢を助けたのは、白蛇の化身でした
「リーナ・セルペンテ! 今日この場でお前との婚約を破棄する!」
馬上から伯爵家の令息ライアス・ディーボラが、見下すような目つきで告げた。
地面で倒れている男爵家の令嬢であるリーナは呆然とするしかなかった。
彼女自慢の赤みのあるチョコブラウンの髪もすっかり乱れている。
場所はディーボラ家所有の牧場。
ライアスの誘いで婚約者同士、乗馬を楽しもうということになった。
二人とも乗馬服を着て、「僕の背中にしがみついてくれ」と言われ、リーナは馬に乗る。
ライアスは乗馬が得意なことで有名であり、なんの問題もないはずだった。
ところが、ライアスの手綱捌きは荒っぽく、馬の尻は激しく揺れる。
両手を離してしまい、リーナは落馬した。
さいわい落ち方がよかったのか、リーナは擦り傷程度の怪我で済んだが、落馬は命を落としてもおかしくないアクシデントである。
そして、ライアスは馬に乗ったまま、
「この程度で落馬するなんて……馬にも乗れない令嬢は僕の婚約者に相応しくない!」
と激怒。
先の婚約破棄宣言に繋がるのである。
リーナが何も言えないでいると、牧場の奥からもう一頭の馬が走ってきた。
その馬にはピンクブロンドの派手な令嬢が乗っていた。
「紹介しよう。彼女はデミロア・オピス。君よりもずっと僕に相応しい女性だ」
「初めまして。さっきから見ていたけど、ライアス様に馬に乗せてもらって落馬するなんて、惨めな子ねえ」
嫌味な笑みを浮かべるデミロア。
デミロアは子爵家の令嬢であり、彼女もまた乗馬を得意とする。
社交界ではライアスにアプローチをしている、などと噂も立っていたが、それが表面化した形となる。
リーナからすれば乗馬した二人から見下されるのは恐怖でしかなかった。
彼らが馬に命じれば、そのまま踏み潰されそうで恐ろしかった。
「僕は乗馬をできる女性しか愛せない。デミロアはその条件を満たしているし、しかも可憐で美しい。僕にとってこれほど相応しい相手はいない」
「まぁっ、ライアス様ったら……」
リーナは二人を見上げることしかできない。
「というわけだ。今すぐこの牧場から消えてくれ。ああ、もちろん婚約破棄に伴う違約金は払うよ」
リーナはどうにか立ち上がり、二人に別れを告げる。
「分かりました……。お二人とも、お元気で……」
ちなみにリーナは知らなかったが、二人で乗馬をする時は、手綱を持つ人間が後ろになるのが原則である。
なぜなら、馬は後ろの方が激しく揺れるから。
つまり、ライアスの行為は元々リーナを落馬させるためにやったのであり、“死んでもかまわない”という気持ちがあったと思われる。
リーナが大怪我をしなかったのは、まさに不幸中の幸いだった。
その後、リーナは婚約破棄されたことを父に報告したが、父は「そうか」と告げるだけだった。
リーナは優秀な兄姉が大勢いる末っ子であり、さほど期待はされておらず、家の存続を考えるとはっきりいってどうでもいい存在だった。
結局ディーボラ家から、リーナが心に受けた傷からすればあまりにも少ない額の違約金が支払われ、この件は片がついた。
リーナに残されたのはただ一つ、“絶望”だった。
***
白蛇山という山があった。
古来より蛇の神が住んでいるとされ、王国では蛇は神聖なる生き物として扱われている。
月もない真夜中、一人でこの山をさまよう令嬢があった。
リーナであった。
淡い紫色のドレスを着て、右手にはロープを持ち、山道を登っている。
婚約破棄をされ、家族にも見捨てられ、無様に振られた令嬢に社交界で居場所などない。
これ以上は生きていても苦痛が続くだけ。
そう判断したリーナは、この山で首をくくることにした。
なぜ、この山にしたのか。理由はリーナ自身分からない。
比較的邸宅から近かったのと、死ぬところを誰にも見られたくなかったのと、それにどうせ死ぬのなら神様に近い場所で。その方が天国に早く行けるから――そんな思考が働いたのかもしれない。
「この木がよさそうね……」
幹は太く、枝もしっかりした樹だった。
大きめの石を踏み台にして、リーナは死んだ魚のような目で、枝にロープを縛り付ける。
あとは輪っか状にした部分に、首を入れるだけ。
リーナはロープを握り、目をつぶり、あの世に旅立とうとする。
ところが、突如笑い声がした。
くすくす、という静かで気品のある笑い声。
リーナは驚き、首をくくるどころではなくなった。
「……なに? なんなの!?」
声がした方を向く。
すると――いた。
ゆったりとした白い服をまとった青年がそこに立っていた。
背は高く、銀色の髪を持ち、透き通るような白い肌、なのにその瞳は真紅。
闇夜なのに、不思議と姿はくっきりと見える。
リーナは自分がしようとしたことも忘れて、こんなに美しい男性がいるの、と思ってしまった。
しかし、すぐに我に返る。
「なんなの……あなた!?」
「“なんなの”はこちらのセリフだよ、お嬢さん。あなたは何をしようとしていたんだ?」
「死……死のうとしてたの。首を吊って……」
再び青年はくすくす笑う。
「何がおかしいの……!?」
「いやね、そんなもので首を吊れるかなー……って思って」
「そんなもの?」
リーナはふとロープを見る。
すると、手に握られていたのは蛇だった。
しゅるしゅると動き、舌を出している。
確かに枝に結んだロープを握っていたはずなのに。
「きゃっ!」
いくら神聖な生き物といえども、自分の手にいきなり蛇がいたら当然驚く。
リーナは蛇を投げ捨ててしまう。
しかし、すぐに「あっ、ごめんなさい!」と蛇を拾おうとする。
「何も謝らなくてもいいだろうに」と青年。
「でも、きっと痛かっただろうから……」
「アハハ、大丈夫だよ。今投げたのはロープだから」
青年の言う通り、蛇を投げ捨てた場所にはロープが転がっていた。
「え? え? え?」
「ごめんごめん。今のはちょっとしたイタズラ、幻術というやつさ」
「幻術……」
幻術なんてものがこの世にあるのかとリーナは思うが、目の前の青年はそれを“確かにある”と思わせる説得力を感じさせた。
「君は面白いね。そして、とても優しい……」
青年はニコリと笑う。リーナは「そんなことありません」と顔を背ける。
暗闇だが、自分の頬の紅潮を悟られたくなかった。
「死なせたくなくなったよ」
青年が歩み寄る。リーナは逃げることもできたが、逃げなかった。心はすでに青年を受け入れていた。
「あなたは……?」
「僕はネイク・シュランゲ。先祖代々この山で暮らしている。君は?」
「私は……リーナ。リーナ・セルペンテです」
「リーナ、いい名前だ」
ネイクは右手でリーナの左手を握る。
細く、しなやかな指だった。
「ここじゃなんだから、僕の家まで行こう。なに、すぐ近くさ」
「はい……」
リーナはネイクのエスコートのままに、山の奥へと進んでいった。
***
山の中腹にネイクの自宅はあった。
木造の白い家だった。
整った無駄のないデザインであり、神秘的な雰囲気を醸し出している。
ネイクがくすりと笑う。
「リーナ。今、君は“白い人の家はやっぱり白いのね”なんて思ったんじゃないかい?」
「い、いえっ! そんなっ!」
リーナは慌てつつ、
「……少しそう思いました」
「アハハ、やはり君は面白い人だ」
「私もこの山には何度か来たことがあるのですが、こんな家があっただなんて……」
「僕が招待しなきゃ来られないようになってるからね」
“招待しなきゃ来られない”
ネイクはさらっと言ったが、リーナもあえて問いただしはしなかった。
邸内に入る。
外での印象と同様、中も清潔さが保たれている。名のある貴族の屋敷も、ここまで清掃が行き届いているかどうか。
リーナはリビングに案内される。
ネイクがボトルとグラスを持ってくる。
「山で取れる果物で作った果実酒だ。よかったらどうぞ」
「いただきます」
ネイクお手製の果実酒はほんのり甘く、飲みやすい味だった。
「美味しいです!」
「お口に合ったようで嬉しいよ」
ネイクは山菜で作った料理も用意し、リーナはいずれも美味しく平らげた。
「こんなのもあるんだ」
鶏卵で作ったゆで卵だった。
リーナは卵も好きなので、皮をむいて食べようとする。
ところが、ネイクはゆで卵を一つ口に入れると、そのままゴクリと丸呑みしてしまった。
「……え!?」
リーナの反応に、ネイクが初めて焦りを見せる。
「あ、いや、すまなかった。皮をむかずに丸呑みというのは下品だったね」
リーナとしては品云々より喉に詰まらないかどうかが心配だったが、ネイクは平然としている。
少し奇妙なことはあったものの、リーナはお腹を満たすことができた。
ネイクが尋ねる。
「君はなぜ死にたがっていたんだ?」
リーナは隠し立てせず、全てを打ち明けた。
元婚約者ライアスの非道な行いの数々に、ネイクは眉をひそめる。
「ひどい人間がいたものだ」
「そう怒って下さるだけで、私は救われます」
ネイクがその赤い瞳でリーナをじっと見る。
「リーナ、今も死にたいかい」
「いいえ。ネイク様、あなたに出会えたから……」
「また……会えるかな?」
「はい。ぜひお会いしたいです」
「もし、僕に会いたくなったら、またこの山に来てくれ。必ず迎えに行くから」
「分かりました!」
リーナはネイクとの再会を誓って、下山する。
これが二人の出会いとなった。
***
それからリーナはほぼ毎日のように、ネイクの家に遊びに行った。
山の麓に着くと、ネイクが見計らったかのように待っており、そのまま家に招かれる。
そして、二人で談笑したり、ゲームをしたりしつつ、夜になれば家に帰る。
こうなると、リーナが家族から半ば見放されていることもかえって都合がよかった。好きなように外出できる。
また、リーナは「毎日行くとご迷惑かも」と思い、わざと一日空けたことがある。しかし、ネイクが「昨日は来なかったから本当に寂しかったよ」と言うので、すぐに杞憂と分かり、毎日遊びに行くようになった。
ある日、リーナはこんな提案をした。
「もしよかったら、ネイク様も山を下りてみませんか?」
ネイクはうなずく。
「そうだね。たまにはそうしてみようかな」
普段はネイクの家で逢瀬を重ねる二人だが、白蛇山近くにある大きな街でデートをすることになった。
デート当日。
リーナも懸命に着飾ったが、やはりそれでも「ネイク様には釣り合わない」と気後れしてしまうほど、ネイクは美しかった。
さらさらの銀髪、すらりとした長身、白く高貴な衣服、ルビーのような赤い瞳。
いずれも人間離れしており、大いに周囲、特に女性の目を引いた。
「すごい……。みんな、ネイク様を見ていますよ」
「そうかい。僕は君しか見ていないけど」
あまりにあっけらかんと言うので不意を突かれ、リーナは顔から湯気が出る思いだった。
「私もでぇす!」
声まで裏返ってしまう。
ネイクはくすくすと笑うが、すぐに表情を恋人を愛でるそれに変える。
「君に見られているということは、僕にとってこの上ない喜びだ」
「あ……ありがとうございます!」
リーナとしては天にも昇る気持ちだった。
リーナが街を案内する。
といっても、リーナは恋愛経験に乏しく、デートスポットもほとんど知らない。
お茶を飲む、食べ歩きをする、などのお定まりのコースとなってしまう。
「すみません。これならネイク様が山を下りてくる必要なんてなかったですよね」
ネイクは首を振る。
「そんなことはないさ。僕は楽しんでいるし、こうしてあまり来たことがない地を君と二人で歩く。そのことは僕にとって、かけがえのない思い出となるだろう」
ネイクの言葉にお世辞は感じられず、リーナは喜んだ。
ところが、そんな甘いムードを激しい蹄の音がさえぎる。
「きゃあっ!」
「馬だ!」
「危ないっ!」
次々に悲鳴が上がる。
原因を作っているのは誰か、すぐに分かった。
リーナの元婚約者ライアス・ディーボラ。
馬術に長ける彼は何もない牧場を駆けるのに飽き、時折街を馬で駆け回るようになったのである。
もちろん彼の手前には、現在の恋人であるデミロア・オピスが乗っている。
馬上でイチャイチャしつつ、ライアスは手綱を操る。
「どけどけぇ! 市民ども! ここは僕のレース場だ!」
「障害物レースをしているようで、面白いですわ!」
皆どうにかよけるが、中には馬と接触し怪我をする者もいた。
「なんてひどい……」リーナが歯噛みする。
まもなくライアスはリーナの近くまでやってきた。
万が一のことがないよう、ネイクが盾になるようにリーナを庇う。
ライアスはリーナに気づき、馬を止める。
「お、そこにいるのはリーナか?」
「ライアス……様……」
リーナの中で牧場での出来事がフラッシュバックする。
落馬の痛み、馬上から見下ろされる恐怖、婚約破棄の屈辱感。
思わず目を閉じてしまう。
「お前との婚約を破棄したおかげで、とんだ出費だったぜ。ところで、一緒にいる白い奴はお前の男か?」
リーナは否定も肯定もしない。
「僕に振られたからってすぐ新しい男を見つけるとはな。とんだ尻軽女だ!」
「全くですわね!」
自分たちのことは棚に上げ、リーナを“尻軽”と侮辱するライアスとデミロア。
「ま、いいや。お前なんかに構っている時間がもったいない! よぉし、もう一周だ!」
ライアスが再び馬を走らせる。
次々に悲鳴が起こる。
ネイクは遠ざかるライアスの背中を険しい顔つきで見つめていた。
「あれが君の婚約者だった男か……。聞きしに勝る蛮行ぶりだ。とても貴族とは思えない」
リーナはうつむいている。
侮辱されたショックもあるが、あんな男と婚約関係にあったことに恥ずかしさを覚えていた。経歴を記憶ごと抹消したい気分だった。
「リーナ、あの男は放っておくわけにはいかないな。放置しておけば、いずれ市民を殺してしまう」
「それは……報復ということですか? それはやめて下さい! 相手は伯爵家の貴族ですし、ネイク様の身に何かあったら……」
「心配いらない。ちょっと脅かす程度のことさ。君の心配してるようなことにはならないさ」
ネイクの笑顔は、リーナの不安をたちまちかき消した。
***
夕刻になり、散々に街を駆け回ったライアスとデミロアは、馬を降り、木陰で休んでいた。
「街を走るってのもスリルがあっていいな!」
「ええ、逃げ惑う庶民たちを見るのが面白かったですわ!」
二人でけらけらと笑う。
「ですが、もし庶民を馬で蹴飛ばして死なせてしまったら、少々面倒ですわね」
「なあに、そうしたら父上に言ってもみ消してもらえばいいさ」
“意地の悪い”を通り越し、もはや“醜い”といっていい笑みを浮かべるライアス。
その時だった。
二人に黒い影のようなものが迫ってきた。
最初、二人は日没が近いからなと納得しかけたが、それは影ではなかった。
「へ、蛇!?」
無数の蛇がうぞうぞと、二人に迫り寄ってきた。
「なんだぁ!?」
「いやぁぁぁ! ライアス様助けて!」
「こんなの僕にもどうにかできるかよ!」
蛇の群れの動きは速く、二人は瞬く間に無数の蛇に絡みつかれる形となった。
「あ、あ、あああ……!」
「ひいいいい……!」
恐怖で失神してもおかしくない場面。
傷ができない程度に肌を噛まれ、その痛みで失神することさえできない。
まもなく二人の前に大蛇が現れた。
眼は赤く、白い鱗を持った、美しさと高貴ささえ漂う蛇だった。
大蛇は二人に語りかける。
「お前たちの行いはあまりにも目に余る……。だから、こうして忠告に来た」
二人は恐ろしさで返事もできない。
「今更お前たちに心を入れ替えろ、とは言わん。それは高望みというものだろう。だが、せめて馬を乱暴に走らせ、人々に迷惑をかけるのをやめろ。それぐらいは約束できるだろう」
声を発せられない二人は黙ってうなずく。
「ならばよし。この約束を破れば、お前たちがどうなっても知らんからな」
白い大蛇の眼が妖しく光ったかと思うと、大蛇は消え、ライアスたちを拘束していた無数の蛇も忽然と消えてしまった。
二人はしばらくその場から動く事ができなかった。
***
この日の夜、ネイクはリーナを自宅に招いていた。
いつも通り、果実酒や山菜に舌鼓を打つ。
だが、いつもとは雰囲気が違う。
リーナもそれを察するが、あえてそれを口には出さない。
やがて、意を決したようにネイクが言った。
「僕はずっと君に隠していたことがある」
リーナの顔にも緊張が走る。が、すぐに平静を取り戻す。
「なんでしょう?」
「このことを言えば、君は僕の元を去ってしまうかもしれない。だが、言わずにはいられない。これ以上、愛する人に隠し事はできない」
深呼吸をし、ネイクが告白する。
「この僕、ネイク・シュランゲは人間ではない。正体は白蛇。この山に宿る蛇の神の息子なんだ」
リーナはきょとんとした顔をしている。
ネイクはこれを「信じてもらえてない」と解釈したが――
「え、知ってましたよ?」
「……なんだって!?」
ネイクが驚愕の表情を見せる。
「だって……この山に住んでいて、白く美しくて、不思議な力も持っている……。そうとしか考えられないじゃありませんか」
「そうだったのか……。だけど、それなら君は僕が蛇だと知っていて、付き合っていたのかい?」
「はい」
「どんなに優しく見えようと蛇は蛇。食べられてしまうかも、とは考えなかったのかい?」
これにリーナはふっと笑う。
「おかしなことをおっしゃいますね。私は最初、死のうとしてるところをあなたに助けられた人間ですよ?」
「あ……」
「食べられる恐怖はありませんでした。ですが、それはネイク様なら私を食べないだろう、ということではありません。ネイク様になら食べられてもいい。ネイク様の血と肉になれるのなら、と思っていました」
いつになく凛々しい表情で、リーナは堂々と告げた。
もはや、この世から逃げるため死のうとしていた頃の面影はない。
そこには自分の運命は自分で決めるという覚悟を持った、誇り高き貴族令嬢がいた。
ネイクはたまらずリーナを抱きしめる。
「君を食べることなどあるものか。絶対に……」
リーナもその冷たくも温かい感触を味わう。
「ネイク様……」
「リーナ、僕は初めの頃、君をからかい、君を手玉に取っているつもりだった。だけどいつしか君に手玉に取られていたようだね。もう君なしでは生きていけない」
「私もです」
「僕と結婚して欲しい」
「……はい」
ずっとその言葉を待っていた。という感情のこもった「はい」だった。
ネイクはリーナに顔を近づける。
「だけど、本当にいいのかい? 僕と結婚するということは、君も神格を得ることになる。この世から消えてしまうということではないが、もう普通の人間としての生は送れない。よく考えて……」
「よく考えました」
リーナは遮るように即答する。
「あなたが蛇だと気づいてから、ずっと考えてきました。だけど私はネイク様と添い遂げたい。ネイク・シュランゲという男を永遠に愛し続けたい。この気持ちは決して一時の激情などではありません。一人の女としての冷静な決断です」
ネイクは嬉しそうに目を細める。
「君は……本当に強くなった。愛し合おう、永遠に」
「はい……」
ネイクの唇とリーナの唇が重なる。
この瞬間、リーナは己の存在が、根本から変化していくのを感じた。
それがたまらなく快感で、そして幸福だった。
***
しばらくの後、リーナの婚約者であったライアスは、デミロアを誘い、再び馬で街に出ようとしていた。
ネイクの脅しが効き、大人しくしていたライアスだったが、やはり我慢し続けるのは不可能な男だった。
「デミロア! 久しぶりに飛ばすぞ!」
「ええ、一人ぐらい庶民を踏み潰しちゃいましょう!」
「それもいいなぁ! いいストレス発散になる!」
ライアスはデミロアと共に馬に乗ると、手綱を捌こうとする。
ところが――
「……蛇!?」
今のライアスに、ネイクは手を下してはいない。
にもかかわらず、彼には手綱が蛇に見えた。見えてしまった。
「わぁぁぁぁぁっ!!!」
「何をなさるの、ライアス様!?」
「蛇っ! 蛇だぁっ!」
「何をしてるのよ、このバカ! 危ないじゃないのぉ!」
「蛇がぁっ……!」
二人は落馬した。
落馬は運が悪ければ、命を落としてもおかしくないアクシデントである。
リーナはライアスに馬から振り落とされた時、運が良かった。かすり傷だけで済んだ。
そして――この日の二人はあまりにも運が悪かった。
人々は噂した。
彼らの末路は、まるで神から見放されたようであったと。
***
白蛇の化身ネイクと契りを結び神格を得たリーナは、穏やかな日々を送っていた。
基本的には白蛇山の邸宅で過ごし、時には神界に足を踏み入れる。ネイクの父を始めとする神々は彼女を優しく迎え入れた。そして、下山して町を散策することもある。
なお、リーナのいたセルペンテ家は、リーナが抜けた後、没落こそしないまでも衰退し、今後社交界ではあまり存在感がなくなっていく。
リーナは家に少なからず幸運をもたらしていたのかもしれない。
もちろん、本人はそんなことは知る由もなく、神格を得た今、もはや戻ることもあるまいが。
ある穏やかな気候の日、リーナとネイクはいつもの白い邸宅にいた。
二人でゆで卵を食べる。
ネイクは人間の作法にならって、皮をむいて食べようとするが、リーナがそれを止める。
「あの、できれば丸呑みで食べて欲しいのですが……」
「いいのかい?」
「はい……」
リーナは赤面しながら言う。
「私……ネイク様が卵を呑み込む時の喉の動きがたまらなく好きでして……」
「そうかい。じゃあ……」
ネイクが卵を呑み込む。
その細い首にある喉が盛り上がると、卵は胃袋に収まった。
「どう?」
「とてもよかったです。惚れ惚れしました……」
ネイクはリーナの意外な一面に少し驚きつつも、やはり嬉しくもあった。
「じゃあ君に惚れてもらったところで、今夜も……」
「ええ……」
互いに恍惚とした表情で、そのままベッドに入る。
白蛇の化身と、その蛇に見初められた令嬢は、いつまでもいつまでも幸せに暮らしたとされる。
おわり
お読み下さいましてありがとうございました。