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7 ミルクティーと牡蠣グラタン

「トニオが直接会いに来たのか」

「ええ。申し訳ないけど私には合わないと思うから、父さんからお断りしてほしいの」


 マチアスは思案顔で答えた。


「断ってたんだよ、ずっと。あちらさんが諦めなくてな。あそこの長男のことは有名だからな。きっとうちなんぞに話を持ち込む前に、家の格が釣り合うところからいくつも断られていると思うよ」


「そうだったの」


「ああ。うちではお宅様とは釣り合いが取れませんて断ったさ。それでも一度顔合わせをさせろって聞かないから、お前に話が来てることだけは知らせたんだ。だが、一度親を通しておきながらいきなり会いに来るのは筋が通らん。はっきり断るよ」


「ちなみにあのひとはいくつなの?」


「三十だよ。でかい商会の跡取りだから焦ってるんだろう」

「三十……もっと若いかと思った」

「親が育て方を間違ったんだろうが、三十まであれで生きてきたんだ、おそらくもう変わらんだろうなぁ」



♦︎



 ルイーズは台所で野菜を洗いながら『親が育て方を間違った』という父の言葉を思い出していた。


 母リゼットの顔が浮かぶ。

 母は困った顔、悲しげな顔は見たことがあるけれど、感情のままに怒ることはなかった。


 ルイーズは五歳のあの日まで、自分はとんでもなく扱いにくい子供だったと思う。やたら癇癪を起こしていたし、思い通りにならないとわかると「懐かしい夢の世界」に逃避していた。


 あの日、弟のアランはまだ一歳で、風邪で何日もぐずっていた。母は寝ずの看病で疲れた顔をしていた。五歳だったルイーズはそれを見ながら「懐かしい夢の世界」に浸った。


 何度も名前を呼ばれていたことに気づかず、虚な目で懐かしく馴染みのある『あの夢』に浸っていたら、母は抱いていたアランをベッドに置いてルイーズに歩み寄った。


 母はルイーズをギュッと抱きしめると堰を切ったように泣き出した。「どうしたらいいんだろうね。分からなくてごめんね」と。あの頃の母はまだ二十四歳で、今の自分と五つしか違わない。


 看病で疲れ果ててる時に、それに加えていつものように娘の様子が変だったのだから、つらかったろうなと申し訳なく思い出す。


「ルイーズ様?」


 気がつくとネールが心配そうな顔で覗き込んでいた。


「あ、ちょっとぼんやりしてたわ」

「大丈夫ですか?何か悩み事でも?」

「ううん。大丈夫」

「ミルクティーを淹れましょうか?」

「ええ。お願い」


 ネールは小鍋に牛乳を入れて温めると、特別に来客用の上等な茶葉を使ってミルクティーを作ってくれた。


「蜂蜜は入れますか?」

「うん。少し」


 洗った野菜を籠に入れてテーブルに着いた。


 ネールはルイーズのお気に入りの厚手のカップに茶漉しを使ってミルクティーを注ぎ、ルイーズの前に置いた。このカップは飲み干すと底に小さな青い魚が現れるのが気に入っている。

 ミルクティーは優しく甘く、心を慰めてくれた。


「そういえばアラン坊ちゃんが今朝、なにやら怖がってましたけど?」

「え?……あっ!あはは。聞こえてたのね」


 クスッと笑うルイーズを優しい目で眺めながらネールは微笑む。


「ちょっとね。長いことこじらせていた物を封印する儀式をね」

「封印したんですか」

「うん。封印したわ」

「そうでしたか」


「洗濯物を取り込んできます。今夜は牡蠣とキノコのグラタンにしましょうね」

「私も一緒に作るわね」

「はい、お願いします」



 ネールが向かったのは馬小屋で、コズモが母馬カリータのブラッシングをしていた。


「あんた今朝いなかったね。ルイーズ様の相手を確認しに行っただろ?」

「人聞きの悪い言い方をするな。ちょっと離れて護衛しただけだ。お嬢は誰にも会わずに野原まで行って帰って来た」

「そうかい」

 


♦︎



「うわぁ。バターのいい匂い!お姉ちゃん、今夜のメニューはなに?」


「牡蠣とキノコのグラタンよ、アラン」

「あー、それ僕の大好きなやつだ」

「知ってる」


 戻ってきたネールがアランに声をかけた。

「おなか空いたのなら、少しだけ腹ふさぎを出しますか?育ち盛りはいつでも空腹ですもんね」


 ネールは茹でてあった鶏胸肉を薄く切り、千切りのキャベツを魚醤、ゴマ油、刻んだパセリ、少しの蜂蜜で和えて胸肉と一緒にパンに挟んで皿に乗せて手渡した。


 アランは大きな口を開けてかぶりついて「ゴマ油と魚醤は合うね」とモグモグしながら感想を述べる。


 ルイーズは玉ねぎとキノコを薄切りにして小麦粉を振り、溶けて泡立っているバターで炒めていた。


「お嬢、ちょっと商品に不足が出そうです」

コズモに呼ばれてルイーズが料理をネールに任せて出て行く。アランも部屋に戻った。


 一人になると、ネールは考え事をしながら料理を続ける。


 ネールは五十八歳だ。

十八歳の時に好きだった男に騙された。仕事で失敗した、結婚するために金が必要だと言われて金を求められ、商売をしていた家の金に手をつけた。それはすぐに見つかって、額が大きかったので親に勘当された。男を頼ったら今度はその男に売り飛ばされた。


 絵に描いたような安い手に引っかかった。世間知らずだったし愚かだった。


 そこからは殺されたくない一心で良心を投げ捨てて生きた。詐欺の片棒を担いで毒蛇のネミルと呼ばれていたのはその頃だ。


 しなくていい苦労ならしないほうがいいとネールは思っている。『苦労が人生の肥やしになった』と笑って言う人の後ろには、泥沼から這い上がれないまま泥にまみれて息絶えた死体がたくさんあることを忘れてはいけないのだ。


 そして、泥沼から這い上がっても、日の当たる場所までたどり着ける人はそれほど多くはない。自分はとても運が良かった。泥沼から引き上げてくれて肩を貸してくれて一緒に歩いてくれた人がいた。


 ふと、コズモの言葉を思い出す。「野原に行った」と言っていた。前に話をした時は「馬で海に行っている」と言ってなかったか。


「封印する前は海で封印したら野原、か。では海まで行ってみるか」


 マチアスに相談するべきかどうか迷う。マチアスは愛娘が訳ありの男と何かあると知ったらどう出るだろうか。まだ付き合いが浅いから判断がつきかねた。頭にきて問い詰めたり外出を禁じたりされるとまずい。


「妨害されればされるほど燃え上がるのはお約束だからね。でも、せめてどんな訳ありなのかだけでも確かめようか。ルイーズ様には万が一にも泥沼に落ちてほしくない。それだけさ」


 やがて料理は出来上がり、ラカン家三人とコズモが揃う。


 ジュウジュウと音を立てる溶けたチーズの香ばしい匂いがする部屋で、皆がハフハフ言いながら牡蠣とキノコのグラタンを頬張っている。大ぶりの牡蠣をパクリと食べて「アツッ!」「美味しい!」「牡蠣うまい」と賑やかだ。


 笑顔で彼らを眺めながらネールは考え事をしていた。



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