23 ネールの虚無顔
その夜、出資の話を報告しようと待っていたけれど、ローランドの帰りは遅かった。
何度も「遅くまで起きて待っていてはいけないよ、寝てるように」と言われているので先に眠った。
ローランドの体調が心配になるわ。そんなに働かなくても私の収入もあるから暮らせるとは思うのだけど。
♦︎
翌朝、愛馬ベントニオの運動を兼ねて新しい営業場所を探しに出た。ローランドは朝も早くて話をする暇もなく忙しそうに出かけて行った。
「仕方ありませんよ。働き盛りですからね」
「まあ、そうよね。仕方ないわよね、仕事ですもの」
「ローランド様は必死なんだと思いますよ。手広く商売をしている家のお嬢さんと夫婦になったのですから。ルイーズ様に不自由をさせたくないと思っているのではないでしょうかね」
「そうかもしれないわね。贅沢なんて私はしないけど、彼にとっては私が贅沢をするかどうかじゃないのかもね。男のプライドってやつなのかも。難しいわ」
「殿方は誇り高いですから」
「毎朝目が覚めるたびに幸せだなって思ってるんだけどな」
そんなことを話しながら住宅街を進む。
王都は小物やリボン、布地などはお手軽価格のものから高級な物までなんでも揃っている。足を伸ばせばなんでも手に入る。
なので住宅街では食べ物を販売することにした。家で食べられる物。自分で作るのは少し面倒な物。
ネールは
「平民の住宅街の中にはそこそこ不便な所もあります。その辺りを見てみましょうか」
と教えてくれた。
ベントニオに空の馬車を引かせてゆっくり住宅街を進む。確かに商店は見当たらない。
「そうね、この辺りでお惣菜やちょっとしたお菓子などを売るのもいいかもしれないわね」
「どこか良さげな場所がないか探しましょう。住んでいる方に聞いてみますかね」
そんなことを話し合っていると、とある裕福そうな家から仲の良さそうな男女が出てきた。背の高い男性の顔を見上げて楽しそうに会話をしている美しい女性ははしゃいでいた。歳の頃は三十代後半くらいか。もしかしたら四十になってるかも。
「ねえ、ネール。私、目がおかしくなったのかしら。あの家から出てきた男の人がローランドに見えるんだけど」
「……」
ネールが返事をしない。御者先に並んで座っているネールの顔を見たら、なんていうか『虚無』だった。灰色の瞳が暗い穴みたいだ。
ネールの顔には驚きも怒りも悲しみも何も無い。虚無。
「ルイーズ様、どうなさいます?」
虚無顔のネールの声が低い。
「どうって?」
「行かないんですか?ルイーズ様が行かないならわたくしが行きますけど。どういうことか聞いてまいります」
「それは待って」
どうしようかとしばらく考えているうちに二人が遠ざかり、小さな個人所有の馬車に乗って去って行った。
「ローランドが楽しそうには見えなかったから、まあ今夜にでも話を聞くわ」
「ずいぶん落ち着いてるんですね」
「何か事情があるんじゃないかと思うのよ」
でも、さすがに気力は無くなって帰ることにした。途中でネールが甘い焼き菓子を買って手渡してくれる。
「こういう時は甘いものが効きますよ」
「ええ」
「話し合ってくださいよ?」
「ええ」
「我慢は絶対にだめです。どういうことか聞いてくださいね」
「わかった」
虚無ネールが静かに怒ってる。
「あ!明日の材料を買ってないわ」
「わたくしがやっておきます。メニューは決まってますから下ごしらえもやっておきます。それよりも、必ず話し合いをしてください」
「はい」
♦︎
今夜も遅い時間にローランドが帰って来た。
「ただいま。起きてたの?寝てていいのに」
とりあえず夕食を温めていたらローランドが近づいてきた。
「どうした?」
「今日、平民街の西区に行ったの」
ローランドが何も言わない。
「あなたを見たわ。あなた方、というべきかしら。綺麗な人と一緒に家から出て来て一緒に馬車に乗るところまでずっと見てたの」
「そうか。あの人が商会の経営者なんだよ。忘れ物をしたから馬車で一緒に行ってほしいと言われてね。俺の仕事じゃないから断ったんだが譲らなくてね」
「そう」
「夜遅くまで仕事を頼まれるようになったし、個人的な用事を頼まれるようにもなってきたんだ」
「へえ」
「いい収入の仕事だから我慢してきたけど、あの商会はもうやめようと思ってるところだよ」
「そう」
「ルイーズ?」
夕食を温めてテーブルに並べて、自分にはお茶を淹れた。まあ、信じてはいるけど、少し迷ってた。ここは怒るべきなのかなって。
「夕食が冷めるわよ。召し上がれ。私は平気よ」
「平気な顔には見えないけど」
顔に出したくなかったのに。まだまだね。私もネールみたいに虚無顔ができたらよかったのに。
「野宿の後、あなたが不機嫌だった時の気持ちがよくわかったわ。あの時、私は悪くないのに巻き込まれたと思ったんだけどね。実は最近、この近くのカフェでクリストフさんに出会って、同席していいかと言われたわ」
「えっ」
「私の同意なく向かいの席に座ったから帰ってきたけど。それがあったから今日のあなたたちを見ても頭ごなしに怒る気になれなかった」
「そうか」
「野宿の時もカフェの時も私に隙があったとは思えないの。巻き込まれたと思ってる。あなたもそうかもと思ったから怒ってはいないけど、気分は良くないものなのね」
「ルイーズ。ちゃんと信じてくれてる?」
ローランドが大きい体で私の顔を覗き込んでくる。大きな黒い犬みたい。可愛い。
「信じていなかったら今頃ベントニオに馬車を引かせてイーダスに向かってるわよ」
ローランドがギュッと私を抱きしめた。
「それは困る」
「帰らないってば。ただ……」
「え?ただなんだい?」
「ネールがあなたたちを見ながら完全な無表情だったわ。すごく怖かった」
「……ネールが……無表情」
「ネールには私から事情を説明しておくわ」
気の毒なことに、ローランドはその晩ずっと寝付けないようだった。気の毒なので背中をヨシヨシと撫でてあげた。
結婚してイーダスに一ヶ月、王都に来て二ヶ月。まだ三ヶ月しか経ってないのに色々あるなぁ。
いろいろあるけど、誰にも言えない片想いを抱えて苦しんでいた頃に比べたら、今はとても満たされている。満たされてはいるけど、風は勝手に吹いてくる。何かと波風は立つものだわ。