1 ルイーズとローランド
「父さん、海まで行ってくるね。アラン、自分の部屋をちゃんと掃除するのよ。帰ってきたら点検するからね」
笑顔でそう告げると、ルイーズは乗馬服姿で愛馬にまたがった。
「お姉ちゃん、いってらっしゃい!」
「あんまり飛ばすなよ」
父と弟に笑顔で見送られ、ルイーズは手綱をピンと張り馬の腹を挟んでいる両脚で合図を送った。勢いよく駆け出した黒毛の馬は若く、早く走りたくてジリジリとこの時を待っていたのだ。
門を抜け街道を走り、ルイーズと馬はいつもの海辺を目指した。
視線を前方を固定して愛馬を走らせると左右の景色が溶けて流れるように後ろへと飛んでいく。一人と一頭は空気を切り裂いて進む。
見渡す限り街道に人も荷馬車もおらず、思い切り愛馬を駆った。愛馬のベントニオもご機嫌だ。
畑で働いている農民たちは長い金髪をなびかせて笑顔で走り去って行くルイーズを驚いたような呆れたような顔で見送っている。
やがていつもの海辺に着くと、ルイーズはベントニオから降りて手綱を引いて一緒に歩く。ここは母の思い出も多い場所だ。
「お母さんおはよう。いま、天国にいるの?そこはいいところなの?」
もう何百回も口にした言葉だ。
母、リゼット・ラカンは元気な人だった。二年前の夏、母は弟のアランと庭の花壇の手入れをしていた。ルイーズは二階の自分の部屋の窓から母とアランを眺めていた。
急に冷たい風が吹き、ルイーズの部屋のカーテンがバタバタとはためいたのを覚えている。遠くでゴロゴロと雷が鳴っていた。
「さあ、アラン、このくらいにしてそろそろ家に入りましょう。黒い雲が大きくなって来たわ」
弟に声をかけた直後、母のイヤリングに雷が落ちた。まだ空は青かったのに。
父マチアスと母リゼットは相思相愛だった。そんな母は家族を残して三十六歳の若さでこの世を旅立った。
一部始終を窓から見ていたルイーズは当時十七歳で、それ以来、雷は心底苦手だ。
たっぷり歩いているうちにベントニオの呼吸も穏やかになった。ルイーズは「今日はだめだったか」と口の中でつぶやいてベントニオにまたがった。
この時間を選んで海岸に来るのには理由がある。傭兵のローランドがギルドに仕事の有る無しを確認に行く時間なのだ。
今、近隣国で戦争は起きてない。スフォルツァ王国内も平和だ。だから直接命のやり取りをするような仕事は無いが、商隊や移動する貴族の警護などの仕事はある。
ローランドの姿をチラリとでも見られたらと淡い期待を抱いて家を出てきたけれど、もう帰らなくてはならない。ルイーズはわざとゆっくりゆっくりベントニオを歩かせる。
我ながら未練たらしい、と苦笑していると遠くから自分を呼ぶ声がした。
「ルイーズ!おはよう!」
目を輝かせ辺りをキョロキョロして声の主を探すルイーズの顔は喜びに輝いている。
ベントニオを速歩で進め、声の方向に向かうと、林の外れでローランドが大きく腕を振っていた。
「おはようございます、ローランドさん!これからギルドに行くの?」
「ああ。いい仕事があるかもしれないからな」
「そっか。王都行きの仕事が見つかるといいわね」
「そうだな。気をつけて帰るんだよ、ルイーズ」
そう言ってローランドはルイーズの頭をクシャクシャと撫でると「またな」と去って行った。
「行ってらっしゃい!」
広い背中に向かって声をかけると、ローランドは前を向いたまま右手をヒラヒラとさせた。
クシャクシャと頭を撫でた大きなゴツゴツした手を思い出してため息が出る。
十歳でローランドに出会ってから九年間、ルイーズはずっと片想いだ。
憧れの人は傭兵なんて危険な仕事をしていて、十一歳も年上で、最悪なことに出会った時は結婚していた。
いや、正確に言えば今も結婚はしている。妻のビアンカが「王都に芝居を観に行く」と言って出かけてからもう三年間、行方知れずなのだ。
ビアンカは派手な美人で、落ち着きがない感じの人だった。当時王都では王子様とお姫様の恋の話のお芝居が大人気で、王子様役の役者が本人にそっくりだと、こんなに離れた海辺の都市イーダスでも評判だった。
ビアンカはローランドが体を張って稼いだお金を手にして王都に向かい、乗り合い馬車に乗って王都に着いたところまではわかっているのだが、そこから行方知れずになったらしい。王都の警備隊に問い合わせたが、何の情報も得られなかったそうだ。全部街の噂だ。
以来、ローランドはずっと妻の帰りを待っているらしい。
ビアンカは男に関して何かと良くない噂があったから、イーダスの人たちは「あっちでいい男でも見つけたのだろう」と言っている。
この件を考えるとルイーズはいつも泣きたくなる。
あんなに真面目で働き者のローランドはなぜあんな人と結婚したのだろう。
なぜ離婚の手続きをしないでビアンカを待ち続けるのだろう。
なぜビアンカは「別れましょう」の手紙のひとつも送らずに彼を放っているのだろう。
自分にはどうしようもないことなのが悲しい。でも一番悲しいのは、ローランドが今でも遊び人で派手好きな妻を愛しているであろうことだ。
ローランドはギルドの掲示板に王都行きの仕事があれば最優先でそれを選ぶ。帰りまでに王都の街で妻を探すためらしい。これも噂だ。
街の中で妻を見つけられたならビアンカは無事で暮らしているということで、自分は捨てられたと確認することだ。そんなことのためにローランドは仕事を選んでいる。
悪い人に捕まって怪しげな場所で働かされているのだとしたら、ローランドはそんな場所に入って女たちの顔を確認して回っているということだ。
「馬鹿みたい」
この話を考えるといつもこの結論にたどり着く。だから考えたくないけど毎日考えてしまう。そして一番馬鹿なのは九年間もそんな男を一途に好きでい続ける自分だ。でも仕方ない。好きなのだから。
十歳の時、ラカン商会の隊商の警護に雇われたローランドを見た時、胸がギュッと痛くなった。大柄なたくましい身体、この国では珍しい黒い髪と黒い瞳。少し吊り上がったアーモンド型の目を見た時、視線を外せなくなったのだ。
ルイーズは子供の頃、鮮明な夢を繰り返し見ていて、その夢の中の国では自分を含めてみんなが黒目黒髪だった。
馬も無しですごい速さで走る乗り物、空に向かって伸びる細長い箱のような建物。みんな手に『すまほ』と言う小さな平たい物を持っていて、いくつも連なる長い箱型の乗り物のなかではほぼ全員が『すまほ』という小さなカードのような物を夢中で眺めていた。
ルイーズは『だいがくせい』で家の中で『すまほ』を見ているか額縁の中の動く絵を見たり勉強をしたりしていた。今はそんな夢は見ない。たまに思い出すけど、五歳のある日に(もう夢の話をするのはやめよう)と決めてからは口に出していない。
ローランドの顔立ちは夢の中の人たちに少し似ている。身体は彼らよりずっと大柄でたくましいけれど。ローランドを好きでい続ける理由なんて正確にはわからない。ただひたすらローランドが好きだ。
「帰ろう、ベントニオ。今日も仕事がたくさんあるわ」
今日は山の麓の村まで日用品を売りに行く日だ。ルイーズは愛馬に声をかけて黒い馬にまたがった。馬は振り返り若いご主人様に鼻先を向けてブルルと鳴いた。「元気出せよ」と言うように。
またしばらくの間ほんわかしたお話にお付き合いいただけると幸いです。