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かえらない  作者: 森永盛夏
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第五話

「ちょっと、おい!」

はっとして我に返る。暮太がものすごい形相でこちらを見ていた。

「人の話を聞け!一郎!」

やめろ、その名前で呼ぶな。もう一度そう言われたら怒る気でいた。

「暮太さん?天乃の名前は一郎じゃないよ?竜也だよ?もうこれ何回も言ってるよね。」

俺の機嫌を見て高嶋はそう言ってくれている。そんな彼の手元のタバコはもう短くなっていた。時間にして十分ぐらいだろうか、長いこと夢を見ていたみたいだった。

「私は、ハリウッドに行きたいの。そんな私のおばあちゃんが、私の演技じゃなくて一郎の演技が見たいって言ってるんだよ。そんなの悔しいじゃん、ね?演技したことあんならわかるでしょ?高嶋くん。」

暮太は、本当に怒りに任せたままという様子で早口で言った。その丸くて大きな瞳にはうるうると涙が浮かんでいる。

「ん、いや、そいつは一郎じゃないけど。確かに身内が自分の演技放ったらかしで他の人の演技を見たいって言ったら悔しいな。」

備え付けの灰皿にタバコを捨てると、この場から逃げるように歩き出した。

「雅、何処行くんだよ。」

高嶋雅、これが高嶋の本名だった。俺と高嶋が出会ったばかりの頃、あいつは下の名前で呼ばれるのをとても嫌がった。


 オリエンテーションから二週間ほど後のこと。高嶋と俺は、キャンパス近くのラーメン屋で昼食をとっていた。人生で一番エロかった話をした後だいぶ仲良くなれたと思っていた。そろそろ頃合いかと思い、ドキドキしながら、はじめて高嶋を下の名前で呼んだ。

「雅、次の授業サボっちゃわね?」

俺が口から雅と発した途端、高嶋の表情は硬くなった。それから高嶋は無言でラーメンを啜った。

「どうしたんだよ。サボるとか嫌なタイプだったっけ。」

「俺、自分の下の名前嫌いなんだよ。雅って女っぽいじゃん。」

「あ、そうなの?ごめん。でもかっこいい名前だと思うけどなあ。」

嫌がるにしてもここまで嫌かなあなんて思いつつも謝って、それでもまだ機嫌の戻らない高嶋と授業を受けた。それ以来、雅という呼び方は俺の中でイラッとしたときの復習手段の一つになっている。


 久々の俺の雅呼びに、高嶋はピタリと足を止めてこちらを振り返らないまま答えた。

「タバコ吸ったから自販機行って水買うんだよ。」

手をひらひらと振って早足で行ってしまった。でも、返答の調子から見るに水を買ったらすぐに戻ってきてくれそうだった。

「一郎。」

懲りずに一郎と呼んでくる暮太。俺は本当に嫌になって怒った。

「俺は竜也だ!一郎じゃねえ!」

暮太はびくりと肩をちぢこめて、小さくごめんと言った。とたん暮太が女の子であることを意識してしまい、申し訳なくなった。それでも消えない怒りは、行き場を失って中を彷徨った。それから沈黙が続いた。暮太はもう話を切り出す勇気を失ったようで、先程までの勢いは嘘のようだ。それから、俺と暮太はなにか通じ合っているように向かい合った椅子に同時に座った。これは俺から話題を切り出さないことには難しいな。

「どこで俺の演劇経験なんて知ったんだよ。」

まだ少し苛ついている俺に気を使い、丁寧に言葉を選びながら暮太は話し始めた。

「どんぐりと山猫。それまで演劇なんて見たことのなかったおばあちゃんが見に行った、最初の演劇公演。私が役者になりたいって打ち明けた後、役者がどんなもんかって言って近くでやってたどんぐりと山猫を見に行ったの。」

それからというもの、暮太のおばあちゃんは人が変わったようにいろいろな演劇を見に行ったらしい。劇団四季、宝塚、舞台上で演技が行われているならそれだけでうきうき肩を踊らせながら見に行ったらしい。

「それで?その話と俺の演技と暮太さんの怒りと、何が関係するんだよ。」

俺は思っていた疑問を素直にぶつけた。

「おばあちゃんは、どんな演劇を見ても、どんなドラマを見ても、一郎くんが一番だよ。一郎くんが一番すごかったよ。って。ずっとずっと一郎くん、一郎くん。私が高校で所属してた演劇部の公園にも見に来てくれたけど、私どころか私が尊敬していた先輩の演技よりやっぱり一郎くんがいいって言うんだよ。」

暮太が高校三年になって、演劇部としての最後の公演ももちろん見に来てくれたらしい。暮太は主演を張った。舞台は大成功だった。それでもおばあちゃんは、暮太を褒めなかった。それどころか、あんたはプロにはなれない。ときっぱり言った。一郎くんみたいな子が成功するんだと。

 途中から涙を流し流し言葉を紡ぐ暮太の姿を見て、俺の怒りの矛先はだんだんとそのおばあちゃんに向かっていった。こんなにひどい話があっていいものか。自分の孫を誇れないなら、甘やかせないなら、それはもう祖母とさえ言えない。

「見返してやろうぜ。」

俺の中のもうひとりが、重い腰を上げて立ち上がった音がした。暮太はキョトンとした顔でこちらを見ていた。


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