慟哭
愛知県の隅の方に鳴桜町という町がある。町の真ん中には、円い玉をひしゃげたような格好のずんぐりとした陶器が橋の両側にずらりと並んだ人撫で橋という大きな橋が架かっている。
黒が染みた茶色で覆われた風貌は枯淡な重みを感じさせる。この橋を車で渡るときにあちらの方に見える海は朝焼けの時刻などに見ると太陽の光が海面に反射して、咲き乱れた桜のようだった。戦後、名家だった如月の家が、率先してこの町の発展に尽力した。
昔から繊維が有名でこの橋のかかる奉川では良く上質な布が晒されていてそれをかける人の様子が布を撫でるように見えることから人撫での橋と呼ばれるようになったという。
その鳴桜町の奉川の川下で如月紗綾はその生を受けることとなった。複雑な人間関係を経て、実質的には妹として。あるいは一人っ子として如月紗綾は幼少期からその町の澄んだ空気を吸って育った。
死ぬまでの二十年の間如月紗綾は自分でも自覚が出来るほどに、自分は恵まれた生活を送っていると感じていた。実際、主観的にも客観的にも、恵まれていることが認められるような生まれだった。両親ともに成功者で生家は由緒のあるものだった。
その如月紗綾の人生に深い影が落ちていたのは、本人もよく知らないことであるが幼少期であった。
如月紗綾は、自分の最も強い咎が降りかかる人生の瞬間を、無垢な、知らされることのない、幼き子供として護られていたことが、全てにおいて幸せだったのだ。
外から見れば幾ばくもの愛を親だけでなく親戚中からその身に受けて、すくすくと育っていった。
父親と結婚するまでは音楽家だった母親のすらりとした綺麗な指が奏でるショパンが紗綾の耳をいつも撫でていた。しかし、家庭は薄い闇にいつも覆われていた。
愛されていた。しかし、孤独でもあった。
孤独でない子供時代を過ごさない人間など一人も居ないように、紗綾もその例に漏れることは無かった。紗綾の場合、飽かない周囲の愛への独占欲と、家庭に四六時中纏わりつく何か微妙な燻りが孤独を強めていた。
幼少時代の如月紗綾は愛され過ぎていて、少しでも足りないといつでもすぐ不安になった。親戚や両親にすらその心中を推し量ることは不可能だっただろう。
一緒に居るとき、紗綾はいつも楽しそうに笑って遊んでいたのだから。目の前に居ないとき、どれだけ紗綾が孤独に感じていたのかは紗綾にしか分からなかった。
そんな寂しがりの紗綾だったからこそ、覚えていることがある。ある美しい女の人の存在だ。時折家に居て、紗綾と一緒に遊んでくれた女性が居たことを紗綾は覚えている。
ある日、その人は紗綾の為に鶴を折ってくれていた。紙が丁寧に折り畳まれ鶴の形になっていく様子は幼い紗綾にとってまるで魔法だった。
不思議な人だった。真っ直ぐな黒い髪からは幼な心に何か妖しくて美しいもの(後に色気と気付くことになる)が感じられるというのにその他の部分からは一切の印象を受けることは無かった。そんな女だった。「おねえさん」そう話しかけると女性は手織り鶴を折る手を止めて紗綾の方を見た。
「紗綾ちゃん、何かな?」
「おねえさん、どうしてそんなにおりがみが上手なの? どうしてそんなに綺麗なの? どうして優しいの」
「どうしてだと思う?」
「さや、わかんない」
声は鈴としていた。声だけは存在感があった。
彼女の声は柔らかくて、たまに歌うこともあった。彼女が歌ってくれたかごめかごめが紗綾は好きだった。
「そう」
「どうして?」
「どうしてかな?」
「おねえさんにも分からないの?」
「お姉さんにも分からないの」
幼い頃にはその女性が時折傍に居てくれた。
影の薄い人だった。しかし、美しくもあった。月光が透けてしまうよな肌をしていた。薄い唇が動くととても綺麗な音を奏でた。
その叔母さんは本当に希に、そして少しだけ家に居た。紗綾の面倒を見てくれていたとき、少し対話の間が空いたり、紗綾が一人で遊んで手持ち無沙汰になるとその人はいつも決まって窓越しにどこか遠くの空を見ていた。綺麗だった。紗綾の記憶の中のその横顔は氷と溶け合った硝子で作られた彫刻品のように美しかった。その美しい顔を見せる度にその人は瞳に涙を浮かべていた、その涙の理由は幼い紗綾には、理解が出来なかった。
女性が来る頻度は紗綾が大きくなるにつれ減っていき、いつしかぱったりと途絶えた。小学生になる少し前の頃には叔母さんの姿を紗綾が見ることはもう無くなっていた。記憶の中に幻のように存在しているくらいだった。もう忘れていた。
それから何年もの時間が流れた。
ある日のことだ。中学生にあがったばかりの紗綾が部屋を掃除していると本棚の後ろからくしゃくしゃになった折り鶴が出てきた。紗綾にも最初それが折り鶴だと分からなかった。しかし、拾い上げて見てみると確かに羽根こそあらぬ方向に曲がっているものの鶴が今にも羽ばたこうとしている格好で床に落ちていた。
朧だった幼い記憶はそれを契機に鮮明になった。懐かしく思い出された。
そういえばあの人は誰だったのだろうという疑念が生まれた。
次の日、珈琲片手に居間でくつろいでいる母親に何気無く聞いた。幼い頃たまに私の面倒を見てくれたあのお姉さんは誰? どうしてある日を境にパッタリと姿を見せなくなってしまったの?
いつも優しい母親が見たこともないような厳しい顔をした。目に怒りの色の絵の具、それに哀れみの色の絵の具を少しだけ混ぜ合わせた目をしていた。紗綾はそれだけで少し体が震えた。軽い気持ちで触れてはならないものだと分かった。
母親は父には絶対に内緒という条件で話してくれた。
その女の人は、もうこの世に居ないということを真剣な顔で教えてくれた。どうして?
それは教えたくない。母親が答えた。ただ、紗綾が黙って母親の瞳を見ていると、ゆっくりと母親の口が開かれた。
あの女の人は自殺であった。
女性は、父親の元恋人だった。
母はそれから滔々と独り言のように語った。
紗綾はつまり、それが、____時代錯誤、だ、____それが、正妻でない、妻____だったということは聞きたくなかった。死んでいた。人撫で橋から飛び降りて自ら命を絶った。
紗綾はその話を聞いて、あるイメージが脳裡に浮かんだ。奉川の水面に仇花として散っていった一輪の花。
自らの心まで人撫で橋の水面が揺れた煽りで揺れているような気すらした。
母親の声は震えていた。それから紗綾に、如月の家の大きさ、古さを延々と語った。紗綾は母親は如月という家の為だったと言いたいのだと思った。母親が泣き出した。
私のせいではなかったと泣いた。奪ったわけではなく、知らなかったと紗綾に向けて涙を流した。
すがりつくようにして泣かれた。
見たこともない取り乱しようだった。
それからの事だ。紗綾が微かな視線を感じて生きることになったのは。




