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駿河は、御津の部屋に行った後に、階段を登った。
甘利も着いてきた。筒賀の部屋はアパート二階の、階段から一番遠い部屋だ。ここから身を乗り出すと唯一仲諒大学を視界の内に収めることが出来る。とはいっても竹林に遮られて、八号館が僅かに見えるだけなのだが。筒賀は真面目だが朝にすこぶる弱いせいで珠にダッシュで階段までの廊下を走り抜けていくのだがその日の夜に会話をすると決まって筒賀はもう少し階段に近い方が良い、駿河の隣の部屋が良いと饒舌になるのだった。
「甘利は凄く傷つきました。先輩に嘘をつかれて。そんなに甘利を信用してくれてないんですか」甘利が栗色の髪を人差し指で器用にくるくると巻きながら口を尖らせた。「押しますよ?」
ベルのマークがプリントされたボタンを甘利がゆっくりと押した。部屋の中から足音が聞こえてきた。
「甘利ちゃん何か用なの」
籠るような声。
「あは。ええっと、黒澤先輩が筒賀先輩に用があるって言ってましてー。甘利も着いてきちゃいました」さっきまでの怒りを微塵も感じさせない、柔らかな口調で甘利が応えると、筒賀が動揺しているのが手に取るように分かった。
筒賀が駿河がそこに居るのかと問い返した。駿河は甘利の前に立って、筒賀に見えるようにして立った。
ドアが開いた。駿河は御津にそう言ったように、話があると告げた。筒賀は無言でこくりと小さく頷いた。駿河に視線を送って、入るように言ったように思えた。駿河の後ろに続いて甘利も入っていった。玄関の壁にはホワイトボードがかけてあって、「必勝」と書かれていたのを駿河は見つけた。
何に勝つのだろうと疑問が一瞬頭の内に生まれた。ただ、それは今背負っている問題の重さに潰され消えていった。
筒賀の口から零れるようにして出てきた声は突き放すような、抑揚の無い冷たい声だった。
「ねえ、なんで隣に甘利ちゃんが居るの?」筒賀が甘利をじっと見ていた。怒っているように思えた。
「私が居てはいけませんか?」甘利も返した。筒賀のその言葉の内容が甘利がどうしてここに居るかというただの問い掛けではないように感じられたからだ。甘利がここに居てはいけない、とそういうニュアンスを敏感に感じ取っているようだった。
駿河は二人が対面しているものの目を合わせていないことに気付いた。
なんだか、険悪だ。しかも、甘利の言葉に対して筒賀は躊躇いなく顎を小さく引いて、こくりと頷いた。
「ちょっと席を外して」
「……嫌ですよ」
「ここは、私の部屋」
「それでも、甘利は嫌なんですよ」
甘利がにっこりと笑った。目は笑っていなかった。筒賀は表情を動かさなかった。甘利は、微笑を続けていた。いつの間にこんなにも仲が悪くなったのだろうか。
自分の知らない間に、僕と冴木の様に、一件あったのかと思った。元々会話が少ない二人だとは感じていたが、それは裏返しとして嫌い、という深い関係性をもたらさない関係性でしびれを切らした筒賀が駿河に甘利に退出してくれるように言った。真剣な目だった。「甘利ちゃん、済まないけど席を外してくれないか」甘利が露骨に嫌な顔をした。「先輩が謝るってことなんて無いです。悪いのは用もないのについてきた私ですから。先輩がそういうのならば部屋から出ていきますが、そういうからには筒賀先輩にも相応の理由があるんですよね? ないとは言わせませんよ」
「あるから、早く出てって」筒賀の返答は、空気を切り裂いて飛んでいく矢のように早かった。
甘利の顔が、怒りでかあっ、と赤くなった。甘利が無言で立ち上がって部屋から出ていった。ドアを閉める音が、駿河と筒賀が残された部屋に響いた。
____おもむろに。筒賀が駿河の隣に座った。
そして少し身を寄せた。「筒賀? どうした?」筒賀は何も言わなかった。「返事」「返事? 何の事だい」筒賀が悲しそうな顔をした。ため息が首元に微かにかかった。嫌にくすぐったかった。「分かんないならもういいよ」
筒賀が悲しそうな顔を更に暗くした。「私に話って?」
「あの日、筒賀は何してたのかなって聞きに来たんだ」
「何時のこと?」筒賀が聞き返した。
「紗綾ちゃんが死んだ日のこと」
空気が張りつめた。時間が凍った氷を砕くようにして動いていた。ミチミチと音を立てながら動いていた。
「なんでそんなこと聞くの? 私がその日何してたかなんて駿河はどうして知りたいの?」
「僕には紗綾ちゃんが自殺したとはどうしても思えないんだ」
「それじゃあ駿河は他殺だと思ってるの」
「そうだ。紗綾ちゃんが死ぬ前に僕に見せてくれた態度から、僕は紗綾ちゃんが自殺するとは思えないんだ」
「自殺だよ」筒賀が即答した。「どうして分かるんだい」「だって私じゃないからだよ。私が殺していないから」
____どういう意味だ? 疑問符が死の舞踏を踊っていた。
「私以外に紗綾ちゃんを殺したいって思う人間、一人も居ないと思うから」
淡々とした口調で、喋りかけるようにではなく、何かの原稿を読んでいるように抑揚の無い声だった。
「筒賀? 君は何を言ってるんだ?」
「だって駿河は私を疑ってるんでしょ?」
「いや、僕は君を疑ってるわけなんかじゃない。君でないことを確かめに来たんだ。君が紗綾ちゃんを殺したいと思ってた? 嘘だ。紗綾ちゃんと君との間には何もなかったじゃないか」
「ううん、大嫌いだったよ? 紗綾ちゃんのこと。あの女なんて大嫌いだった。あの女の少しの成分だって文字だって何から何まで嫌い」
駿河には筒賀の発言の意図を把握することが出来なかった。仮に。____仮に殺意があったとしても、何故それを言う? 黙っていればいいものを。どうしてそんなに酷いことを言えるんだ? 何のメリットも考えうることが出来ずに、困惑した。
「多分、駿河は私が今何言ってるか分かんないよね。でも私は駿河が紗綾ちゃんのことを納得したいと思ったからこれを言うんだよ」
「納得だって?」
「うん、そうだよ。でも駿河は紗綾ちゃんのこと大切だったんだよね。だから、知りたいんじゃないのかな? 全て。それなら私は駿河に全部言ってあげるから。私のことだけ私は言ってあげたかった」
駿河に間をもたせるために、筒賀が咳き込んだ。
「そうだ。駿河に見て貰いたいものがあったんだよ」
筒賀がわざとらしく手を自分の胸の前でパンと軽い音を立てながら両手の掌を合わせた。駿河の、心臓は何かの予感に満たされ心拍数を上げていた。




