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それから一週間が経っていた。駿河の誕生日は、過ぎていた。数日間降り続いた雨はもう干上がっていた。
冬と謂えども照り付ける日光が窓越しに駿河の肌をジリジリと焼いていた。駿河が冷えきった水を口に含むと頬が少し痛かった。
駿河は喫茶店のコーヒーに砂糖とミルクを親の仇のように入れて、胃に流し込んだ。味覚はとっくの昔に治っていて、甘い珈琲が飲めたものではないほど不味く感じられた。それでも、駿河が珈琲に砂糖とミルクをこれでもかと入れたかったのは紗綾の死を受け入れるためだったように思われる。
「……あの」
また、鈴が鳴るような綺麗な声が駿河の耳に入ってきた。
「甘利ちゃん?」
「お座りしてもよろしいでしょうか」
「……そんなもの僕の了承を得なくてもいいだろ?」
甘利は駿河の言葉に少し身を縮ませて駿河の対面に座った。いつも紗綾が座っていた場所だった。
深い沈黙が二人の間に流れていた。
甘利は俯いた。駿河は大して変わり映えのしない窓の外の風景を眺めていた。
「黒澤先輩。なんていうか、その、紗綾ちゃんのお葬式に出ることが出来なくて、すいませんでした」
「……甘利ちゃんが僕に謝ることじゃないじゃないか」
「……でも」
「むしろ友人の死によっての忌引きを教授が認めてくれなかった甘利ちゃんの方が気の毒だったじゃないか。どうしても欠席は叶わなかったんだろう?」
駿河は甘利を見た。今にも泣きそうだった。
「お気遣いありがとうございます」
「感謝なんていいよ」
駿河は甘利を見た。相変わらず小動物のような可愛さを纏っていた。
「ねえ、甘利ちゃん」
「何です?」
「御葬式で紗綾ちゃんの両親と色々話してきたよ」
「そうですか」
「紗綾ちゃんの両親、すごく悲しんでてさ。あんな明るかった娘がなんでって」
駿河は珈琲を一口飲もうとして、空っぽであることに気付き、テーブルの上にカップを戻した。
「____なんで、自殺なんかって」
「本当に。……私も分かりません」
そこまで言って、駿河は言い澱んだ。言うのを悩んだ。でも、少しは言葉にしておかなければ、心の整理がつかなかった。
「でも、僕は、絶対に自殺じゃないと思ってる」
甘利が怪訝な表情を浮かべた。
「しかし、警察が事故だって……遺書もあったんじゃないんですか?」
「……それでも他殺だ。僕は紗綾ちゃんが殺される日の前の日に紗綾ちゃんと会ってるんだ、僕にはその時、紗綾ちゃんがとても自殺するように見えなかったんだよ」
紗綾が落ちたと思われる七号館の七階には遺書と思わしき紙が置いてあったそうだ、名詞が、何回も書き直されていること以外は、おかしいところがなかった……らしい。
でも。そんなの。
紗綾ちゃんには絶対的な夢があって、目がキラキラ輝いていて、未完成のものを持っていた。完成させるものがあって、それについて、紗綾ちゃんは隠していたようだけど、僕には紗綾ちゃんがかなり真剣に喋っているように見えた。だから____。
……僕は馬鹿だ。何度でも思う。あの時もう少しだけ親身になって紗綾ちゃんの話を聞いてあげていれば、もしかしたらこんなことにはならなかったのかもしれない。あんな楽しそうに僕に語って聞かせてくれた紗綾ちゃんが自殺するようには到底思えなかった。
「先輩……お気持ちは分かりますが、紗綾ちゃんが自殺するような人間に見えないという理由だけで他殺だと決めつけるのは、先輩にとっても不利益であると思いますよ。報われなかった場合、先輩は救われません」
「でも、あの紗綾ちゃんが、自殺するわけがないだろう? 甘利ちゃんもそう思うだろう?」
駿河が甘利の瞳の底をじっと見つめた。
「はい。しかし、警察はやはり自殺だと言っていますし、仮に他殺だとしたら一体誰が、でしょうか」
「僕ら、アパートに住む住人の中の一人だ」
甘利の表情が凍てついた。無理もないと駿河は思った。
「何を言ってるんですか先輩。分かってますか? 貴方が言ってること。"誰"を疑っているのか、分かってますか____? 一緒に暮らしてた、みんなのこと、ですよ」
……分かってる。本当は分かっていないのかもしれない。まだ、知らないのかもしれない、答えはまだ一つに定まっていない。だからこそ、探そうと思ったのだ。そうでもしないと、正気を保ってはいられなかった。人目を憚らずに何処だと構わずに泣き出してしまいそうだった。
もう体の半分ほどは正気ではなかったのかもしれなかった。
「僕は、紗綾ちゃんを殺した人間を絶対に許さない」
「……先輩、大丈夫ですか? 甘利はなんだか心配です。こんな……なんだかモラルの無い事を言う先輩見たことありませんよ」
「僕はただ納得したいだけだ。それだけなんだよ甘利ちゃん」




