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「雨音。天蓋から歩み寄る雨の足音が聴こえている。
駿河が喫茶店から外を覗いた。一定のリズムで窓を叩く雨が外の光景をぼんやりと濁らせていた。あちらの方に見える書心山さえも見にくいようだった。
愛知県十幡市一帯は朝からざあざあと雨が降っていた。市の中心から少しばかり離れた所にある仲諒大学も昼間に近い時間だというのに、外がどんよりと暗いせいで全館の照明がついていた。心なしかいつもより視界がぼやけている。雨が窓に当たってトーントントン、トーントントン、とまるで救援でも求めているかのような無気味な一定のリズムを刻む。一度雨音を気にしてしまった駿河の耳からはいやにその音がはがれなかった。燻ったコーヒーの煙が鼻を撫でた。
「紗綾ちゃん、何があったんだい?」
神妙に。
大学構内のいつもの喫茶店で、しかしいつもとは全く違い、取り乱して泣いている紗綾を見て、黒澤駿河はどうして泣いているのか全くと言って推測がつかなかった。だが、黒色の馬が脳味噌を踏み締めて駆けていくような嫌な予感だけは感じていた。地の底から何かが叫んでいるような悪寒と言ってもいい。
おかしい。明らかにおかしい。何か。何か、とんでもないことを背負って、怯えているように紗綾が泣いている。
「せ、先輩」
紗綾が重々しい雰囲気で駿河の方をちら、と見た。カタカタと手が震えている。
「なんだ、どうした。何があったんだ紗綾ちゃん? 何で泣いてるんだ?」
胸騒ぎがする。
「先輩、」
紗綾の涙が頬を伝っていった。一筋だけではなかった。
何かが、違う。
紗綾の普段とは全く違う挙動に駿河は黒い手のようなものが全身に纏わりつくように不安に囚われていく。
「何だ、早く言ってくれ。紗綾ちゃんらしくもない。いつもなら皮肉の一つや二つくらいはすんなり出てくるじゃないか。そんなに落ち込んでる紗綾ちゃんを見るのははっきり言って慣れていなさすぎて見ていて不安になる。何があったのか言ってくれ、僕に!」
まるで、親か祖母、少なくとも家族程度に近しいものの訃報を聞いたような、いや、なんだ。これは。
「甘利ちゃんが、殺されました」
「そんな、」
駿河にはその先の言葉は紡げなかった。頭が真っ白になった。死んだ、と殺されたの違いについてすら考えることが出来ないくらいに何を考えていいのか、分からなかった。時計の長針がゆっくりと時を刻んでいるのがよく聞こえた。
窓から見えるバケツをひっくり返したように降っている雨は、どうにも止むことは無さそうだった。」
***
「あ、今日飾ってある花はクチナシの花ですか。私好きですよ。花言葉がとても素敵なんです。知ってます? クチナシの花言葉?」
「知らない」
「流石先輩! 無知ですねえ! 私は幸せ者、とても幸せ、幸せを運ぶ、ですよ。花言葉のひとつやふたつ覚えておかないと知的な先輩キャラクターはつとまりませんよ?」
「別に目指してない」
「またまたー。そんなこといっちゃってー」
駿河が、原稿用紙を指の先でなぞった。
「で? この脚本が何か? 紗綾ちゃんの頼みでざっと目を通してみたけれど」
そう言って駿河は手に持った紙の束を喫茶店の卓の上にそっと置いた。それは白い原稿用紙の束だった。主人公が喫茶店で、事件の始まりを告げるシーン。
その原稿用紙の一番上の用紙の題には「私ととあるセンパイとの殺人事件簿(仮題)」との文字がある。
何時ものように喫茶店で珈琲をすすっている駿河の下に紗綾が来たと思ったら開口一番、紗綾の小説を読んでくれませんかとミステリーな言動をしたので、面倒臭いなと思いつつも、どうせ逃れられない上に少しだけ興味がある。
ということで駿河はその原稿に目を通した。所々、動詞が来た見た聞いた、のようなシンプルなものだったのは後で推敲するときに全部書き直すつもりだろう。
まあそこは気になる部分ではあるが。それよりも気になる場所がある。
「どうです? 紗綾が書いたのはなんと大学構内で起こる殺人事件なんですよ!」
紗綾がピースをキメる。が、それが照れ隠しだということは駿河にも分かっていた。こっちが原稿に目を通しているさっきから感想を待ち遠しそうにぴょんぴょんと跳ねていたのが微笑ましかった。わけもなく。
「というかなんで実名なんだ?」
「いやいや、仮名ですよ。仮名。まだ肝心の登場人物の名前は二人しか決まってないので、暫定的にってことですよお」
「二人は決まってるんだ」
「ええ、物語に出てくる先輩の前で泣きながら友人の死を知らせる女の子が、暫定如月紗綾こと東雲ちゃんですね。東雲ちゃんだけ東雲ちゃんにしておくと何か変なので私の名前にしてありますが。もう一人は先輩役なのですが……これはまあ、その。いいじゃないですか」
紗綾が淡々と机の上に置かれた原稿用紙を整える。しかし、瞳の奥に何かキラキラと光るものを感じて駿河は少し気圧された。
「で、どうですか!?」
紗綾の言葉に駿河は言い淀んだ。
「僕は文学は専門ではないからね。本当に真剣に文学を勉強してきた人に何かを言うなんてとても無理だ……という前提で聞いてほしいんだけれど、素人目に見ての感想なんだけど。うん、いいと思うよ。面白い」
「本当ですか!?」
紗綾の顔がぱあっと明るくなった。




