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「はっはは、そこは黒澤、嘘でも気になるって言うもんだぞ」
「いや、どうも御津さんが聞いてほしくないってオーラを出しているものですから」
「オーラなんて非科学的だろ?」
「おっと、危ない琴線に触れましたね御津さん。良いですか、オーラというのはそもそもの原語は微風を意味するギリシアのアウラーという言葉なんですが、この言葉には一般に人間が纏っている霊的能力の他にも、単なるその人の様子を表す場合に用いることも認められていて、そうですね、とある研究家の言葉を借りて文化的概念とでも呼びましょうか。つまりオーラは人類が普遍的に発想する他人に対するある特異な認識を言葉にしたものであって、これについてはドイツの思想家のヴァルター・ベンヤミンさんがですね____」
「わーった。わーった。やめやめ」
急に言葉を遮られて駿河の口が僅かに尖る。両手を目の前でぶんぶんと振って降参のポーズ。
「で。黒澤。こんなとこで何してんだ?」
「僕は、その」
紗綾が自室で、寝ているから……自分は外へ出っ張ってきた……なんて言えない。
「秋の夜空の下で飲む珈琲もなかなか乙なものかと思いましてね。御津さんは何故?」
苦しい言い訳のような気もしたが御津はあまり気にしていないようだった。
「どうしてだと思う?」
「ええと____」
駿河は御津の服装に目をやった。
……ズボンが履き変わっている。暗いのでよく分からないが、水色に近いジーンズの色がわずかに紺色に近いものと変わっている。勿論食べに行った時と比べてだ。それに靴も。……それだけで十分か。
「なんだ? そんなに私のことをじろじろと見て」
「あの、もしかしなくても冴木と会ってきました? ……ご苦労様です」
御津が一瞬酔いが覚めたかのように、はっ、と驚いた。
「……なんでそんなことまで分かるんだよ」
「ズボン変わってますよね」「それがなんだって言うんだ」「服は変わってない。……吐きましたね、冴木。御津さんは普通そうですし一番弱いのは女性陣でなく案外あいつですから」
御津はおかしそうに笑った。
「あいつが酔って、私の所に来てな」
「へえ、どうしてでしょう」
「そんでいきなりお前について、うだうだ語り始めたんだよ。紗綾ちゃんがどうとかお前がどうとか。ぶっちゃけ何言ってるか分かんなかったけど」
「ああ」
今度は駿河が苦笑いをした。
「なんだかすいませんね」
「どうしてお前が謝るんだよ」
「さあ? 僕にも良く分かってません」「なんだそれ」
二人して笑った。「しっかし」御津の声だ。
「黒澤は洞察力が凄いな。黒澤はー、黒澤は凄いなー」ぐりぐりと頭を小突きまわされる。
「やめてください照れます」
「容姿や姿への称賛は受け取らないくせに、推理への称賛は素直に受け止めるのかい」
「それほどでも」
「なんか面白いよな。受ける称賛の種類を自分で勝手に選んでるように見える。そんな人間、私は全然見たことない」
「そうですか? 恋とかは特定の人からの好意しか要らないっていうものの典型例で、しかもそれは誰にだってあるものじゃないですか」
「そうじゃなくてさ。それじゃちょっと、違うな」
「違うんですか?」
「違う。んで、話変わるんだけどさ。いや、私的には変わってないつもりなんだけど多分他人には変わったってとられちゃうヤツ。資本主義に対する私の一考察」
「はい?」
駿河は御津の口からいきなり資本主義という言葉が出てきたのに少なからず驚いた。そういう話をする人間ではないという先入観を、持っていたから、胸を木の棒で突っつかれるようなそんな弱いけれども固さがある、そんな驚きを感じた。
そして御津がなぜいきなりそんな話をし始めたのにかにも興味が湧いた。
「資本主義社会を何かに例えるときには往々にして狼と羊さんに例えられる。食うものと食われるものの関係って奴だ。……ってのは実は違うと私は思ってる。この世は優しい羊ばっかりで構成されているんだけど、全体を俯瞰すると餓えに困った狼の様相を醸し出している。群れた優しい羊は狼よりも貪欲って訳だ」
御津は自分のことの様にそう言った。少なくとも駿河には御津が自分に聞かせようと思ったのではなく、自分の中で整理しておくのが難しくなったほど肥大した自分の考えを誰かに話すことで楽になろうとしているように見えた。
まあ、しかし、その声は説教臭くなく詩人が月夜のもとで遠い昔を滔々と言い聞かせるような心地よさを感じた。月が美しいせいだと思った。今日は不思議な夜だと、そう思った。
「なんか随分と辛辣ですね。さばさばとした御津さんの言葉とは思えない」
「そういうものだと思ってるよ? 私はね。この世ってのは個人個人で見てみればスゴく好い人も沢山居るんだけど。群衆心理っていうのかな。たくさん集まった人って存在はたとえどんなに優しくて誠実な人間を集めてきたって人ん家の娘を叩き売った金を遊女の為に灯りを灯してゲラゲラ笑ってるようなゲスな成金親父みたいな顔をしてるってね」
駿河は成金親父の顔をした羊のイメージを頭に思い浮かべた。一寸面白かった。
「なるほど、その考えは面白いですね。ムラ社会が足を踏み外した場合の見るに堪えないほどの残酷さ、アンモラルさに通じる何かを感じますね」
「そんで人の称賛を選べる人間。自分が持つ富を富として扱わない人間。お腹がいっぱいに幸せだったらそれ以上求めない人間ってのは貴重なんだよ」
駿河はさっきから御津の言葉が独り言のように思えてしまっていたから、次の御津の言葉が虚をつかれたように聞こえた。
「駿河。……多分あんたはさ、自分が皆と少し違うことにコンプレックスを感じている」
どきり。と。ついさっき考えていたことを言い当てられてしまった。妖怪さとりのようだ。
「どうして分かるんです? まるでエスパーみたいにピタリ」
「分かるよ。私はエスパーだからなんだって分かるんだ」
「理由になってないです」
「その、なんつーか、さ。お前は狼なんだよな。私と違って」
「それってどういう」
「一回負けた人間はそれからずっと負け続ける」御津が間髪入れずに言葉を挟んだ。
「私は負け組なんだよ」
「意味がわかりません」
「ばぁか____分かれよ」
急に艶っぽくなった御津の声と背中に当たる柔らかい感触はほぼ同時だった。____何してるんですか。そんな言葉は人差し指で止められた。____リキュールの入ったチョコレートのようなハグというには甘すぎる抱擁を_____御津にされた。ローズの甘い棘の匂いを強く感じたのは御津が故意的にそうしたというせいもあっただろう。
御津の息遣いさえ、聞こえてきた。
「御津姉さん最近思い悩む事があってさ。……こうしててもいいか?」
「……ん。それは、その」
「冗談だよ。やっぱり可愛いな……お前」
「……逆なら捕まってますね、この光景」
「……そうかな? 試してもらっても構わないよ?」
「遠慮しときます」
「本当にか? またとないチャンスかもしれないぞ?」
「いいです」
駿河の素っ気ない____当たり前だが____対応が思ったよりも全然面白くなかったのか直ぐに体を離して、からからと笑い始めた。
「あっはっは、そう怒るなって。今姉さん酔ってんのよ」
「そう、ですか。早く行ってあげてください」「うーい」
御津は、駿河から離れる前に何かを思い出したように駿河の後ろを指差した。
「あれ、なんだと思う? じゃあ、おやすみー」
そう言ってから御津はくつくつと笑って去っていった_____、駿河が振り返ると御津が指していた存在に気付いた。




