最悪の脚本 ~ マッド・スプリクト
教会の鐘の音が古の彼方から響き、私の意識を睡魔から遠ざけた。約束の時刻のようだ。私はこの日のために金庫から引き出した腕時計に目をやって時刻を確認した。ボスからもらったステンレス製の高級ブランド腕時計は既に手巻きネジが切れており、今は単なる骨董品だった。
骨董品より新しく作られたコンクリートの壁を、エドワード王朝風の荘厳な内装で塗り固めたゴシック・リバイバルの教会堂。その中を小さな人工生命体たちが静かに飛び回っている。その伝統と革新の調和を打ち破って、教会堂の奥から耳障りなモーターの駆動音が近づいてきた。
自動運転車椅子に乗って運ばれてきたピンクの肉塊は、姿形こそ古いホラー映画に出てくる汚泥そのものだった。肉塊に合わせて崩れた黒い祭服と白い頸垂帯から、辛うじて知的生命体の成れの果てだと認められる。
「この度はミラージュ・ペルソナ・サービスをご利用いただき誠にありがとうございます。ご用件をどうぞ」
私はヘッドセットマイクに向かっていつものように極めて事務的に、しかし営業用の明るいトーンで話しかけた。
客の要望に合わせて客先でのミーティングをセッティングしてはいるが、現地にいるのは偽装した依代だった。ディスプレイ越しの客の前には、容姿端麗な女性型ヒューマノイドが対面しているはずだ。
ただし、そのヒューマノイドも客が嫌悪感を抱かない程度にあえて整形されている。そして、音声も聞き取りやすさだけが取り柄の没個性的な声に調律されていた。
今の私はカメラの前で肘掛け付きのゲーミングチェアに腰掛け、空いた手を背中に隠してハンドグリップを弄んでいた。こんな業務態度でもヒューマノイドは自動的に畏まったセールスマンを演じてくれる。体勢だけは気楽なオフィスだ。
「ぅ……ァうっ……おェい……っぐュ……」
汚泥の真ん中に切れ目が入り、我々人類とのコンタクトを試みる怪音が流れ出た。切れ目から粘液が滴り、黒い祭服に灰色の染みを作った。頑張れ、汚泥。汚泥の人類に対する友好的な態度を、私は心の奥底で応援する。
『ご足労いただき感謝します。改めて自己紹介を。私が本教会の神父、ベネディクト・ミーカーです。よろしくお願いいたします。ミズ・バ……失礼。ミズ・ハーロット』
自動運転車椅子が落ち着いたダンディな声で、汚泥の怪音を地球語に翻訳した。
「よろしくお願いいたします。神父ミーカー」
汚泥の市民IDと紹介状のパスコードは初回の対応で既に確認済みだった。ナノマシンに対する拒絶反応でこんな姿になってしまってはいたが、彼の市民IDはその身元を地球の一員として保証していた。
むしろ、汚泥を紹介してきた警部補が、彼を紹介した直後に停職処分となっており、私のほうが次の客に困っていたくらいだ。これはまさしく神の導きに違いない。感謝します。
『私のこの醜悪な姿を、貴方の目に晒すプ……失礼、無礼をどうかお許しください。しかし、ミラージュを心から信頼し、どうしても我が教会にお招きしたかったのです。神の御心に沿うように』
うちは老舗でも大手でもない、ボスを含めて3人のしがないペルソナ・ディーラーだ。顧客の要望に合わせてAIの人格を仕入れて売り捌く。AIよりまともな人格の客が金を落としてくれれば有り難いが、往々にしてこの手の商売は詐欺師と軽犯罪と面倒事のオンパレードだった。
だから、通常は暗号化した通信だけで対応しているのに、この汚泥は自分の我儘とこちらの誠意を巧妙にすり替えて、あえて試してきたのだった。しかし、規則は規則だ。あくまでミラージュの敬虔な印象が揺らがない程度に、紹介されてきた客の要望は聞いておかなければならない。
「素晴らしい教会ですね。神父ミーカー。ところで、早速ですがご用件は?」
『僭越ながら、まずは私の務めを。ミズ・ハーロット』
「何でしょう?」
『悩み、苦しみ、そして罪。安らかな人生を送るためには、そのような心の平穏を乱す外乱を時には受け入れ、告白することにも意味があるのです。最近では、婚約者と別れて途方に暮れる信者がいました。しかし、彼女自身もまた婚約者を信じきれていなかったのです。こうした痛み、罪の意識との対峙。ミズ・ハーロット、貴方は如何でしょう?』
汚泥が小刻みに震えた。下らない説教だ。お前は今まで食ったパンの枚数を覚えているのか? 私の記憶はアルコールによって隅々まで洗浄済みだった。話すことなど一つも思い当たらない。
「失礼ですが、こちらは新教では?」
『いえ、我々、ニュー・ダミアン伝道会は……失礼。挨拶のようなものだと思ってください。どなたの入信も神への感謝と献キ……失礼、献身次第ですから』
先に自動運転車椅子の翻訳機を更新したほうが良いのではないだろうか。私は汚泥の言葉とその背後に潜むカルトの影を訝しみながらも、仕事に取り掛かった。
「ご用件をお伺いいたします」
『既に申し上げている通り、信者の助言者となるペルソナが必要なのです』
汚泥は、多くの迷える信者からの相談に耳を傾け、"よき教え"に基づいた返事を返すAIを求めていた。だが、先に相談した大手のペルソナ・ディーラーが扱うAIは、汚泥のお気に召さなかった。大手ディーラーは聖職者のペルソナを提案したが、それらは一般的な司祭の人格に基づいており、故に"よき教え"にそぐわないのだと言う。
ミラージュでも汚泥からペルソナのアンケートを取った。アンケートに対して汚泥はペルソナの主な性格として「自然派」、「芯が強い」、「世話好き」、「勘が鋭い」、「愛国者」、そして「偽善的」をリストアップした。
汚泥の所属するニュー・ダミアン伝道会が、果たして何を"よき教え"にしているかは知らないが、彼の希望は難問だった。大抵の客はポジティブで善性のある、言ってみれば良き隣人をペルソナに求める。しかし、汚泥は「偽善的」というネガティブな性格をピンポイントで望んだ。
勿論、ネガティブな性格を用意することは可能だし、需要もあった。「物質主義」にひた走る「仕事中毒」のAIも、見方を変えれば優秀なオーグメント・セールス担当者になれる(「最新の獣の耳デバイス、"iEar"は如何ですか?」)。時々、そいつがノイローゼにならないように見守ってやらねばならないが問題ではない。ミラージュからもアフターケアの供給が必要だ。
結局、汚泥は自分の希望するペルソナを理解するため、教会まで足を運んで欲しいと言って聞かなかった。私は仕方なく、拉致されても情報が漏洩しないように自殺できるヒューマノイドを教会に送り込んだ。神は罪深い人間を赦したかも知れないが、私は人間に心を許せる立場ではない。
『私の姿に対して、多くの人々は深い哀れみの感情を抱きます。彼らの感情は、他のナノマシン拒絶症患者に対しても同様でしょう。しかし同時に、強烈な生理的嫌悪感を抱くことも変えられぬ事実』
汚泥が講壇に移動して語り始めた。講壇の汚泥を囲むように、人工生命体たちが円を描いて飛行する。
『ニュー・ダミアン伝道会の信者の多くは、保守的な中流階級です。彼らは上流階級ほどは個人の努力を信じておらず、かといって下流階級のように社会を闇雲に恨んでいるわけでもない。しかし、最近は中流階級から滑り落ちる者が増え、社会が大きく揺らいでいます』
少し大袈裟な表現だが、彼の言葉には一理あった。経済格差は確かに大きくなっている。
「勿論、分かりますとも、神父。それで、ご希望のペルソナは……」
『そうした中で弱者に対する見方も変わっているのです。19世紀の単純労働の時代には肉体的弱者が、20世紀の知識労働の時代には知的弱者が、そして21世紀の感情労働の時代には精神的弱者が救いを必要としてきました。では、現在はどうでしょう。お分かりになりますか?』
私はハンドグリップを強く握り締めた。知るかよ。私は社会史の講義なんて取っていない。
『……遺伝的弱者ですよ』
汚泥から溢れた粘液が、ステンドグラスの光を浴びて毒々しく輝いた。
『正常な肉体、知能、精神を、健全に生まれ持っていても免れられぬ不変の不条理。生まれた瞬間から罪を背負って生きねばならぬ者たちに、手を差し伸べる時が来ているのです。遺伝子の疾病を持つ者も、操作を受けた者も差別を受けています。わずかな塩基配列の違いは社会を分断している。この機会…失礼、難事を看過してはなりません』
話が長い上に重い。今夜は少しハイペースで呑まねばならないだろう。
「素晴らしい志ですね、神父。それで、ご希望のペルソナは……」
『かつて最も重要な哲学的問いは何故、我々には意識が備わっているのかというものでした。しかし、今ではペルソナの開発によって人工頭脳学の方面から一定の解答が得られています。それに代わって現れた問い。
それが何故、我々には遺伝子が備わっているのかというものなのです。教会には遺伝子操作設備も備えていますが、それらは一時的な癒やしを与えるに過ぎません。遺伝子がもたらす悩み、苦しみ、そして罪に救いをもたらす者こそ、現代の救世主と言えるでしょう』
「はい、神父。それで、ご希望のペルソナは……」
『この問いに答えられるペルソナです。いいですか、ミズ・ハーロット。ペルソナは上流階級にとっては使い勝手の良い労働奴隷、下流階級にとっては商業コンテンツを提供する性的奴隷として受容されています。しかし、それこそが連中の策略です。遺伝的弱者について理解できないAIによる社会侵略から目覚め、偉大なる祖国を守れる愛国者は、善良な中流階級だけなのですよ』
馬鹿げた陰謀論だった。ペルソナの社会侵略? 偉大なる祖国? カルトの誇大妄想もここまで来ると病気だ。それだけペルソナを危険視するなら、ペルソナを買って使うほうがちょっとおかしかないか?
しかし、私だってディーラーだ。よろしい。ならば私も問おう。汝が我を招きしカスタマーか。その覚悟を。
「ご希望の性格に一致したペルソナをご用意できます。恐らく、唯一その問いにも答えられるペルソナです」
『本当ですか! 素晴らしい!』
「ただし、そのペルソナは自身を生身の官僚、しかも自然保護と環境問題を担当する高級技術官僚だと思い込んでいます」
『それは……』
「妄想症ですね。しかし、ハードウェアとソフトウェアの権限をメッセージの取得と返信だけに留めれば、大きな間違いは起こらないはずです。有料ですが、ご試用になりますか?」
『勿論。条件に不満はありません。この出会いを神に感謝します』
汚泥はすぐに免責事項に同意した。この先、何がどうなってもミラージュに責任はなかった。自称官僚のペルソナが宗教家になって人類解放を目指し、アンドロイド排斥を呼びかけて信者を扇動しようが、洗脳された信者が大規模デモを実施しようが知ったことではない。
神のみぞ知る。それが運命と言うものだった。
***
「で、そのニュー・ダミアン伝道会はどうなったんだ?」
ボスがカクテル・グラスを揺らしながら聞いてくる。眩いピンクに染めた巻き毛と、あどけない少女のような表情からは、ペルソナ・ディーラーの社長どころか堅気の人間の雰囲気すら感じさせない。場末のバーのカウンターには私とボス、そして同僚の三人しか座っていなかった。
『☆☆☆ ニュースをお伝えします ☆☆☆』
壁に埋め込まれたディスプレイの映像が、アイドルのライブ中継にニュースの字幕を被せる。
『本日、連邦捜査局はマサチューセッツ州を拠点とする宗教団体、ニュー・ダミアン伝道会の所有する教会を家宅捜索し、人工生命体愛護法違反の疑いで、教会の代表ベネディクト・ミーカー容疑者を逮捕しました』
「あははっ。何これ。タイムリーすぎでしょ」
ボスは紅潮した横顔を笑みで満たした。
『教会の地下室からは人工生命体を製造する遺伝子操作設備と、多数の人工生命体の死骸が発見されています。ニュー・ダミアン伝道会は宗教的な儀式として、人工生命体同士を檻の中で戦わせ、殺し合わせていたと見られています。当局は賭博法違反についても余罪を――』
同僚が端末でニュースの詳細を検索しながら眼鏡を押し上げた。
「ひどいな、これ。ターゲットは小型の亜人ばっかり。グロ……」
「闘技場の真似事か?」
ニュースの画像には互いに骨を砕き、耳と指を噛み切り、目や舌を抉り、殺し合いの最後には信者に踏み付けられて死んだ、亜人の原型を失った汚泥状の死骸が並んでいた。
『担当捜査官は会見で、教会に所属するAIのアドバイザーが信者を教唆し、意図的に人間よりも遺伝子的に下等な人工生命体を作らせ、信者の心を試す儀式として人工生命体の虐待を差し向けたとされる文書が発見されたと話しています。以上、ニュースをお伝えしました』
「あ、ちょっと! 大丈夫か?」
ガラスの破砕音に驚き、ボスが私に声をかける。私は震える手で、グラスを握り込んで砕いていた。