第四章 勇者(弟子)、試験を受ける
「……というわけでシショー、負けてしまいました……」
水場で仕事をしている俺を見つけ、小さな肩を縮めてしょんぼりと俯くデシの姿は、遠く山に日が落ちて赤く染まり始める空の、黄昏色がよく似合っていた。
でも決して「悲哀漂う」というモノではない。むしろそうやってショボーンとしている様は我がデシの持ち味と言うか、可愛いポーズの一つであって、彼女には悪いけれどついつい俺の頬はにっこりと緩んでしまう。いかんいかん、ここはシショーとしてそんなデシを励まさないといけないところだよね。
「まあ……今はそんなところだろうな。でも負けたにしてはそんなに落ち込んでないね」
「はい、シショーに教えてもらった『自分を保つ』のおかげです。多分それを知らなかったらもっと落ち込んでますよぅ」
「今日のが『練習試合』じゃなくて、本番の『試験試合』だったら?」
「もっともっと落ち込んで、パンゲアムの底まで行って戻ってこれないです」
その例えに俺が笑うと、彼女も「えへへ」と笑って頬を掻いた。夕暮れ時のオレンジ色が噴水に反射してキラキラと輝き、それを背にしているエフィリー自身も美しく輝いているように見えた。さっきションボリ姿が可愛いと言ったが、やはり彼女の最高はこの無垢な笑顔に尽きる。
……ともかく「体内の精霊を保つ」ことは出来始めているようだ。精霊を感じることが出来て、且つ自身を構成する精霊と通じることが可能になれば、実はもう人間として到達出来る最高の強さのレベルには手が届いている。
そういう「強さ」の意味で言ったら数週間前はどん底にいたエフィリーが、たったこれだけの期間でそこに辿り着ける。精霊を感じることが出来る選ばれた配合、勇者の資質というものはそういうことなんだ。自分では分からなかったが、こうして客観的にその存在を見ると本当に俺たちのやってることって「特別」なんだなぁ、と思う。同時に「何故特別なのか」という責任も見えてきて、ミルルの訓示じゃないけれど「持つ者の義務」を感じてしまうな……。
ま、成長はともあれ、いざ戦いとなると教えることはまだまだ多い。本当ならば戦う技術なんて教えたくないけれど、彼女は「運命の子」としての責務もあることだし、自ら戦士として生きる道を選んでしまったこともあるのでそういうワケにはいかない。ただ……
大きすぎる力を持ってしまった時、人はそれまでの性格を壊してしまうもの――。
俺が六年間戦いで見てきた中に、そういう事例はいくつもあった。
けれどエフィリーに関しては……その心配はしていない。
いや、本当はちょっと心配したからまず何よりも先に「己を元に戻す」ということを大事にさせ、悪い精霊が心に溜まらないよう仕込んだのだけれど、それを抜いても元々の彼女が持っている心の精霊は正しく真っ直ぐで、悪意に縁遠いものだと思えた。
どんなに精霊を感じようとも、俺は「心の中の精霊」にまでは通じることが出来ない。
だからその領域だけは普通の人間と同じに曖昧な判断しか下せないけれど、エフィリーに限っては「性根の良い子」という、その印象が間違っていないと強く確信している。
それに、とりあえずは有言実行を果たさないとシショーの面目丸潰れ、だしね。
俺は大見得切って「勇者の修行をすればアザリカに勝てる」って乗せちゃったんだから。
「負けた大きな原因は、「自分を保つ」がまだ本当の意味で出来ていないことだね」
「本当の意味で?」
「ああ、そうだよ。そうだな……じゃあ論より証拠ということで」
エフィリーの外に発している感覚精霊をすべて中和して、つまり彼女に全く察知させないようにして、俺は宣言も無しにデシの白い首筋に手刀を入れた。
表情が変わらないまま彼女はあらぬ方向に目線をやり、膝から崩れ落ちる。もちろん地面に激突する前に抱きとめて、彼女が失神していることを確認した。
本当に体内精霊を支配下において「自分を保つ」ことが出来ているならば、こういう結果にはならない。つまりは――
「ジュドウさんっっ!!」
突然の大声。鬼気迫る精霊を感じて振り向いてみれば、いつも天使の微笑みを絶やさないその表情を慄きに崩し、わなわな震えたマテリアが小道の角に見えた。
……あっ、しまった。もしかして見られてた?
一目散に駆け寄ってきたマテリアは、俺の腕の中でぐったりしているエフィリーに悲しそうな表情を向けると、一瞬だけそれを溜めてキッと俺を見上げる。こういう状況で思うことじゃないんだけれど、ああこの子こういう厳しい表情も天使だな、と見つめてしまう俺がいた。
「ジュドウさんっ、一体どういうおつもりですかっ」
「えっ……? あ、その……きっと誤解だよ?」
「何の罪も無いエフィリーにいきなり乱暴を働き、こうして気絶させて……何の誤解があるというのですっ? 学園長は申されました、貴方が万一のことを為した時はすぐに報告せよと。私はそれをせねばなりません」
「い、いや、だから誤解だよ?」
「そんな汗まみれな表情で言われても全然納得できませんっ。
さあ、私の友達を返してくださいっ!」
シスターなんだからもう少し罪人の話を聞いてくれてもよさそうなのに……と思いつつ、彼女の剣幕に押されて俺は腕の中のエフィリーを渡す。
エフィリーを抱きかかえたマテリアは彼女の額に手を当て、すぐにヒーリングを開始した。 気絶させるだけが目的だったので、怪我や精霊の乱れは無い。エフィリーはそんなマテリアの看護に応えてすぐに目をぱちぱちとしだした。
「……あれ? マテリア……?」
「気付きましたかエフィリー? ああ、よかった」
「え? あれ……? どうして?」
「エフィリー、あなたはジュドウさんに今にもその身を汚される寸前だったのです」
「ちょっと待ったちょっと待ったちょっと待ったっ!!」
天使の真顔でそう告げるマテリアに、百パーセント無罪な俺でも光の速さで突っ込みを入れざるを得ない。そんな俺の伸ばした手を厳しい視線で払いのけ、マテリアはエフィリーを腕の中で守るようにギュっと身を硬くした。
「大丈夫ですよエフィリー、あなたは私が守ってみせますっ。ジュドウさん、その身の欲を持て余すというのならエフィリーではなく、代わりに私を襲いなさいっ!」
自己犠牲溢れる立派な宣言だったが、彼女は自分が何を言っているのか分かっているのだろうか。うーん、シスターらしいと言えばらしくもあり、ただの天然だと言えばそうとも言える子だよなあ。
ただ彼女は本当にエフィリーの身を案じ、純粋な慈愛と友情から献身を願い出ている。
マテリアからにじみ出ている精霊は俺やエフィリーに、そう強く意図を送っていた。
だからエフィリーも何のことか分かっていないはずだが、それを感じてマテリアに嬉しそうな微笑みを見せ、「大丈夫だよ」と立ち上がり無事をアピールした。
「マテリア、何だか分からないけど誤解だよ。シショ……ジュドウさんはそんなことしない人だから」
おお……本当によくできた我がデシだ……。まあ悪意の精霊など俺に見えないから、それを分かって言っているのだと思うけれど。
「でも……」
「本当だよ。心配してくれてありがとう」
押し切るが如くにっこり笑う顔に説得力を感じたのか、マテリアはそれを信じてくれたようだった。立ち上がり、俺に向けて頭を下げる。
「エフィリーが言うなら本当のようですね。ジュドウさん、先ほどの失礼な物言い、どうか許してください」
「い、いや……。分かってもらえたらいいんだ。ありがとうマテリアさん」
うーん、この子もいい子だな。運命の子はみんないい子だ……ミルルはちょっとカテゴリーが別だけど。
「……で、シショ……ジュドウさん、あたしどうして気を失ってたんですか?」
この場にマテリアがいるから「シテイ関係を秘密にすること」という約束を気にして、エフィリーは俺をシショーと呼べないでいる。律儀だけれど何だかもどかしいな。
「エフィリー、シショーでいいよ」
「あっ……えっ、でも……」
「いいんだ。マテリアさんは親友だろう? 黙っててくれるさ」
それに分かってくれたとはいえ、さっきの状況をちゃんと説明しないとマテリアの俺を見る目に曇りが残ったままになるだろうし。
突然自分の名前が出てきたのでマテリアはキョトンと首をかしげた。エフィリーはそんなマテリアと俺を交互に見やり、「はい!」と嬉しそうに返事をする。
「エフィリー、どういうことですか?」
「えっとね、ジュドウさんはあたしのシショーで……」
「とりあえずその説明は後でしよう。まずはエフィリー、さっき君が気絶したのは俺が首筋の急所に手刀を入れたからだ」
俺がトントンと自分の首に手を当て、それを見ていたマテリアもこくこくと頷く。
「あ……そうだったんですね。でもどうしてそんな……?」
「言ったろ? 論より証拠、って。
エフィリー、君が今気絶したのも、アザリカに気絶させられたのもそのせいなんだ。
君のやっている「精霊を感じる」という感覚は、まだまだ「頭で考えて」行っている。
だから意識を失うと自分を保つこと、つまり自力で意識を回復することも出来なくなる。
本当に体内精霊に通じるということは、考えてやることではなく、心臓が鼓動するように、歩くときに足が前に出るように、自然にやらなくてはならないことなのさ」
エフィリーとマテリア、二人共にポカンとしていたが、さすがにそこは理解の差が出た。
「……なるほど、そういうことなんですね。頭で考えてるうちは、まだまだかぁ……」
「えっ? エフィリー今のジュドウさんの言っていること、分かるのですか?」
「うん。マテリア、ジュドウさんはあたしのシショー……先生なんだ。この前からこうやって色々なことを教わっているんだよ」
エフィリーの言ったその説明だけでは理解不十分だろう。しかしマテリアは理由を求めずにただエフィリーのその笑顔だけで、俺たち二人の関係を「そうでしたのね」といつもの朗らかな微笑みを浮かべて納得したのだった。
「でもマテリア、このことは秘密だよ」
「そうなのですか? どうしてです?」
「それはね、ジュドウさんが本当は勇者だから」
なんでそうなるっ! と心の中で盛大に叫びながら、俺はもはや定番となった「昏倒精霊」をエフィリーとマテリアに速攻で送り込む。
昏倒精霊っていうのはその名の通り、人の意識を奪う働きがある精霊作用だ。具体的に言うと、どんな生命も精霊は一定の方向に向かって流れ活動している。丁度血液が同じ方向に流れるのと同じ。その流れを突然逆流させ、生命活動に混乱を与えるのがこの精霊の作用。
これを送り込まれてしまうと、生命は意識を失って一時活動を停止する。そして逆流の作用が一瞬の活動記録を無かったことにする、つまり前後の記憶を曖昧にしてしまうという効果が出る。これは精神系の「魔法」と呼ばれるどんな効果よりも絶大だ。人として使ってはいけない反則スレスレのものだとも言える。
そう分かっちゃいるんだけれど、それでも使わざるを得ない時が俺にはあるの!
俺が勇者だったってことはこんな修行をさせている身でも、まだ秘密にしなきゃならないと思っている。……その割には俺、結構ボロ出まくりみたいなんで、何回もこうしてエフィリーを昏倒させてきたんだけれど……さすがに耐性ついたのか最近効果は薄くなっているようで、エフィリーは俺のことを「勇者ジュドウ」だと確信しているっぽい。まずいなぁ……。
ちなみにこの精霊効果は「精霊の流れを狂わす」という即効性から生まれるものなので、さっきからエフィリーに説明している「自分を保つ」という単純な体内精霊の正常化だけでは防ぐことが出来ない。
エフィリーがもっと成長して色々な精霊に通じることが出来るようになれば、これをも防げるようにはなる。が、その時はもう俺の素性を隠さなくてもいい時だ。
同じ勇者の世界を生きていけるもう一人の勇者として、その時俺は彼女に……
共に生きようと、正式に結婚を申し込むつもりでいる。
その時はいつ来るのかな。エフィリーの成長具合は若干早めだと見ているから、意外とすぐなのかもしれないな。その時までに俺、彼女に好かれていられるかな……?
こればっかりは心の中の問題だから、いくら精霊に通じていようがそこまで覗けない。
だから人間ジュドウ・バフスとしてアタックするのみなんだけれど……。
あー、なんか考えたらちょっと不安になってきた。俺、ちゃんと彼女に好かれるように接しているよね……? 大丈夫だよね、嫌われていないよね?
って言ってる傍から何度もこんな昏倒させたり、突然首にチョップかまして気絶させたりという嫌われそうな行為を思い出して汗が出てきた。そういうのって嫌なことを連想させるもので、この前にカチューンに結婚申し込んでフラれた時の絶望まで思い出してしまった。
エフィリーはそんなこと……ないよねっ? いや、でも……!
そうやって頭を抱えている間に、エフィリーとマテリアは意識を取り戻したようだ。昏倒の効果が自然回復するのはそんなに短い時間ではない。ということは俺はそんなに短くない時間ずっと悶えていたということになる。う……我ながら情けない。
頭を振りながらぼんやりする二人に向かって、俺は冷静を装いながら告げた。
「二人とも、とりあえず今は夕食の時間だ。修行の続きは終わってからにしよう」
……と。
夕食中、遠目に見るエフィリーとマテリアは先ほど少しの間失った記憶についてあれこれ語って首を傾げていた。うぐぐ、すまない……。
そして約束通りの夕食後。学園長室という名の館内に、エフィリーとマテリアは再び俺を前にして並んでいた。……というかマテリアまでいる必要無いんだけれど……。
「戦士の訓練をなさるのでしたら、私の祈りも必要になるでしょう?」
と、マテリアは善意そのものといった表情で俺たちを見守っている。俺が「どういう説明したんだ」と囁くと、我がデシは言葉を濁して「えへへ」と頭を掻くのだった。
……まあいいか。もう知られてしまったのだし。
「えーと。本番の試験まであと十日だよね」
「はい、そうです」
「だからグズグズはしていられないし、少し厳しい特訓でさっきの弱点を克服するよ」
「分かりました、なんでもします! ……ところでさっきの弱点って?」
「返事は良かったのにそこ聞くのか……。自分を保つ、つまり精霊調整を頭で考えずに自然と行えるようになることだよ」
「あっ、そうでしたね。あまりにもどうしたらいいのか分からなすぎて、考えるのをやめてたところでしたっ」
「そこ威張られてもな……ってところだけれど、何故かその「考えるのやめる」って行為が目指す正解だから、間違ってもいないんだよなぁ」
「えへへっ」
「そこでこれだ」
俺は何故か誇らしげに胸を張っているエフィリーの前に、先ほどミスリアに手伝ってもらって作ったポーションの入っている小瓶を差し出した。
「これは……何ですか?」
受け取ったそれをしげしげと眺めるエフィリー。その様子は最初に葉っぱを渡した時と全く変わらない。
「簡単に説明すれば魔法の薬だよ。効果は二つある。まず一つ、それを飲んだらどんなことがあってもしばらくの間絶対に目覚めない。そうだなぁ、今飲んだとしたら夜明けまでは起きないだろうね」
「結構寝ちゃいますね。強い睡眠の魔法がかかっているんですね」
「そんなものかな。そしてもう一つ、その薬には……言うなれば「水」の精霊がギュギュッと詰まっている。コップ半分もないたったそれだけの量だけど、飲んだらお腹が膨れるほど水を飲んだような感覚になるだろうね」
俺の説明に「へえー」と、エフィリーはさらにまじまじと小瓶の液体を眺めていた。
「確かに青の精霊がすごく濃いですね。それにとても激しく流れています」
「そう。で、エフィリー」
「はい」
「これから十日間、寝る前にそれを飲んでもらう。それが修行だ」
俺のその言葉に、エフィリーは口元に指を当ててしばらく呆けた。その意味を色々考えているらしかったが、結局答えを見つけられなかったようで、
「……はい、分かりました。でもこれを飲んだらずっと寝ちゃうんですよね?」
と不思議そうに聞いてきた。
「そうだね」
「えーっと……つまり……寝るのが修行?」
「その逆だよ。《起きるのが修行》」
俺の言葉に「えっ?」と声を上げ、ここまで来てもまだ分かっていない不肖のデシに説明する。
「いいかい? これを飲んだら自分で起きることは出来ない。それはそういう作用のある精霊が身体に働くからだ。
だから起きるにはその精霊作用を寝ている間に消す必要がある。つまり意識の無い時に「自分を保つ」が出来るよう、自分の中の精霊に覚えこませないと一人で起きられないのさ」
「ああ、なるほど! そうですよね、寝てる時は考えられないから……そっか!」
「分かったかい? さっきも言った通り、その薬の効果は長い。無意識でも「自分を保つ」が出来ないと、とんでもないことになるからね」
「と……とんでもないこと……?」
「まず朝食時間に起きられないから朝食抜きになる」
「うっ」
「午前の授業に間に合わないから遅刻する。先生に怒られるし生徒からは白い目で見られる。ミルルにも益々厳しい目で睨まれるだろうね」
「うううっ……た、確かに怖いです。とんでもないです」
「他にもあるけれど……それを俺の口から言うのはちょっと……だから、実際自分で痛感して欲しい。早く出来るようにならないと、そういう毎日がずっと続くから」
「わ、分かりました! 頑張ります!」
あと十日しかないし、やるしかないし、と、エフィリーは小瓶を握り締めながら呟いた。
「よし。じゃあそれはそれでやってもらうとして、いつもの修行をしようか」
「あ、はい! 分かりました。『ジャックケット』ですね」
「うん。ただし今日から一段階上のことをするよ。ジャックケットでエフィリーが勝ったり負けたりした場合、俺が君の腕に「しっぺ」をする」
「う……ジャックケットしっぺですか。シショーのしっぺ、痛いだろうな……」
「痛いよ悪いけど。だから必死になって「あいこ」にするんだね」
「分かりました……! では、いざ!」
「いくぞっ! 最初はグー! ジャッケッ……ポッ!」
「あいこでポッ! あいこでポッ! あいこでポッ! あいこでポッ! あいこでポッ!
あいこでポッ! あいこでポッ! あいこでポッ! あいこでポッ! あいこでポッ!
あいこでポッ! あいこでポッ! あいこでポッ! あいこでポッ! あいこでポッ!
あいこでポッ! あいこでポッ! あいこでポッ! あいこでポッ! あいこでポッ!
あいこでポッ! あいこでポッ! あいこでポッ! あいこでポッ! あいこでポッ!
あいこでポッ! あいこでポッ! あいこでポッ! あいこでポッ! あいこでポッ!
あいこでポッ! あいこでポッ! あいこでポッ! ……あああっ!」
「はい、腕出してー」
「ううう……あの、あまり痛くしないでくださっ……あイったああああああっ!」
「あはははは、そんなワケなかろう! これも修行じゃデシよっ!」
……と、この様子を今までずっと黙って眺めてきたマテリアだったが、ついに溢れる疑問を飽和させて「あのう」とおずおず声を発した。
「あの、いいでしょうか?」
「なんだい、マテリア?」
エフィリーが涙目になって床を転がっているので、俺が代わりに答える。
「訓練……なのですよね? 戦士の」
正しくは戦士ではないのだけれど、エフィリーはそう説明したのかな? まあ「勇者になる修行」と説明していても、この様子はそう映らないだろう。
「そう見えないのは分かるけどね……。でもちゃんとした修行なんだ」
「ジャックケットが……ですか?」
ジャックケットというのは広く民間に普及している一種の……何て言うんだろうね、決闘方法……なのかな? 最後に残ったパンをどっちが食べるか、かわいいシスターにどっちが先に祈りを貰うか、山分けの宝石を誰が先に選ぶか……などなど、そういう争いが生じる時に使われる誰も傷つかない公平な決定手段だ。子供でも知っている。
ジャックケットポー、の掛け声で二人以上が同時に拳を固めた「グー」、指二本を出してハサミに見立てた「チョー」、手のひらを開いた「パー」のどれかを出し合う。
グーはチョーに勝ち、チョーはパーに勝ち、パーはグーに勝つ。同じだったら「あいこ」という引き分けになってもう一度。そんな具合だ。
突き詰めれば心理戦や経験則の駆け引きが効いて、ある意味奥の深い技術戦が出来るんだろうけど、ほとんどは運まかせ。勿論俺とエフィリーがやっているジャックケットの修行は、そんな運を鍛えるものでも駆け引きを鍛えるものでもなく、単純に精霊感知の精度向上を狙ったものだ。けれどそれをマテリアに説明しても分からない……んだよね。
だからマテリアの疑問には理由を一切省いて「そうだよ」と答えるしかなかった。
「はぁ~……痛かったぁ……」
涙目を擦ってエフィリーが立ち上がっている。
「シショーのしっぺ、猛烈に痛いですよぅ……」
「痛くしているからね」
けろりと答える俺に、可愛いデシは可愛いふくれっ面をしてみせた。
「というわけで、その痛みを堪える為にも少し高度な精霊作用を覚えてみよう。
実際これは戦闘で大いに役立つことだ。いいかい?
エフィリー、君の見える精霊は大きく分けて何色見えているかな?」
そう言われて、彼女は「ええと」と言葉を漏らし、宙に漂う何かを指差しながら呟いて数えている。それに伴ってマテリアが何も分からないままエフィリーの指の先を同じように見つめて首を動かしているのが面白い。
「ええっと……大きく分けたら赤、青、緑、黄……の四色でしょうか……?」
「うん、そうだと思う。精霊はもっと多くの色があるように見えるけど、集約するとその四色に行き着くはずなんだ。
これは魔法の理論でもそう言われている。四大精霊って教わっただろう?」
ようやく分かる話が出てきたからか、俺の話にマテリアが強く頷いて、勉強おバカさんなエフィリーは彼女のそれを見て慌てて頷くといった様子だった。
「だから俺もそれに倣って呼んでいる。
赤の精霊はサラマンドラ。
青の精霊はウンディーネ。
緑の精霊はシールフ。
黄の精霊はノーン。
すべての精霊は多分最終的にこの四大精霊のどれかに属する。これらが精霊の王様だ。
だから精霊に通じる一番の早道はこの四大精霊に通じてしまうことなんだ。王様に通じてしまえばその僕に通じるのも容易くなるからね。……分かるかい?」
「わわわ、分かります!」
頭から湯気を出しながら必死に頷く不安げなデシだった。
「……魔法だとサラマンドラは火、ウンディーネは水、シールフは風、ノーンは大地の精霊だって言われているね。イメージとしてはそれで合ってる。でも精霊世界でもう少し深く突っ込むと、この四大精霊は世界の基礎を為す四つの動作を司る精霊なんだ。
サラマンドラは「離れる」を司る。
ウンディーネは「くっつく」を司る。
シールフは「動く」を司る。
ノーンは「とどまる」を司る。
きっとこんな感じ。世界はこの四つの動作が複雑に絡み合って出来ている。そういうことになるんだ」
「……っ!」
さっきとおなじ「分かりました!」の表情で固まっているエフィリーだが、汗は出ていても返事が出てこない。マテリアの方が「へえー」という顔で俺の話を聞いているようだった。
ま、まあ理屈はいいんだ! どっちにしろ精霊を感じるということに人間の理屈は必要ないんだから。
「と、とにかくエフィリー! 論より証拠だ!」
「は……はい! そうですね、あたし論より証拠が好きです!」
頼もしい返事だった。俺だってそう人のことは言えないが、エフィリー、いくら精霊を感じることが出来るからって、人間社会でおバカさんではいけないんだぞ……!
「いいかいエフィリー、俺のしっぺを受けたとき、腕に精霊はどう出た?」
「えっと、赤の精霊が皹みたいにぶわーって…」
「そう。赤の精霊、つまりサラマンドラ属の働きはさっき言ったように「離れる」だ。これを元に戻すにはどうしたらいいと思う?」
「えっと……離れるんだから、くっつけばいいんですよね?」
「当たり。エフィリーはしっぺの傷を「自分を保つ」で元の自分に戻しているつもりだと思うけれど、実際の精霊作用は「離れる」精霊を「くっつく」精霊で中和させている、という働きになるんだ。……ついてこいよ?」
「は、はいっ! 大丈夫です、わかります!」
……不安しかない。先生方の気持ち、俺今よく分かります……。
「逆の色を当てると中和。……本当はそんな簡単な理屈じゃあなく、もっと複雑な精霊が作用しているんだけれど……体内の精霊を使役するならそのイメージで問題ない。
いいかい、じゃあ今からまた俺が君の腕にしっぺをする。ただし、今度はまともに受けてから中和するんじゃなく、『受ける前に中和する』んだ」
「う……うけるまえにちゅうわする!」
言葉遣いが怪しい。
「精霊を感じて俺の指をよく見てくれ。いいかい?」
エフィリーの視線が精霊世界に入ったのを感じたのち、俺は彼女の目の前でしっぺを素振りしてみせる。二回、三回と。視界の端っこでマテリアが振る度に痛そうな顔をしていた。
「見たか?」
「見ました!」
「どういう色の精霊が出てた?」
「えっと……やっぱり赤ですね。それと緑」
「うん。大なれ小なれ、基本的な「破壊」という精霊作用は主にこの二色が出る。
じゃあこの二色を「中和」させるにはどうしたらいいと思う?」
「そ、それは……反対の色を使うんだから、青と黄の精霊を……ですよね!?」
最後のほうは力押しだが、大体は分かってくれたようだ。俺は頷く。
「そう。結論を言おう。俺のこのしっぺ、赤と緑がこのくらいの配合で出る。
だからつまり、同じくらいの配合で青と黄色をあらかじめ用意しておけば……
攻撃を中和出来る。つまり「痛くない」ことになるんだ」
「えっ! ほ……本当ですかっ!?」
「本当だ。論より証拠が大好きなデシよ、じゃあいくぞ!」
俺はエフィリーの腕を取って大きく振りかぶる。
「ひっ! ま、待ってください! ちょっと、あの、心の準備を! あとそのいきなりすぐ出来るとは思ってないですし……」
「俺も思っていない。けれど修行だ。これを何回も繰り返して出来るようになるんだ!」
せーの、と有無を言わさず掛け声をかけて、俺はエフィリーの腕に愛の鞭を振るう。
この日の夜、俺はベッドの中でミスリアに「あいこでポッ」と悲鳴がうるさかった、とネチネチ嫌味を言われ続けたのであった。
そして次の日の昼。
予想はついていたが、怒りなのか恥ずかしさなのか、顔を真っ赤にしたエフィリーに俺は中庭で思いっきり詰め寄られた。
それこそもう、猛ダッシュで駆け寄ってきて「おはよう」「こんにちわ」も無く開口いの一番で、
「聞いてませんよおおおおおおおおっ! ししょおおおおっ!!」
と。涙目で。ちょっとゼルガスの怒号を思い出しちゃったな……。
「……言ったろ、『俺の口から言うのもちょっと』って」
「言ってくださいよぉ! すごく大事なことじゃないですかああ!
知ってたらあたし、寝る前にちゃんとトイレ行ってから寝ましたっ!」
「無駄だよ。それであの濃さの精霊を体内から追い出すことは出来ないし。
これも言ったはずだぞ、「厳しい修行になる」って。自分で起きる修行、早く出来るようにならないと……ずっと《漏らし続ける》からね」
「ひどいいいい! 悪趣味ですってばあああああっ!」
……これは「強睡眠ポーションを飲んで自分で起きる」修行のことである。
実はあのポーション、どうして水の精霊をギュっと詰めたかと言えばこの効果があるからなのだ。絶対起きない。体内には水が飽和状態で詰まっている。よって朝になって布団に地図が描かれているのは、人間の生理現象としてやむを得ぬ事情なのだ。
確かに悪趣味といえよう。何故ならこれを提案して、俺が止める間もなくポーションに仕込んだのはミスリアなのだから。けれどこれほど人体に影響無く、かつ致命的な背水の陣があるだろうか? いや、無い!
十四歳という年齢はまだ少女だが、さすがにそんな粗相は卒業していて当たり前。この社会的常識と本人の羞恥心が生む修行への本気集中力を考えたら、悪趣味であってもシショーとして涙を呑んで採用せずにはいられなかったのであるっ。
決して恥ずかしさで真っ赤になったエフィリーの顔を見たかったからではない!
予想以上に可愛かったけどねっ!
「もう一度説明するけれど、自分を保つ精霊作用を無意識で出来るようになれば、遅刻してベルーチカ先生の雷を食らうこともなければ、自分の部屋の窓に恥ずかしいシーツを干すことも無くなる。すべてはデシのためだ!
エフィリー、君はアザリカに負けて学園を辞めるのと、十日間だけ「お漏らし娘」と学園で噂されるのとどっちを選ぶんだ?」
「どっちも選びたくないですぅ! ……でも、シショーの言うことは分かります……。
すみません、あたし「何でもする」って言いましたよね。
これってあたしの修行のため、勇者になるための訓練なんですよね。
あたし……がんばりますっ!」
自分を保つことが少しずつ出来ているのか空元気なのか、エフィリーは涙目を擦ることなくぐっとガッツポーズを見せて奮い立った。
よしよし、とその姿に頷く俺。
「分かってくれたらいいんだ。恥ずかしいだろうが、これも修行だ。
約束する。これを乗り越えたら君は絶対にアザリカに勝てる」
「はいっ! あたし……耐えてみせますからっ!」
う……いやその……羞恥に耐える修行じゃないんだけれどね……。まあいいか。
来た時とは正反対な晴れやかさを精霊に滲ませ、エフィリーは寮の方に戻っていった。
……そうだね、この天気ならシーツ、もう乾いているよね……。
というワケで、この日から学園生徒の間でまたしてもエフィリーの名は不名誉な噂で囁かれることとなった。
アザリカとの試験試合に勝てなかったら退学。その事実が彼女に葉っぱを使った怪しげなマジナイをさせたり、戦闘訓練もしないでジャックケットばかりしていたり(結構見られてるもんだなぁと思った)、その日が近づいてきて恐怖のあまり漏らすようになった……と。
確かに普通の人間にはそうとしか見えないよな……。だがこれもあらかじめ彼女には忠告してある。
「今までの現実を捨てること」「周りから変な目で見られること」。
頑張れ我がデシ。それを耐えて早く強くなるんだぞ――。
午後の鐘を鳴らし、俺は生徒全員が各々の訓練に出たあと、ゆっくりと食堂で昼ごはんをいただく。今日も同じ時間帯で昼食をとっているおばちゃんたちと話しながら過ごしていると、俺を呼ぶ天使の囁きが聴こえた気がした。
「ジュドウさん、少しよろしいですか」
マテリアだった。いつものように微笑んではいるが、不安の精霊がそんな美しい表情に影をさしている。丁度食事も終わったところなので、俺は立ち上がってマテリアの呼び出しに応えることにした。
「訓練はいいのかい?」
「今日の私は今の時間お休みです。それと……ミルルも」
そう言って廊下の先を指差す。そこには柱にもたれて腕を組み、恐らくは俺とマテリアを待っていただろうお嬢様の姿があった。マテリアのように形ばかりの微笑みなどは表情に無く、本当に分かりやすい仏頂面をしていた。
……何となくマテリアとミルルが俺に突き刺す精霊を察すれば用件は分かる。思わずため息をついた。
「ちょっと、人の顔を見るなりため息とは失礼ではなくて?」
「ああ、ごめん。君じゃない、マテリアさんについたんだ。
……マテリアさん、君はガーネラゼルフさんに話したね?」
俺がそう言うと、傍らのマテリアは本当にすまなさそうに俯き、やがてもう一度顔を上げ直して深く頭を下げた。
「申し訳ありませんジュドウさん。秘密だと約束をしていましたが……。
やはりエフィリーのことが、どうしても心配だったのです。
あの子のやっていることが何なのか、私には全く分かりません。
あなたの話を同じようにあの夜聞いたはずなのですが、どうしても……。
ですので……せめて同じ仲間として、ミルルに打ち明けて相談してしまったのです」
はぁ、と俺はもう一度ため息をついた。……失敗したな。
マテリアだけならまだよかった。この子はほぼ無条件でエフィリーを信頼している。親友の言うことならきっと従ってくれるだろう……と。
しかしマテリアはエフィリーだけではなく、きっとミルルに対してもそうなのだ。
三人は同じ「運命の子」。その絆の間に隠し事は出来ない、常に清廉潔白でいようというマテリアの純粋な想いが――裏目に出たか。
一番面倒臭そうな子に知られちゃったな、こりゃ……。
俺たち三人は中庭にやってきた。今日も天気がいい。しかしミルルと話す時はいつもここだよなぁ。まあ俺がここにしかいないからそうなんだけれど。
「……で。とりあえずお茶でも用意しますか?」
マテリアはベンチに腰掛け、ミルルはその脇に座りもせず立っている。そしてその髪が翻ったので、機先を制して俺はそう言ってみた。
「結構よ。聞きたいことは一つですわ。
……あなた、エフィリーに一体何をさせているつもり?」
シンプルで核心を突く質問だった。さて……何と答える?
ちょっとの間悩む素振りを見せた俺に助け舟を出したつもりなのか、マテリアがミルルの言葉に自分の言葉を足してきた。
「あの、ジュドウさん。ご存知でしょうけどミルルと私、そしてエフィリーは同じ運命の子という特別な仲間です。エフィリー同様に信頼してくださって結構です。大丈夫です、ミルルは絶対約束を守って秘密にしてくださいます」
君は約束守らなかったのに……と意地悪を言いたくなってしまうが、天使の顔をこれ以上歪ませたくないのでやめた。マテリアにいつまでもそんな小さなことで罪悪感を抱いていてほしくないからね。
「……マテリアさんに『ミルル』って呼ばれても怒らないところを見ると、本当にそうなんだね」
代わりに口にしたのはこんな言葉だった。
「この子はいくら言っても聞かないから諦めただけですわっ!
……って、そうじゃないでしょう! 話の腰を折らないでくださいますかっ!?」
「分かった。すまない。ただ……マテリアさんと同じで、君にも同じ話を説明したところできっと何も分からない。だから理屈で説明するのはやめる。論より証拠を見てもらう」
俺は彼女の前に右手を差し出した。
ただそれだけなのだが、何故かミルルはビクっと怯えたようにして腰を溜めている。
「なんで戦闘態勢なんだよ……」
「う、うるさいっ! 貴方が余りにも簡単に私の間合いに入るからでしょうっ!」
一応何かの警戒はしていたのか……。まだまだ信用ないね、俺……。
自分の行動が大げさだったと悟ったのか、ミルルは髪を何度もかき上げながら赤くなった顔を冷まして俺をジト目で睨んだ。
「……論より証拠、とは?」
「ジャックケットだよ。ガーネラゼルフさん、俺とジャックケットをしよう」
そう言う俺に、今度は目をパチクリさせる。この子、冷静なようで意外と表情豊かなんだよね。お父さんそっくりだよ……そういう所。
「はあ……? それが何の説明になるのです? まさか勝ったらもう何も聞くなとか、そういう理不尽な条件を出す気ではないでしょうね?」
「それで飲んでくれるならそれもいいけれど、違う。
ガーネラゼルフさん、俺とジャックケットをして勝ちもせず負けもせず、あいこになること出来るかい?」
俺の言っていることは極めて単純で、裏も何も無い。しかしミルルはエフィリーとは違い頭が良すぎて、逆にそんな存在しない裏を探して思考に詰まっているようだった。
「裏も表も無い。そのままの意味だよ」
「ですが……。それで何が分かるというのです? まあいいですわ。あいこになればいいのですね?」
彼女も右手を出す。掛け声は俺。ジャーック、ケット、ポーの後に……
俺はチョー、ミルルはパーだった。俺の勝ち。
「……もう一回、ですわ」
有無を言わさずミルルが睨んでくる。っていうか「あいこ」に出来なかったことよりも、明らかに負けたことを悔しがっていますよね……?
俺は無言で彼女の勝負に付き合い、結局八回やって俺が三勝、ミルルが四勝した後にやっと一回目の「あいこ」が出た。単純にあいこになる確率って結構高いんだけれど、俺もミルルも違う手を出してくる率が上回っているところが、相性悪いんだな……とか思う。
「……あいこですわね。それで、コレが何か?」
勝ち越しているので多少は機嫌が良いお嬢様は、少し自信を得たのか会話の主導権を取り始めた。
「いや、これでもう答えは出ているんだよ。
マテリアさん、君はこの前のエフィリーと俺のジャックケット、見ていたよね?」
今はずっと脇でミルルとのそれを眺めていたマテリアが、思い出したように頷いた。
「今のガーネラゼルフさんとの勝負を見て、何かおかしいと思わなかったかい?」
「……はい。言われてみれば、思いました」
マテリアは口元に手を当て、一瞬溜めて続けた。
「負けた時のしっぺ、がありませんでした」
思わずズッこけた。ああ、この子やっぱり天然だ……。
「そ、そこじゃなくて」
「……ええと……そういえば……マテリアの時はあいこが多かったですね」
「あいこが多い?」
俺の代わりにミルルが会話を繋ぐ。
「ええ。何度も何度もあいこが続いていました。五回や六回ではありません。十回以上は必ず続いていました……あら? それって……変ですわね?」
マテリアが首を傾げるその答えに、ミルルがハッとして彼女を見る。
「あいこ……が続く? そんなに?」
「ええ。それにミルル、エフィリーとジュドウさんのジャックケットはもっと……もっともっと《速かった》のです。それこそ剣戟を交わすが如くで、今のようにゆっくりではありませんでした。そんなジャクケットを……何度も……あいこ……で……」
語尾が小さく霞み、天然のマテリアもようやくそれが分かったようだった。
異常、だと。
彼女らに認識してもらうのは、その「異常」、つまり「常識では測れない」という事実だけでよかった。どうやらマテリアもミルルも、その顔色を伺う限りそれを頭に刻み込んだようだった。
「二人とも、これだけは約束する。誓って言える。
エフィリーは着実に成長している。それも君たちと肩を並べておかしくないよう、君たちの名誉に傷を付けたくない一心で、必死に周囲の嘲笑に耐えて頑張っているんだ。
そういう修行をしている。葉っぱも、ジャックケットも、シーツを濡らすのも、すべてそのためだ。
どうか信じて欲しい。そして……見ててくれ」
俺はここに居ない彼女の代わりに、二人に宣言した。
「一週間後の試験試合、学園最強のアザリカにエフィリーが勝つところを」
と。
そして今日、俺への来客は彼女らだけではなかった。
もうすぐ午後の訓練が終わる時間。俺はシモーヌ先生に頼まれていた山の植物を学園外に採りに行き、戻ってきたその足で「今日も一日お疲れ様」の鐘を鳴らそうかと塔に登りかけた時である。
……あ。なんか面倒くさい待ち人がいる……。
鐘塔の上で俺を待ち構えている意識を精霊で感じ、思わずため息をついてしまった。今日はこういうの多いな……。昔に戦いで一緒になった戦士が言っていたっけ、「ため息はつけばつくほど幸運が逃げる」ってね。
だからといって別に避けるほどのことではない。俺は気付かないフリを装って塔を登っていく。全くひどいな、向こうは「獲物が来ましたよ」と言わんばかりに攻め気満々で待ち構えているんですが……。
登りきって、外の風に身体をさらす。俺を待っていたのは……アザリカだった。
この場所は見晴らしはいいが、決して広くない。大きい身体でも学園三本の指に入るアザリカがいては、なんだか余計に狭く感じてしまう。
「やあ。待ってた」
片手を上げて挨拶する右手が、そのまま攻撃の意図を残して腰に落ちた。一見フレンドリーな態度なんだけれど、何と言うか……戦闘態勢だよこの人。
「ええと……何か用ですかね、アザリカさん。俺、もうすぐ終了の鐘を鳴らさないといけないので……」
「知ってるさ。その短い時間で教えてもらいたいね……!」
まあ、常人には唐突に映るだろう。よく鍛えられ、気配の精霊も抑えられている。キクミ先生の指導がいいのもあるし、アザリカ自身の才能が抜けているのもあるだろう。
そんな速度、威力、殺気を抑えた突きが俺に向かって放たれた。おっかないことに何の遠慮もしていない。
さて……受けるか、避けるか。
受けたら受けたで、この突きをもらったら一気に意識を持っていかれるほどの精霊が込められている。その場合以前キクミ先生と組み手をした時のように、ある程度死んだフリをしないと辻褄を合わせられないだろう。
しかしそれではアザリカが一体何の目的で俺にこうして仕掛けてきたのか、推測は出来ても真実は分からないままになる。それがほんの少し気になった。
それからエフィリーが戦う相手だ、少しは実力を見ておきたい。
そんな思いもあったから、俺は避けた。アザリカは俺がその攻撃を避けることを前提にしていたらしく、思ったより速いニの撃、三の撃を放ってくる。
こんな狭い中でよくやる……と、褒められるくらい、彼女の大柄な体躯にしては小さく無駄の無い動きで次々に強力な攻撃を放ってくる。不利な場所で戦うことも訓練済みか。いい戦士になる。カチューンの後に続ける逸材だな、この子……。
のらりくらりと避け続けていたら、そろそろ時間いっぱいになることに気付いた。
幾分か楽しそうな表情をしているアザリカをちょっと意外に思いながら、彼女の強力な突きを背後に受け流す。
コーン、と鐘が響いて、一日の訓練もこの場所の争いも終了という音色を奏で始めた。
「――もうこれでいいだろう? ホラ、手を見せてみな」
間近で鐘の音が響いているが、精霊調整のおかげでこの場所にいても声がかき消されることはない。自らの拳で終了の鐘を打ってしまったアザリカは、表情にあまり出さずとも精霊で痛みを訴えていた。
それもあるし、ここまで攻撃を捌かれたのだから目的は果たしたのだろう。はぁ、と愉快な表情のまま息をつくと、無防備に俺の前に右手を差し出す。
……うん、精霊を見る限りそれほどひどいケガではない。打撲といったところだろう。あの鐘を素手で全力突きしたにしては素晴らしい頑丈さ。まぁ俺が突かせたワケだが……。
「骨は折れてなさそうだね。一応後でポーション使っておくんだよ」
「余裕だな。エフィリーのためにもアタシがケガの一つもしてた方がいいんじゃない?」
「そういう冗談はやめよう。どっちみちケガしてたってすぐ治るよ。マテリアもいるしポーションだってある」
「そうかな? マテリアはエフィリーの親友だ。アイツを勝たせるために治療しないかもしれない」
「そういう子じゃないって分かってるんじゃないか?」
悉く彼女の悪態を跳ね返す。これも彼女の言葉があからさまに俺を試すような精霊を乗せているからだ。この行為の真意を知るには、しばらく付き合おうと思った。
しかしアザリカの軽口はそこで終わる。表情を柔らかく崩し、ウフフと意外に女の子らしい笑いを零していた。アザリカって絶対アハハ笑いかと思ったのに……。
「……やっぱりね。アンタか、エフィリーを鍛えているのは」
あれ……この子も知ってる……。俺ってもしかしてボロ出すの得意なのか? 思わず変な汗が出る。勇者ってのもバレて……ないよな?
「キクミ先生を倒したのを見た時から怪しいと思ってた。アンタ、相当ヤるね。ジュドウって名前は伊達じゃないな、本当に勇者みたいだよ」
ほ……。そこまでは察していないか。よかった。
「エフィリーがアンタと中庭でジャックケットしてるのも見た。それで確信したんだ。
あんな高速のジャックケットであいこを出し続けるのは神業に近い。だからこの前の練習試合、アイツが「アイキ」を使っていたのに納得がいった。アンタが教えてるんだな」
アイキ? ……合気、か。たしかジパングの体術……というか思想にあったかな。
何か勘違いしているが、精霊に通じている勇者と錯覚されるよりはいい。俺は何も答えず肯定したような表情を作って彼女の言葉を聞いていた。
「アタシはさ。弱い奴が嫌いなんだよ。……あっと、勘違いしないでよ?
弱いものイジメをしたいってことじゃない。自分が「弱い」と自分で認めた気になって、何をやってもその弱さを理由に逃げるヤツが大嫌いってことさ。
アタシは騎士の家の生まれでね。家訓は「正々堂々」。自分に正直に、何があっても堂々と受け止める。そうやって教え込まれて、十七年間生きてきた」
ありゃ。この子年上だったか……。まあ、技の冴え、体格、心の落ち着きようからは納得できるものでもあるけれど。
「アタシは戦士に、騎士になりたいからね。それを「女」であること、その弱さを理由に逃げたくはなかったからここにいる。この学園のみんなはそうさ。自分の「女」っていう弱点と戦い、それを克服して堂々と生きたくてここにいるんだ。だから――
運命の子っていう弱点にすがったまま、その逃げ道で学園にいるエフィリーがね。
なんというかムカッ腹が立って許せなかったのさ。
弱いなら弱い、戦えないなら戦えないでいいんだ。普通に生きればね。女として。
だけどそれを認めずに、覚悟を持ったアタシたちと同じフリをしているのがさ。
そういう風に感じてた。ずっとね。
……多分、アンタがエフィリーに何かを教えるまでは、だよ」
「アタシはね。弱いやつは嫌いだけど、逆に言えば強いやつは好きってこと。
アイツの弱さの理由を突きつけるために「アタシに勝てなかったら学園を辞めろ」なんて約束させちゃったけどさ、それがこんな予想外のカタチになってくれて嬉しいよ。
アタシも騎士だ、一度言ったことを撤回したりはしない。アイツがこれほど戦えるようになろうとしてるのは嬉しいけど、だからと言って約束を反故にはさせない。
もう一週間しかないけど、楽しみにしてるよ。アタシが全力で戦える相手になってることをね。頼むよ、ジュドウ」
呼び捨てにされてしまった。俺、結構女の子に呼び捨てされやすいタイプなのかな。
それにしても真っ直ぐな騎士さんだ。結構あけすけに自分の内面を語ってくれたし、それも精霊の色からウソでないことが分かる。
「俺に頼まれてもね……」
「ウフフ。そうかい、じゃあそういうことにしておくよ。
――あーっと、じゃあ正々堂々のついでだ。アタシとジャックケットしておくれよ」
? ジャックケット? 言われて反射的に出した俺の右腕に、アザリカの精霊が何重にも突き刺さる。同時に、彼女は恐ろしくバランスのとれた察知の精霊結界を広範囲に作り、この場を包み込んでいた。
……もしかして。
「いくよジュドウ。ジャックケット、ポー。
あいこで、ポー。
あいこで、ポー。
あいこで、ポー……」
……俺がエフィリーとやっているジャックケットの修行。それは精霊作用的に説明すると、意図の察知を高速で処理し、的確な作用で反応するというものだ。
つまり俺が「グー」を出す合図として、その色の精霊をエフィリーに飛ばしながらグーを出す。エフィリーはそれを察知し、身体に対応させてグーを出してあいこにする。
ジャックケットの応酬は戦いの攻防のそれに当てはまる。相手の意図を察知し、適切な対応で身体を動かす。人間である以上……いや生命である以上、行動には必ず意図が先に出る。無意識の行動もあることにはあるが、このレベルでそれが戦闘に出ることはほぼ無いといってよかった。だから精霊を通して意図を掴み、それに即座対応できる能力を磨けば――
どんな相手にも負けないという目論見だった。
「……あいこでポー……。ふふ、このくらいでいいかい?
見ての通りさ。アタシも実は――合気を掴むレベルには、いるんだよ」
アザリカの精霊配合。改めて感じてみると、勇者としての資質まではいかないが恐ろしくバランスがとれている。それは「己の身体を動かす」という能力においてだが、もしかしたら彼女も気付かないところで……ある程度の精霊を感知出来ところにいるのかもしれない。
俺やエフィリーほど「すべて」というわけではないが、世の中にはそういう才能や訓練の末に、ある種類の精霊だけを感知できる者もいる。
世間的には「カンがよい」と言われるくらいだが、それを認知して感覚を鍛え上げると……勇者の一歩手前にまで来ることは、出来るのだ。
……。俺、さっきミルルやマテリアに何て言ったっけ……。
『エフィリーが学園最強のアザリカに勝つ』って約束したんだよな……。
正直、負けるとは思っていない。何故なら今のアザリカの実力を見ても、エフィリーの精霊察知と回復力が順調に育っていれば彼女が倒れることは無いと言い切れるからだ。
……だけど。そうだ、すっかり忘れてた。
このアザリカを「倒す」精霊の使い方……
教えつつ修行してる時間、無いや!
「面白い試合になればいいな」と、アザリカは残して去った。
全くだ。これは俺でもどうなるか分からない。
一週間後の試合は、本当に「面白く」なりそうだった。
※
三日前から雨が続いていた。夏になろうかというこの時期の雨、しかもそれが日を重ねるとなると普通外気は蒸し蒸しして気持ちが穏やかではなくなる。
だがこのミスリア女学園内は精霊調整が効いているのでそんな不快が心をささくれ立たせることはない。生徒たちはこの雨が通り過ぎた後に訪れる夏の太陽を期待して訓練を続け……
期待通りの晴天を今日に迎えた。
久しぶりの太陽、しかも夏のそれである。窓に翻るエフィリーの白く眩しいシーツも午前中で乾くことだろう。
……まあ、本当はそんな風景あっちゃいけないんだけれど。何故なら今日が――
アザリカとの試合本番、つまり進級試験その日だからだ。
シーツが窓に出ているということは、無意識下での精霊調整が未だ不十分のままこの日を迎えちゃったというワケであり……。
「で、でもっ! もう少しだったんです! 夢の中で川を必死に泳いでいて、その最中にあたし『あっ、これ絶対夢だ! 起きなきゃ!』って思って、なんか色々やったら目が覚めて!
いつもは冷たくなっているシーツが今日はちょっと生温かったから、絶対あとちょっとだったんですよぉ!」
「そ、そんな生々しい報告しなくていいっ! ……まあ仕方ないさ、やろうとしていることは感覚的で正解を掴むのに時間がいるんだ。完璧に出来てなくても悪魔と戦うワケじゃないんだから何とかなるだろう」
ここは闘技場の控え室。表の観覧席にはぼちぼち生徒が集まり始めていて、ざわざわした声や空気が精霊を通さなくてもこの部屋まで伝わってきていた。
エフィリーはいつもの訓練着ではなく、特別な武道着に身を包んでこの後すぐの出番を待っている。何を隠そうこの試合は今日の進級試験最初の試合なのだ。俺と、そしてミスリアの二人はそんなセレモニーイベント開幕選手の様子を見に来ているところ。
ちょこんと椅子に座っているエフィリーの頭上に、ポンと手を置く。
精霊は淀みない。不安も緊張も身体に害を出すほどの乱れを起こしていない。ベストコンディションだと言えるだろう。
「よし。調子はいいみたいだな」
「はい。……でも、少し不安です」
「大丈夫。君は負けないよ。今までそういう修行をしてきたんだ」
「でも……また何も出来ずにアザリカさんに倒される結果しか想像出来なくて……」
「俺は逆の想像しかしていないよ。アザリカはきっとエフィリーに何も出来ない。
何故なら……そうだね、エフィリーの大好きな「論より証拠」を見せようか。
エフィリー、腕出して」
何の躊躇いも疑問も無くデシは白い腕を俺に出してくる。肘の内側を上に向けているということは、俺が何をするのかもう分かっているのだろう。というかジャックケットしっぺで習慣になっちゃったからかもしれないけれど。
「おさらいだ。いつものしっぺ、精霊で中和するんだよ」
「はいっ」
「じゃ、いくよ。せーの」
ベシッ、とエフィリーの腕にしっぺを放つ。いつも通りのいい音がしたが、エフィリーは痛みで転がることも涙目を擦ることも無く、ただその打たれた箇所を眺めていた。
ちょっと赤くなっているけれど、それは水が砂に吸われるようにスッと消えた。
「お見事。中和の精霊支配も出来ているね」
「シショーに何百回もしっぺされましたから……」
「そ、そう恨みがましい目で見ないで欲しいなあ。それはそうと精霊で感じて欲しいんだけれど、俺のこのしっぺ、どのくらいの威力があったと思う?」
「えっ? その、すっごく痛くて涙出るくらいには……」
「実は……そのすっごく痛くて涙出るくらいというのは、このくらいの威力だったんだ」
俺は右手に作った二本指のしっぺを、おもむろに傍らのテーブルへ振り下ろした。
テーブルは頑丈な木製だ。普通の人間が両拳を叩きつけたって皹も入らないだろう。これを粉々に砕くには、いつもベルーチカ先生が構えているような鋼の槌でもなきゃ無理だ。
つまり、目の前で粉々にテーブルが砕けたということは、俺のしっぺはそのくらいの精霊が乗っていたということの証明だった。エフィリーは飛び散った精霊の姿に目をぱちぱちしながら、口をあんぐりとしていた。
「えっ? えっ? えーっ!?」
「どうだい? 確かに最初は普通のしっぺだった。けれど途中から少しずつ強くしていって、今ではこんな威力のものになったん――」
「バカ者! いきなり学園の備品を壊す奴があるかっ!」
話の途中で横のミスリアにいきなり頭をド突かれた。
「ちょっとぉ! 今大事な話をしてるんだからさあ! デシの前でシショーの面目潰さないで欲しいんですけどぉ!」
「面目もクソもあるかっ! いい顔しているようだがキサマは雑用係で雇い主は私だぞ。
オマエが立場をわ・き・ま・え・ろ! 何がシショーだっ」
よりにもよってエフィリーの目の前で俺の顔を掴み、自分の胸に挟んでグリグリやりだすミスリア。パッと見は男にとって只のご褒美でしかないけれど、この状況で言えば確かに最も効果的な罰の与え方だった。
「……おわああっ! いきなり何すんだッ! 違う! エフィリー違うぞっ!
俺は別になっ!」
「……あ、いいえ。別に……その、分かってますからあたし。
マリベル館のオネエたちもやってました、男の人はみんなそういうのが好きだって……」
「意外とそういうの分かってるみたいだけど全然分かってないじゃないかっ!
今のはそういうんじゃないんだ! だから……」
そんな俺の必死の訴えに、エフィリーは「あははっ」と声をもらして笑顔で頷いた。
「はい、分かりましたっ。シショーの言うことは信じますっ」
「手なずけているじゃないか、ジュドウ」
「オマエは黙ってろっ! ……とにかくだよエフィリー。俺はしっぺ修行の中で攻撃の威力を少しずつ上げていった。今の君ならベルーチカ先生のハンマーも中和出来る。ジャックケットの修行で意図の掴み方、反応速度も上げた。多少不安定だけれど自分を保つ精霊も調整出来るようになった。これだけあればアザリカの攻撃は何も君に届かない。
自信を持っていいんだ。わかったかい?」
「はい、分かりました。でもシショー、一つだけ……最後に聞いていいですか?」
「うん? なんだい?」
「アザリカさんに負けないことは分かりました。でも――
あたし、《どうやったら勝てるんですか?》」
うぐ……。
そう、それなんだ。結局その修行を何一つしていない。ぶっつけ本番になるけれど、一応理屈だけでも教えておいたほうがいいかと思った。が、エフィリーの理解力でそれを掴みきれるかどうか……と懸念がある。頭を悩ませてしまうと、今出来ている精霊の支配が出来なくなってしまうことだってあるからなあ。「頭で考えるな」としつこく教えてきたから、なるべく考えることはさせたくない。大体このままでいたって、アザリカを倒せないまでも負けないので試合は長期戦になり、そのうち相手の体力が尽きるだろう……という目論見もある。
「こら、エフィリー」
俺が悩んでいると、横のミスリアが一歩前に出て告げた。
「オマエはこの学園で何を学んできたのだ。いいか、相手を打倒する技、理論、訓練はすべて生徒に叩き込んである。それを忘れるな。
ジュドウに何を教わっているか知らぬが、オマエが分からずとも今まで訓練してきたものは身体の中に残っているはずだぞ。あまりミスリア女学園の先生を舐めるな。教わったことをすべて出し切ればよい。
勘違いするなよ。この試験は相手を打倒するのが目的ではない。あくまで――
生徒が戦士としてその身に教えを刻んでいるか、見定めるモノなのだからな」
「……はいっ!」
いい返事だった。なるほどね、さすがに「本職」の先生は違う。
その通りだ。エフィリーが見につけているもの……俺が精霊を教える前まで、エフィリーはそれを訓練していたんだ。無駄だということはない。表に出なかったものが、精霊の支配を知った今……花開くことは充分ある。
「行こう。ではエフィリー、鐘の音が聞こえたら出てくるようにな」
ミスリアがそう残し、ドアを開ける。俺も続いて……もう一度振り返る。
「……がんばれよ」
「はいっ!」
結局最後はありきたりな激励の言葉になっちゃったな。ドアを閉める前のエフィリーは、笑顔で俺たちを見送ってくれていた。
そして俺たちは次に、アザリカの控え室に来ていた。ミスリア曰く「どの生徒も特別扱いはしない。激励は公平に」とのこと。確かにそうです、ハイ。
アザリカもエフィリーと同じ武道着を着ていたが、大柄すぎてサイズが合わなかったのか袖は千切ってあるしヘソは出ているし、足も太ももから下を出していて訓練着とほとんど変わらない。女の子がそんな恰好をしているのだから健康的な色気を感じてもいいのだけれど、今のアザリカの身体からにじみ出ている好戦的な精霊がそれをかき消していた。
「どうだ、身体の調子におかしいところは無いか」
精霊を見て分かっているはずだろうが、ミスリアはそう彼女に声をかける。というか、そんなことくらいしか聞くことが無いほどにアザリカは万全の体勢だった。
「大丈夫です学園長。……ま、気がかりと言えば気がかりが一つありますけど」
「何だ。エフィリーのことなら心配しなくていい。絶対に死なせんから遠慮なく戦え」
「ウフフッ。お墨付きを貰って一安心――というところですが心配はそれじゃないです。
確かにエフィリーのことですが、ま、知ってると思いますけどアタシはアイツに一方的な約束をさせてしまったんですよ。それがですね、よくよく考えたらリスクはあっちだけにあるんで全然公平じゃないんです。
仮にも騎士の子ですんで、誓いは公平じゃないとね。つまりエフィリーがアタシに勝った場合、アタシも何かペナルティーがなきゃおかしいかなって」
「負けたらオマエも学園を去るということか。言っておくがオマエは稀に見る戦士の素材だ。女戦士が世に台頭するようカチューンに続く礎になると思っている。
学園長としてそれは許さん。アザリカ、おまえはミスリアの名を最後まで背負え」
「……そこまで買っていただいて感謝しています。アタシもこの学園は好きだし、みんなの道を切り開くためにも世に出て努力したいと思っています。だからそれはしません」
「では何を賭けるというのだ」
ミスリアがそう言うと、アザリカは俺をチラリと見てニッと笑った。
「もし負けた場合、アタシは弱かったということ。ならば弱いなら弱いで正々堂々女らしく、そこのジュドウの女になります」
「それも許さん」
俺がズッこける前に、光の速さでミスリアが返答した。
「この男は私の――」
今度は続く言葉を俺が光の速さで口を塞ぎ制し、モゴモゴ言うミスリアの代わりに聞く。
「どういう理屈だそれっ」
「理屈? 理屈ねえ。 前にも言ったろう? アタシは弱いヤツは嫌いだが強いヤツは好きだって。つまりアイツに負けるってことは、アイツを鍛えているアンタに負けるって意味もあるよな。見も心も屈服するには充分だ、そういうことだよ」
「ぜんっぜん分かりません」
「ウフフ。まあ安心しなよ。アタシは負けないから、さ」
意外にもそう言ってウインクする様が、アザリカは似合っていた。
山間に見えていた夏の太陽も真上に昇るかという頃。俺は精霊を通じて、鐘塔の鐘を震わせる。
いつもの時刻音ではなく、戦闘開始を告げるのに相応しい銅鑼の音がジャーンジャーンと何度も闘技場の空気を震わせた。
毎日生徒が大勢で訓練している場の中央には、キクミ先生がポツンと一人。そこに、東と西の入り口から……この場で戦う闘士が姿を見せた。
エフィリーとアザリカ。俺たちが最後に見た様子と変わりなく、二人はキクミ先生の待つ中央まで歩み寄り、お互いを見つめて立ち止まる。
俺の隣で座っていたミスリアが立ち上がると、待っていたかのようにキクミ先生が場から観覧席中央、いわゆる貴賓席のような迫り出しにいる俺たち……まあミスリアなんだけど、その彼女に向かって背筋を伸ばす。倣ってエフィリーとアザリカ、そして思い思いの席に座っていた全校生徒や先生たちも起立して学園長に注目した。……隣にいる俺はどうしよう?
「諸君、おはよう。本日は晴天にも恵まれ、絶好の試験日和となった。前回のマスター試験が行われてから一年半、諸君らの訓練成果を思う存分我々に見せてほしい。
そして我々講師陣の耳は飾りではない。本日の試験に、とある生徒が進退を賭けて臨んでいることは承知済みだった。諸君らもその結果が気になって己の試験に身が入らないようでは困る。よってその武闘試合を試験の開幕試合とする。
エフィリー・ミスリア、アザリカ・ベルチ、双方全力で戦え。オマエたちの試合が、この場にいる生徒全員の闘志に新たな火を灯す好試合となることを期待する。
――以上だ!」
ザッ、という足並みの揃う音が鳴り、一堂が全員敬礼をする。そして闘技場で注目を集めるエフィリー・アザリカの両名がお互いに拳を合わせた儀式礼を交わし、キクミ先生が改めて試合のルールを説明し始めた。
とは言ってもいつも通りのミスリア式。どちらかの戦意が断たれるまで戦うのみ。
細かい武闘ルールとしては、主に打撃技で技術を競う。投げてもいいが倒れた相手に追い討ちをかけるのは無し。攻撃で倒されても蘇生カウント以内に立ち上がれば戦意アリと見て試合続行。あとは審判のキクミ先生の判断により……というところだ。
「ちょっと、そこ詰めてくださる?」
試合直前の二人に注目していたら、いつの間にか俺の隣にミルルとマテリアが来ていた。
「ここ貴賓席だぞ……。生徒はあっちの観覧席でだな」
「うるさいわねっ。それで言うならアナタは雑用係でしょ? 貴賓って枠ではありませんわ。むしろ私が座ることで貴賓席の意味が保たれます」
「ここ三席しかないんだぞ。マテリアが座れないじゃないか」
「あなたが立てばいいでしょう。男なんだからそれくらい気を利かせなさい」
「うむ、ジュドウ。オマエが立て」
「あの、私は別にこのまま立っていても……」
三者三様の物言いであったが、どれを取っても俺が立つしかなさそうな理不尽さ。別にいいですけど……!
『はじめっ!』
そんなやり取りをしている中でついにキクミ先生の号令がかかり、生徒全員の歓声がワァッとあがる、その前に――
まさに閃光一蹴。
キクミ先生の声が空気に霞むのと同時、エフィリーは地面に倒れていた。
試合開始の歓声を飲み込んだ生徒たちの声が、体内で別のものに変換され、どよめきとなって喉から湧き上がった。
……なんてこった、やられた……!
「ジュドウ、おまえは色々と生徒を舐めすぎだ」
うつぶせに倒れているエフィリーに駆け寄りカウントしているキクミ先生を眺めながら、ミスリアが目を細めて言う。
「アザリカを打倒する方法を教えずとも負けないだと? もしや受けに徹してアザリカの体力切れを狙った目論見か? それが甘いというのだ。
確かにオマエならそれが出来るだろう。そしてエフィリーもオマエと同じモノを持っているならそれが出来るかもしれない。
しかしアイツはオマエではない。余りにも自分の才能を重ねすぎたなジュドウ。たった一ヶ月そこらで、二年半叩き込んだ戦闘訓練を簡単に凌駕できると思ったのかバカ者が」
ミスリアのそれを聞きながら、俺は思わず奥歯を噛んだ。
確かにそうだ。エフィリーの「はい」という元気な返事、そして俺の修行を淡々とこなす成果に、いつしか俺は彼女の内面を知った気になっていたのかもしれない。
俺が六年間厳しい戦闘を繰り返した中で育てたこの精霊制御を、少し教えただけの彼女も同じレベルで身に付けたと思い込んでいたのかもしれない。
今のアザリカの攻撃……。遠目から見ている人間には、無造作に歩み寄っていきなり右の回し蹴りを放ったようにしか見えないだろう。あまりにも単純で、食らったエフィリーの方が油断したように見えるものだ。
しかし内容は違う。試合開始の号令前から、アザリカはこの闘技場を覆うほどの広く濃い意識の精霊を展開させていた。彼女の言う「合気」の結界というものだろう。その強く敏感な精霊の網が、一瞬の、エフィリーが号令と同時に見せた隙を察知し、同時にエフィリーの出している察知の意図を完全に中和させ、全くの意識外から攻撃した。
多分エフィリーは自分が攻撃されたことに気付かないまま、地面に伏している。それが出来るアザリカの強さを、賞賛せずにはいられなかった。
カウントが進む。瞬き一回だけの攻防時間でついた決着に、周囲も拍子抜けだろう。しかし実際の戦闘というのはほぼコレだ。攻防なんか無い。一回の切り結び、一回の油断で決まるのが現実。二人は全員にその現実を見せ付けた……のだった。
全く、ほんとバカだな我がデシは……。号令前から精霊世界に入っておけばいいのに、律儀に戦闘開始がかかるまで己の「戦闘開始」を用意していなかった。号令がかかり、精霊世界に入るエフィリーなりの儀式として……
目を瞑り。瞼の裏に精霊を感じ。そして目を開く。
その本当に瞬きしている刹那を狙われた。精霊を感じる暇も無かったろう。あれほどスムーズに感じるようなっておけよと言ったが、そこまで到達していなかった未熟さが出た……。
それで言えば今のこの状況だ。頭を揺らされ、完全に意識が飛んだと思っていい蹴りだ。無意識下の精霊支配が出来ていなければ、このまま蘇生カウントを取られて終わる。
本当に…バカだ。バカだバカだバカだ。
完全に……俺の指導不足だった。俺がバカだった……! くそっ!
そうやって、握った拳の下ろす場所を探していたその時。
おおおっ、という歓声が闘技場を包む。何が起こったかは顔を上げなくても精霊で分かる。
白く輝く精霊の渦巻きが、しっかりと大地を踏んで動き出したのだ。
エフィリーはギリギリのところで、立ち上がっていた。
「言ったろう。舐めすぎだと。それはアザリカのことだけではない、エフィリーのことも同様だ。あの子がオマエに言われている修行だけをやっていたと思ったのか?」
ミスリアは立ち上がったエフィリーに満足したように、薄く笑った。
「もしかして……ビンタの特訓、活かされたのでしょうか?」
食い入るようにエフィリーの姿を凝視し、貴賓席から身を乗り出しているミルルがそんな呟きを発した。
「ビンタの……特訓?」
「そうですわ。エフィリーが三日前くらいから私に申し出たの。自分に思いっきりビンタしてくれって。
最初は気合を入れて欲しいのかと思いましたわ。でも何回も何回も頼むものですから、気味が悪くなって……尋ねたの。そうしたら言いましたわ。
『これは特訓だ』と。『しっぺだけでは腕で受けることしか身に付けられない。武闘の試合では頭を狙われるコトの方が多い。だからその攻撃を受ける訓練だ』って。
それは……きっと今彼女が立てたことに関係あるのね」
……。
……そう……か。そうだったのか……。言われて見ればそれもそうだ。
攻撃中和の特訓は上手く出来ていた。しかしそれは「しっぺ」の打撃だけ、腕の箇所だけに特化していた。俺はそれが出来れば全身いかなる部位でも同じく作用すると思っていた。俺がそうだからだ。
でもエフィリーは……いや、本来はそうなんだ。「腕だけではなく、全身で出来なくては意味が無い」と気付かなければダメだったんだ。そこに……彼女は一人で気付いたのか。
アザリカの蹴り、どうやら本当に一瞬だけ遅かったようだ。
エフィリーは今までよりスムーズに精霊世界へ移行出来るよう、成長していた。
アザリカが合気で隠したか細い意図の精霊にも反応出来るよう、成長していた。
顔でも受けられるほど、精霊を支配して攻撃中和出来るよう、成長していた。
意識を断たれた無意識下でも短い時間で回復出来るよう、成長していた。
まったくっ……何が「不肖のデシ」なんだよ。
エフィリー、君は……俺の最高のデシだぞっ!
「さて。短い時間だったが最初から見所はあったな。ジュドウ、オマエの予想だとアザリカはエフィリーの受けや防御の強さに、エフィリーは己の攻め手の無さで、双方手を欠いて長期戦になるということだったが……本当にそうなると思うか?」
「もう分からないよ」
俺は素直にミスリアの言に首を振った。二人の精霊を読める俺でも、その二人がここまでの力を発揮できる精霊制御を行えるとは予想出来なかったから。
やはり精霊を知るということは、人間……生命を知るということに繋がらない。
だからこそ、生きていくのが面白い。俺は人間として、こうやって未知の結果にドキドキしながら……この世界を感じていたいんだ。
立ち上がったエフィリーに、少なからずアザリカは動揺していた。己のベストショット、俺から見たって一撃必倒の決着技だったはずだから。しかしさすがに戦士、そこはすぐ現実を見据えて新たな戦闘態勢に入る。
……が。精霊世界を感じ、すべて万全の用意が出来たエフィリーに、ニの矢、三の矢を当てることは難しかった。ここは俺の予想通り、エフィリーの特訓で身につけた精霊の察知能力、反応力、中和効果は完全にアザリカの攻撃を無力化していた。
闘技場が固唾を呑んでいるのが分かる。ミルルも気品をどこかに忘れたかのように口を開けっぱなしにして、二人の攻防に釘付けとなっていた。ちなみにマテリアはというと……エフィリーのためなのか両手を握り締めて試合を見ず、必死に祈っていた。
暴風のようなアザリカの攻撃。あえて大きく行っているのは、意図した隙を作ってそこに相手を呼び込むため。しかしエフィリーはその合わせ手すら察知し、アザリカの「合気」で放つ完全なカウンターをも捌くのだ。その様は流れるようで、二人の武闘は身体の弾ける様が無い組み手の様相……舞踏のようでもある。一糸乱れぬ攻防の折り重なりに、全員が観劇しているかのような気分でいた。間近で見ているキクミ先生はどう思っているだろう……。
「やはりカギはエフィリーだな。試合を動かすのはアイツの攻めが変化せねばなるまい」
ミスリアは頬杖をついていた手を離して胸の前で組み、その変化が現れる前兆を期待してなのか身を整えた。
「私もそう思いますわ。前回の練習試合、結局エフィリーは攻め手が無いのでアザリカに上手く呼び込まれ、倒されました。今はその呼び込みすら踏まえた体術を見せていますが、このままでは……」
体力勝負になりうる。つまりアザリカが攻め疲れるか、エフィリーが守り疲れるか、だ。
見た目の体力でエフィリーがアザリカを上回るとは、誰も思わないだろう。ミルルの言い淀んだ「このままでは」に続く言葉は、きっと「エフィリーの体力がもたない」になるのだろうと思う。
ただ……俺は逆だ。エフィリーの「自分を保つ」精霊支配が理想的に行えているのなら、体内の精霊活動は常に一定、すなわち体力の変化はほとんど身体に表れない。例えるなら一動いて一消費するアザリカの燃料に比べ、エフィリーは十動いて一を消費するほどのもの。
それにアザリカの「合気」で張っている精霊結界が無意識下で行われていない、つまり意図して技術的に行っているものならば、あの効果を持続させるのにも相当の集中力……体力の消費が行われているはずだ。以前彼女とジャックケットをした時、彼女が俺の腕の動きを驚異的集中力で察知・反応させていたアレは、そういうものだと思っている。
疲労が現れるのはアザリカが先。そう確信……しているのだけれど……。
口にはしなかった。
そして現実、動きの違いが目に見えて分かるようになったのは……エフィリーだった。
「エフィリー、動きが止まりましたわね」
ミルルが暑さか、それとも緊張なのか、懐からいい匂いのするハンカチを取り出して汗を拭きつつ呟く。
「そうだな。足が止まり、体捌きでアザリカの攻撃を避けなくなった。左腕で受けを徹底しているが、残した右腕で狙っているのか、それとも単に異変が起きているのか……」
ミスリアが楽しそうにミルルに続く。俺とは違い、二人は場を客観的に眺められる優秀な解説者のようだ。
確かに、いつからかエフィリーの動きが変わった。その様子はさっき二人が話した通りである。精霊を通して確認するが、彼女の白い輝きはそれほど変化していないように……思える。体力切れ、集中力切れ、そんなものは……見当たらない……と……思うんだけれど……。
ああもう、自信が無いっ。こうやって見守るだけなのが急にもどかしくなってきた。
「ん……まずいな」
ミスリアがふとそう呟くのと、俺がその精霊の動きに気付くのはほぼ同時だった。まあ同じ物を同じ視点で見ていたのだから当たり前なのだけれど。
しかし精霊でモノを見ることができないミルルたちは、その予想外の光景にざわっと声を漏らして我が目を疑う反応を見せていた。
二人が交差した後、派手に鮮血が舞った。
エフィリーではない。アザリカのワキ腹が切れ、決して少なくはない出血が腰から下の布を濡らしている。
ざわりとした周囲は、たちまち悲鳴とも歓声とも言えない激しい声の波をあげる。
キクミ先生が二人の間に割って入り、エフィリーとアザリカ両方の状態を確認している。アザリカは頷きながら未だ闘志を目に燃やしており、エフィリーもじっとそんなアザリカの放つ精霊を受け止めていた。
「刃物?」「凶器? 反則?」「どうしていきなり切れたの?」と、観覧席から押し寄せる生徒たちの荒波に向かって、キクミ先生は両手を広げそれを受け止めるように宣言する。
「反則はありません! 無手の攻撃です! 試合続行!」
ワアアアアッ、と再び闘技場が揺れる。ミルルもそんな雰囲気に呑まれ、目を輝かせて観客の一人になっていた。
「……やはりまずいな」
ミスリアが再びそうやってしかめっ面をするのにはワケがある。
エフィリーの攻撃、あれは……きっと俺を真似たんだ。俺が指二本に赤のサラマンドラを乗せるのを見て、自分もそれを再現したに違いない。体内の精霊支配がある程度出来ているエフィリーだ、攻撃を中和する制御と同じ理屈で攻撃に威力を乗せることも出来よう。足が止まってしまうほどに集中のいる拙い作業だったが、戦闘中でそこに至ったのは素直に褒めたい。
しかし……ちょっと手本がマズかった。俺の精霊作用をそのままイメージしているなら、あれは完全に凶器、人間を壊すことの出来る武器のレベルになる。俺のしっぺがハンマーであるから、完全に真似出来なくとも人間の肉を切り裂く威力は発揮出来るのだ。
そしてエフィリーは果たして、その効果を自分で調整出来るのか……?
ミスリアがマズイと言っているのはそれだ。授業で使う剣には保護の精霊作用が働いて相手に致命傷を与えることはない。しかしエフィリーのそれは、その保護が無い。
まともに刺し貫けば、アザリカを絶命……させることの出来るものになるだろう。
「……あの構え、ようやく分かりましたわ」
ミルルがハンカチを握り締めた拳に力を入れて言う。
「エフィリーは……左腕に盾、右腕に剣を持っているかのように構えています。対峙した私には分かりますわ。あれはもはや武術の構えではありません。剣撃の構えです!」
ベルーチカ先生が傍にいたら頷いたろうか。言われてみれば、確かにそう見える。
左腕は心臓を庇うように折り畳んで胸の前に置き、右手を腰に添えている。やや前傾の姿勢は盾で受けるがゆえの重心だ。
エフィリーの右手は手刀になっている。やはりそうだ。彼女は打撃ではなく、切り裂く剣撃に力を変換させているみたいだった。
でも、どうして……? 同じ精霊変換が出来るなら、拳に力を乗せてアザリカと同等威力の打撃を生むことも出来るはずなのに……。
「なるほど、剣の構えか。確かに……この局面で一番頼りになる攻撃の選択だ」
「どうして?」
「何故ですの?」
俺とミルルがハモらせたそれに、ミスリアは「何故オマエたちが分からん」と前置きして答えた。
「ミルル、オマエはエフィリーと剣を交わしたのだろう? そしてエフィリーに一矢報いられた。そうだな? ならば合点がいくだろうが。
オマエに一撃を与えられるほどの攻撃。それが剣撃であり、エフィリーの持っている唯一の自信に違いなかろう。アレはそのたった一つのそれを……信じた結果なのだ」
学園生活の中で、何度も行われてきた戦闘訓練。その中の、たった一回。
エフィリーが一回だけ、自ら攻撃して相手に傷を負わせたもの。
それがミルルとの試合だった。
だからエフィリーは……アザリカに勝つために……攻撃をするために……
それを、再現したのか……!
「あの子……」
思わずミルルの表情が緩む。それと同時に試合も動いた。ミスリアが言ったように、エフィリーの攻撃変化がきっかけとなって展開は大きく傾いたのだ。
アザリカは受け手を変えなければならなかった。どう考えてもエフィリーの右手に構えた手刀は、本物の刃物と同様の切れ味を宿している。左に構えた手も、盾と同じ鉄壁の硬度を誇っている。しかも、右手と同じくして何時それが刃に変わるか分からない。
もう「受ける」という選択肢は消えた。アザリカが己の精霊を制御出来て、エフィリーと同じ攻撃中和が可能なら別だが、普通の人間に装甲の無い状態で刃物を肌で受けることは出来ない。
今、アザリカは武器を持った相手に素手で戦っているのと同様なのだ。そして予想外の攻撃だったこともあり、一撃もらってしまった。彼女から流れる血液はそのまま試合のタイムリミットを刻んでいるのと同じ。キクミ先生が止めたらそこで終わりだ。
暴風だったアザリカの動きが止んだ。慎重を期してのことだ、当然だろう。そうなると、自分の攻撃が相手に脅威と確認できたエフィリーに攻め気が宿る。攻防は一転した。ついに文字通り武器を手に入れたエフィリーが、勝負を決着し得るカギを握ったのだ。
アザリカは大きく展開していた察知の意識を、狭く濃く変えて対応している。なにしろ一撃必殺を受けないまでにしろ、掠って肌が切れるだけで己の燃料とも言うべき血液が消えていくのだ。生存学や武器学でも充分叩き込まれているはずである。戦場でのケガがどういう意味を持つかを。
アザリカの戦士生命を考えるなら、キクミ先生はもう試合を止めていいはずだ。これはエフィリー側の俺だからそう考えてしまうワケでもないと思う。
頼むっ、もう終わってくれっ!
俺の願いが通じたのか、綻んだ鉄壁の察知結界をかいくぐって、エフィリーがアザリカの懐に飛び込んだ。巨体と小躯、離れていてはリーチの差が壁となってエフィリーを阻むが、その内側に入り込めば逆に小回りの効くエフィリーの動きにアザリカは完璧な対応が出来ない。
誰もが決着の瞬間だと目を見張った。
期待通りエフィリーのサラマンドラはアザリカの重心の要、左足を切り裂き――
同時にアザリカの《ウンディーネ》がエフィリーの左腕を重ねた心臓直上で炸裂した――!
ウンディーネ……!? ウンディーネだと……!?
しまった! そういう打撃も放てるのか、アザリカは……ッ!
血しぶきを吹き、膝を突いたのはアザリカ。しかし、同じく膝を突いてその先地面に倒れたのは……エフィリーだった。
ウワァァッ! という大歓声があがり、キクミ先生が一瞬アザリカのケガを見極めつつも動かないエフィリーに駆け寄り、二度目のカウントを取る。
「……何が……」
ミルルが説明を求めるように俺を見上げる。その後ろには、一層身を硬くして祈っているマテリアが見えた。
「エフィリーは、アザリカの掌打を防いだではありませんか! なのに何故倒れているのがエフィリーなのですッ!?」
「……サラマンドラじゃなく、ウンディーネで打ったからだ」
我ながら説明が面倒くさい。どうせ精霊を知らなければ今の攻撃がどういうものか理解出来るわけがないからだ。
俺じゃ埒があかないと思ったのだろう、ミルルは同じ質問をミスリアにもう一度投げた。
「そうだな……。キクミは教えなかったか?『勁打ち』というモノを。
人間の身体を水に見立て、その内部に波紋を起こして中から破壊するという東方の高度な技能だ。アザリカがやったのはそれだろう」
素晴らしい、と鼻息を鳴らし、ミスリアは腕を組む。ミルルはそれで合点がいったのか、己の拳に力を込めて戦場を睨み、黙った。
現実的に説明するとそういうことになるのだろう。あながち理屈は間違っていない。
普通「モノを破壊する」という働きには、「離れる」という作用の働くサラマンドラ群の精霊が出る。これは世界の基本的なルールだ。だから俺のしっぺやミルルの剣撃には、赤い精霊が乗るということである。
それを中和するのに、反作用が働くウンディーネ群の精霊を用いる。今までエフィリーが行ってきた「防御」とはそれだった。
しかし……先ほどミスリアが説明した通り、「離れる」という作用を中心にした「破壊」という働きはあくまで一般的な方法というだけであって、精霊に通じていけばその他の精霊作用を利用して異なる「破壊」の方法を生み出せる。その例がウンディーネの作用で精霊の流れに乱れを作り、生命の外ではなく中に開く傷を作る「勁打ち」なる技……ということだ。
とにかく、今まで行っていた「水を当てて中和する」という精霊作用が全く役に立たない一撃だったのは確かだ。理屈で言えばアレを防ぐのには「炎」をもって中和させねばならないのだから。
とんでもない奥の手を隠していやがった、アザリカ……!
そこに再び大きな歓声が上がった。俺も、ミルルも、そして今までずっと顔を伏せていたマテリアも引っ張られて顔を上げる。
その原因はキクミ先生が決着のサインを出したからではなかった。
エフィリーが……再び立ち上がったのだ。俺も思わずこれには声をあげた。
しかしその表情はとても危うい。目から涙、鼻から血の混じった鼻水、半開きの口からは赤いものが見える涎を垂らし、それを拭く力も無い様が見てとれた。完全に気力だけで立っている。エフィリーの白い精霊は輝きが薄く、アザリカの打ち込んだ精霊の威力が充分だったことを表していた。
しかし一方のアザリカも足から大量に出血し、わき腹の傷と合わせてさすがに顔色も悪くなっている。こちらも自らを奮い立たせる気力にすがっているのを隠しきれないが、キクミ先生に戦意充分のアピールを見せた。
判断が難しい。アザリカの傷は治らないが、エフィリーのダメージは彼女の自己精霊がそのうちすべてを回復してくれる。しかしその時間をどう稼ぐ? 寧ろ自分の出血状態が分かっているアザリカは、何が何でもエフィリーに深刻なダメージがある今、決着をつけるためにトドメを刺しにくるだろう。
キクミ先生が遠くからこちらを見た。学園長の指示を確認するためだ。
ミスリアはそれに黙って……頷いてみせた。
続行である。「再開!」の声が上がり、それと同時にアザリカが足の傷をモノともせず一気にエフィリーまでの距離を詰めた。身体に充分、あの「勁打ち」を打てるだけの精霊を練りながら。思えば彼女が広範囲に張っていた察知の精霊を引かせたのは、慎重を期してのものではなく、この一撃を体内で練り上げるのに必要だったからなのだ。
エフィリーは反応しない。アザリカを見ていない。精霊も不安定だ。立っているのが奇跡な状態だった。そのエフィリーに、アザリカの、トドメの一撃が――
「エフィリーッ!!」
俺は思わず叫んでいた。その言葉に乗せた精霊は、きっと彼女の意識に届いていない。
胸にアザリカの勁打ちをまともに受け、エフィリーは派手に吐血した。そしてくの字になった彼女の身体を、アザリカが全力の回し蹴りで――体重を乗せた左足から血が噴出すのもお構い無しに――蹴り飛ばした。
小さな身体が一回転し、地面が砂埃を立てる。
完全に――何の精霊制御も行えず、攻撃を受けた。
「エフィリィィィーッ!!」
涙を溜めてマテリアが貴賓席から飛び出す。
「エフィリーッ! エフィリー! 立ちなさいエフィリー!」
自分で無茶苦茶を言っているのが分かっているのか、ミルルの表情はその無茶苦茶を体現したように涙で歪んでいた。迫り出しの淵を両手で掴み、身を乗り出して叫ぶ。
「立つのですエフィリー! 貴女は運命の子として私たちと共に戦うのでしょう!?
この私がッ! ようやく認めてあげようというのですッ! ここで倒れてはいけません!
勝ちなさい! アザリカに勝ちなさいエフィリーッ!
学園を去ることなど、このミルル・フォン・ガーネラゼルフが許しませんよッ!
エフィリーッ! エフィリーッ!!」
ミルルの檄が闘技場に空しく木霊し、倒れたエフィリーの様子を見てキクミ先生が首を左右に振りながらこちらを振り返った――
――その瞬間。
俺とミスリアは、思わず眼鏡を外した。
そうせざるを得なかったからだ。お互いその異変に深刻な予想を浮かべた。
「おいジュドウ。貴様エフィリーにここまで教えたのか」
「まさか。そんなつもりも時間も無かったよ」
俺たちが隠す余裕も無く交わした会話に、間近のミルルは全く気付かない。
それもそのはずだ。彼女の絶叫も、そして走り出していたマテリアの足も……
その姿に止められた。
エフィリーが砂埃の中、ゆっくりと立ち上がる姿にすべての感情を持っていかれたのだ。
皆が大歓声を上げる。キクミ先生も信じられないといった表情でエフィリーを見ている。
アザリカは……ニヤリと血の気の失せた顔で、笑った。
だがそんなクライマックスを迎えたこの試合中で、俺とミスリアが思わず絶句する出来事が起こっているのには、誰も気付いていない。気付けない。
精霊を感知できる者ではないと、この周囲に渦巻く精霊の「引き合い」が異常だと、その危険度を測りえない。
ここはミスリアが調整した極めて安定している精霊空間だ。だから「やりやすい」ということもあろう。だが――
ここまで出来るはずがない。教えていないし、体内の精霊制御とはワケが違う。
《エフィリーは、この周囲の空間に漂う精霊を己の支配下に置こうとしていた》。
これは簡単な理屈なのだが……
自分の体内精霊を制御し、それを効率よく運用出来たとしても、所詮は「人間に出来る」範囲でしか効果は得られない。自分の中に百の精霊があったとしたら、百以上の精霊効果は生まれないのだ。これをいかに無駄なく、時に赤に、青に偏らせて行うのかが……今までエフィリーのやっていたこと。
じゃあ俺が強大無比な大悪魔やドラゴンと戦えたのは、本当に人間が持っている己の中の精霊だけでなのか? というと、それは違う。
世界は精霊で出来ている。自分の周囲には、常に精霊がある。
人知を超えた奇跡を起こすのは、その周囲の精霊の力を借りているからだ。
自分だけではなく、風を感じ、大地を感じ、炎を感じ、水を感じ――
世界を感じ、精霊に囁いて己が力と為す。これが本当の「精霊に通じる」という意味。
そこに至って初めて俺は「勇者」と名乗ることが出来たんだ。
それを。今。
エフィリーが、行っている……。
何故だ? エフィリー、君は、教えていないのに何故これが出来ている!?
――その「何故」を探して俺はふと思い出した。
あの出会いの夜、彼女が俺に語った昔話を……。
『あたしは……悪魔のせいで家族を亡くしました』
『村も家族も失ったあたしは――』
そうか。そうだったのかエフィリー……。
悪魔に襲われて、村を全滅させられて……《何故君が生き残ったのか》。
その時……君は世界と通じたんだな?
精霊と通じて、世界を知り、それが出来たから……君が悪魔を倒したんだ……!
無意識だったから思い出せなかったのか。逆に言えば……意識を完全に失った今、君を守る最後の砦がこの力をもう一度発現させているってことか……!
「ミスリア、まずい。エフィリーは意識を完全に失っている。試合を止めないとアザリカが死ぬぞ。これは彼女の自己防衛だ」
エフィリーに精霊支配を全部持っていかれないよう、俺とミスリアは互いにこの場の精霊を引き合っている。自分の支配下に治められるように。
こんな場所で、こういう形でやるとは思わなかったな。本来この「精霊の綱引き」というやつは――周囲の精霊を巻き込んで強大な奇跡の戦いを起こす、大悪魔などとやるべきモノなのだから。まさしくあのゼルガス戦以来だった。
「いや、ここまで来たら最後までアザリカには経験させる。こんな戦い滅多に出来ぬ。
ジュドウ、力を貸せ。エフィリーの支配する精霊力を、なるべく致命的にならぬよう抑えるのだ。私はアザリカに防御を張る。オマエはエフィリーの精霊を引け」
こんな時に悠長な……っ!
しかし文句を言っている時間は無かった。場の主導権は戦っている二人にあり、立ち上がったエフィリーに向けてアザリカが突進したからだ。
己のすべてをかけた必殺を二度も受け、立ち上がるその姿。彼女にはエフィリーがどのように見えていたのだろうか?
未だエフィリーの、そしてアザリカの間合いにもなっていない遠間。不意にエフィリーが空気を撫でるように右手を振るった。
瞬間、アザリカの胸が真一文字に赤く裂ける。鮮血は風に乗り、彼女の背後に向かって飛んでいく。ミスリアがシールフを抑えている、だからそれだけで済んだ。それが無かったら彼女の身体は真っ二つだったろう。
致命傷に近い傷である。アザリカはそこで膝を付いてよかったが……口から赤の一線を滴らせながら、さらにエフィリーに肉薄する。
無意識なエフィリーの反応は鈍い。精霊感知に頼っている今、俺とミスリアが二人がかりで彼女と精霊を引き合っているのだから、そちらに意識を割いていて当然だ。
完全に間合いに捕らえたアザリカ。右に溜めた三度目の正直を放つ前に――
彼女は呪文を呟いた。
それはこの試合ルールでは反則だ。互いの体術のみを競う場において、魔法を使ってはならない。それはアザリカも分かっていたはず。
しかし彼女の戦士としての直感は、そのルールがこの「死合」において生死を分けるものだと掴んでいた。すべての「タタカウチカラ」を出し切らねば、エフィリーに勝てない。それをアザリカは認め、本当に己の全力をエフィリーにぶつけたのだ。
彼女が紡いだ魔法は「昏睡」。相手の意識を睡魔に襲わせ、鈍くする魔法。
彼女がどのくらいその魔法に熟達していたかは知らない。もしかしたら効かずとも、ほんの少しの隙くらいは作れると確信したのだろう。
その隙と時間があれば、アザリカは自分の魂の一撃を叩き込める。今度こそ、無防備なエフィリーの急所――頭でも心臓でも、直接打ち込める。それで終わる――という戦略だったのかもしれない。
しかし……相手が悪かった。アザリカは呪文が完成した時点で、エフィリーに魔法の効果が出るものだと最初から決め付けていた。刹那を争う攻防の最中だ、それは無理ないことだったろう。
だがエフィリーに、その昏睡系の魔法は……効かないのだ。何故なら――
俺が何度も何度も、彼女にその遥か上をいく効果のある「昏倒」をかけ続け……その精霊作用に対する抵抗力を、作り上げてしまっていたから――。
逆に、隙を作ってしまったのはアザリカだった。
エフィリーに魔法が効いていると思い込み、攻撃に己の力を溜めた。
その「溜め」と油断が――
エフィリーが無造作に出した拳の一撃を、避けられなかった敗因となった。
俺がサラマンドラの精霊を抑えて尚。
ミスリアがウンディーネの精霊を張って尚。
エフィリーの一撃はドラゴンが尾で人間を跳ね飛ばすが如く。
アザリカはくの字のまま、闘技場の壁に激突し、その破片を撒き散らして煙に埋もれた。
正に声も出ない。俺たち以外の誰も何が起こったのか把握していない。
ただ、これだけは確実にその場の空気にあった。
――アザリカは、もう立てない――と。
「ジュドウ、エフィリーは私にまかせろ。オマエはアザリカを頼む。かろうじて生きてはいるが、アレほど体内の精霊をメチャメチャに狂わされてはポーションも並みのヒーリングも効果が無い。オマエが何とかしろ」
「いや、でもエフィリーを……」
「自分のデシを自分の責任で止めたいのは分かるが、ここでオマエがあのエフィリーに対して力を振るえば素性がバレるだろう。エフィリーを治めるのには私が適役だ。まかせろ」
「……すまない。頼む」
「フフ。一つ貸しだぞ」
「ちょっと、一体今の話はどういうこと――」
そのやり取りを聞いていたミルルに、俺とミスリアは同時に「昏倒」をかけてしまった。ごめんミルル、多分君は起きたら相当頭痛がするだろうけど耐えてくれ。
試合は決したが、未だ予断のならない状況がここにはある。俺は全力で飛び出してアザリカの元に向かい、ガレキの中から彼女を掘り起こして抱きかかえる。
……頑丈なヤツだ。いくら俺とミスリアで精霊にブレーキをかけたからとはいえ、あのエフィリーの一撃は砲弾を受け止めるに近しい威力を残していたというのに……。それでもまだ息をしている。
「ジュドウさん! アザリカさんは……」
エフィリーに向けた足を曲げて、マテリアがこちらに来ていた。さすがは真のヒーラーというべきか。どちらが大事に至っているのか判断できているんだな。
「大丈夫、俺が何とかする……っと、その、このケガはマテリアのヒーリングでも無理だ。
ミスリアの部屋にとっておきの秘薬があるから、それを使う。
マテリアはエフィリーを頼む!」
俺もまあよく簡単にウソが出るようになったもんだ。しかし一刻を争うのは本当なので、心配そうに見つめるマテリアの視線を振り切って、アザリカをお姫様抱っこしたまま俺は言葉通りに学園長室へ向かう。
その際背中では、貴賓席から飛び降りたミスリアがエフィリーと対峙していた。
「キクミ、離れていろ。ここは私にまかせてもらう」
邪魔はするなとばかりに、ミスリアは狼狽するキクミ先生を下げて――
口から燃える吐息を漏らしつつ、嬉しそうに舌なめずりをする。
「エフィリー、いい子だ。さあ、あまり私に手をかけさせるなよ――?」
※
西の窓の外に、太陽が見える。その日差しが赤く眩しくなってきたので、俺はカーテンを閉じた。そろそろ終了の鐘を鳴らす時間。いつもなら鐘塔に登って一日の終わりを優雅に感じたいものだが……さすがに今日は、他に気がかりがありすぎてそんな気分になれなかった。
精霊に通じて、遠くの鐘をシールフが揺らす。朝は盛大に鳴っていたその鐘が、今日一日全生徒が尽くした努力を称えるような、優しい響きを紡いで敷地内を暖かく包み込んだ。
その音を感じたのだろうか。いつもは俺が寝ているベッドに横たわっていたエフィリーが、目を覚ました。
「エフィリー!」
真っ先に、彼女の傍でずっとその寝顔を見守っていたマテリアが声を上げる。次いで隣に座って本を読んでいたミルルが、安心を搾り出したような深い息をついた。
「あれ……? ここ……どこ?」
エフィリー五人分は横になれる大きなベッドと高い天蓋に、そんな疑問が真っ先に彼女の口をついて出てしまうのは仕方ない。声はハッキリしている。精霊の自己回復はしっかり彼女を正常に戻してくれたようだ。……ミスリアに、あんなにボロボロにされたのにな。
「学園長室の、ジュドウさんのベッドです。ああ、よかったエフィリー。貴女は私の知っているエフィリーね? 私、もうエフィリーが戻ってこないような気がして……ううっ……」
マテリアがのそのそとベッドに上がり、起き上がりもせずキョロキョロしているエフィリーに覆いかぶさるようにして寄り添った。
「シショーの……ベッド……。ああ、本当だ。シショーの匂いがする。
……学園長の匂いもする気がするけど」
「気がついたかぁエフィリーっ!」
余計な所に気が回らないよう、俺はなんとなく冷たいミルルの視線を無視してエフィリーの顔を覗きこんだ。
「あ……シショー。ジュドウさん。ええと……あたし……」
記憶を辿っているようだ。果たしてどこまで彼女は覚えているのだろうか。
しばらく「ええと……」を何度も繰り返しているが、待っても一向にその先が出てこない。痺れを切らしたのか、音を立てて開いていた本を閉じ、ミルルが顔を上げた。
「また何も覚えていないのですか? 私がまた最初から説明してあげましょうか?」
「あ……ううん。ううん。ごめん、なさい、ガーネラゼルフさん。思い出してます。
ただ……ちょっと、言葉にするのが、怖かっただけです……。
でも、そうですよね、そんなところで詰まってたって、何も……変わらないですよね」
エフィリーの声が段々と潤いを含むものになっている。その声でエフィリーは、言った。
「あたし……負けちゃった……んですよね……」
うぐっ、と喉を詰まらせ、耐えられなかったのかエフィリーはシーツを被ってしまった。
その様子に……俺、マテリア、ミルルは顔を見合わせて……そして、部屋の隅でずっと俺たちを見守っていた彼女へ、同時に視線を投げる。
「……なんだよ、アタシの口から言えってのか」
さっきまで俺が立っていた窓の傍のソファー。そこに寝そべっていた彼女――アザリカは、俺たちの視線に文句を言って口を尖らせた。
その五人目の声が、シーツの中のエフィリーに向かって告げる。
「試合的には引き分けだとさ。まあ……アタシ的には自分の負けだと思っているけどね。
そういうこっちゃ、エフィリー」
そんな声にシーツの中がもぞもぞと動き、足があった方から涙目の顔を出して、エフィリーは「ほえ?」と間抜けな声で返事した。
「そういうことですわ、エフィリー。貴女どこまで意識があったのか知りませんが、最後の最後はこのアザリカを吹っ飛ばして勝ったのです。その後でアナタはミスリア学園長にボッコボッコにされた……のらしいですけれど」
その時昏倒していたミルルは、その辺の事情はまた聞きである。斯く言う俺もアザリカをこの部屋で精霊治療していた最中のことなので、実際ミスリアがエフィリーをどうやって鎮めたのか知らないのだが。
ただエフィリーがこの部屋に担ぎ込まれた時は、アザリカ同様にボロボロだった。久しぶりに力の一端を解放できたミスリアが大人気なくハッスルしすぎた、というのはその姿から充分に想像出来たほど……。
「えっ……そう……なの? あれ? あたし……その、アザリカさんの足を斬ったところまでしか……覚えてないんだけど……」
「そこですの!? じゃあその後に立ち上がり、またアザリカの一撃を食らって倒れて、また立ち上がって、この大女を吹っ飛ばしたところは無意識の中だったというの!?」
「いちいち吹っ飛ばした吹っ飛ばしたうるさいんだよっ。何だよ、そこで意識を無くしていたんだったらアタシの勝ちみたいなもんじゃないか。何か損した気分だよ……」
「何を言ってるの? 騎士らしく正々堂々、負けを認めなさいアザリカ。貴女はエフィリーに負・け・た・の・ですっ」
「何でお壌が上から目線なんだよ! アタシはオマエに負けたんじゃねーぞ!」
当の本人をそっちのけで、キャアキャアと舌戦を繰り広げるミルルとアザリカ。エフィリーはまだシーツにくるまったままだが、そんな二人の様子を見て……ようやく最後の荷物を降ろしたような、そんな柔らかい表情で微笑んでいた。
「シショー」
「うん?」
「あたし……学園辞めなくて……いいんですよね?」
「ああ。そうだよ」
俺はシーツをかき混ぜるように、エフィリーの頭上に手を置いてグシャグシャと撫でた。
「ありがとうございます。これも……シショーがいてくれたから……」
「いや礼はいいよ。むしろすまない。あれだけ胸張って「勝てる」なんて言っておきながら、結果は大苦戦もいいところだった。頼りないシショーでごめんな」
「そんなことないですっ! あたし、あたしは……っ」
見上げてくるエフィリーの目を真っ直ぐ受け止めて、俺は彼女の頭に手を置いたまま、続けた。
「――だから、これからもっともっと厳しく修行するからな! 我がデシよっ!」
願わくば、このままずっと。二人で同じ世界を見ながら、ずっと……だ。
もちろんそこまで今は口に出して言えない。けれど、きっといつかその文句を彼女に聞かせる日が来るだろう。それまで俺は……学園の雑用係であり、彼女のシショーなんだ。
俺のそんな言葉に、エフィリーはこれ以上無いという嬉しそうな精霊を発して、
「……はい! お願いします!」
と、満面の笑顔で応えてくれたのだった。
「――にしても、貴女は正々堂々などと憚っておきながら不公平なのです。
エフィリーに進退を迫る賭けをしておきながら、自分が負けた場合のことを含まなかったではありませんか。せめて頭を下げてエフィリーに陳謝すべきですわ!」
……傍では、まだ戦ってた。女の子の口喧嘩、長いよね……。
本人たちにしてみればじゃれあってる感じなのかな。そんなにお互い悪い精霊を吐き散らしていないし。
「そりゃオマエも同罪だろっ。エフィリーに戦士としての技量は無いから諦めさせるべきだって乗ったの、もう忘れたのか?」
「うぐ……そ、それはそうですけど……」
「それから……そうだったな。すっかり忘れてたよ、アタシが負けたらってやつ」
アザリカがニヤリと俺を見つめてきたので、俺も思い出して即返答してやった。
「いや、引き分けだよ」
「いや、アタシの負けだって」
「いや、引き分けだよ」
「アタシが負けだって言ってんだから負けでいいんだよっ。
そんなにアタシが嫌いか? いくらアタシでも女なんだから傷つくぞ、それっ」
う……。何か前にもどこかでそういうセリフ聞いた気がする……。俺、本当に女の子の扱いは下手なんだなあ……と、じくじく胸に突き刺さる。
「何の話をしているのです?」
「ああ、アタシが負けたらジュドウの女になるって、試合前に約束したんだ」
サラリと言ってくれちゃったアザリカの台詞に、各々音程の違う「はっ?」が、キレイに響いた。さすが運命の子の絆で結ばれた三人……
とか感心している場合じゃなくてですね。
「何ですの? それ? ……これだから男というモノはっ!」
「シショー……もしかしてあたしを鍛えてくれたのは、アザリカさんと、その……
恋人同士になりたかったからなんですか……?」
「ジュドウさん、聖書にはこんな言葉があります。『愛を欲するは人の定めなれど、欲するあまり人を忘れるべからず』。
つまりこういうことです。ケダモノの如き心ではいけない、と……」
それぞれ四人の女の子から凍った視線をビシビシ感じる。
誰の何からフォローすべきか? 誰のどの誤解を解くべきか? あああ、こればっかりは本当に精霊を感じられても答えは出てこない。
じりじりと追い詰められた俺は、追い詰められたなりの行動を選択した。つまり、
「……さあみんな! 鐘も鳴り終わっているし、早く食堂に集合だぞっ!」
と朗らかに号令し、回れ右をしてこの戦場から走り出すことだ。背を追いかける怖い声がグサグサ刺さるがお構いなし。
戦略的撤退が……我ジュドウの最善手に違いない!