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プロローグ

 遠く微かに聞こえた山鳴りに、少年はふと顔を上げた。


 普段なら乾季の季節。燦々とした陽光は大きな窓から降り注いで、教会の中を外と変わりなく照らしている――はずである。

 しかし見渡した周囲は暗い。とっくに過ぎた雨季が再び戻ってきたかのように天は雲を厚くして光を遮っている。まるで夜のようだった。

 それに加えて町中の、さらに近隣の小さな村の人々までが教会内に集合しており、大勢がひしめき合った窮屈な空気は普段閑散としているこの場所を一層鬱々とさせていた。

 再び山鳴りと地響きがし、周囲が一斉にビクリと身体を縮める。

 そしてその度に朗々とした神父の祈りは大きくなり、人々はそれに身を寄せて手を合わせ、必死に何かを耐えている――かのようだった。

 こらっ、と小さく声がして、それを眺めていた少年は隣の母親に頭を押さえつけられる。


「ダメよ。ちゃんと神父さんのお祈りを聞いていなさい。あの山鳴りは絶対聞いちゃダメ」


 いつになく真剣な顔で注意され、少年は息を呑んだ。

 なんとなく分かってはいた。そして母親のそれを見て自分の「なんとなく」が正解だと思った。

 ――遠くの山鳴りは何か『不吉なモノ』なのだと。

 ただ幼い好奇心は、「分かってはいても」その意味をより正確に知りたかった。


「お母さん、あの音は……なぁに?」


 一呼吸おいて、母親はその険しい表情を変えずに言う。


「悪魔の声よ」

「教えたでしょう。聞いた者を呪い殺してしまう、伝説の大悪魔の声。だからみんなこうして神様に守ってもらうため、ここにいるの。いいわね、お祈りだけを聞いて、絶対に、悪魔の声に耳をすましちゃだめよ」


 小声ではあったが、それは少年の心に重く届いた。

 心中の「なんとなく」は、この時「ハッキリ」に変わった。


 ――御山の大悪魔は、本当に、いるんだ。


 少年は母親の裾を握り、それっきり二度と頭を上げることはなく……山鳴りが止むその時まで、ひたすらに彼自身の祈りを紡いでいた。


 ――お願いします。どうか無敵の勇者様が、伝説の大悪魔を倒してくれますように――。



※※※



 その咆哮は「魂盗み(ソウルスチル)」と呼ばれていた。

 強風を叩きつけるような轟音ではない。ずっしりとした怨恨が身体の中心に圧し掛かる重い雄叫び。それを頭上から浴びせられた戦士の、身に付けていた七十二の魔力護符のうち六十八個目が粉となって闇に溶けた。

 文字通り「魂盗み」は聞いた者の命を奪うというこの世で最も濃い害意の塊である。つまり六十八個の護符が砕け散ったということは、この戦士は六十八回死んだも同然だった。

 余りにも容易く命を奪う、強大で底の無い悪意。

 自分の剣を向けているモノが「悪魔」、それもこの世に四体のみ存在する「相対即死」を冠とした「大悪魔」であることを、周囲の瘴気に当てられ麻痺しかけた思考で再認識する。そしてもう一度黒煙の奥にある「形ある悪意」に、戦士は兜の中から抵抗の眼差しを向けた。

 ――それは二百年前、此処に封じられた悪しき伝説。

 王都の城壁を思わせる絶望的な巨躯は黒色の鱗に覆われ、そのすべてが逆鱗。人間の英知である鋼の剣や強大な魔法を嘲笑って弾き返すそれの下には、象徴たる悪意の塊が灼熱のマグマとなって血液のようにのたうち、赤く発光している。

 姿は腕が異様に発達した巨人。竜の尾を持ち、逆立った鬣が頭の先からその尾まで背中を這っている。二本の禍々しい角を左右から生やした顔の表情は常に「怒り」――。

 その怒りがもたらす叫びは生命の魂を奪い去る。故にその悪魔が冠する悪意は「怒号」。

『怒号のゼルガス』。

 無敵無敗たる大悪魔を砕くことが出来なかった当時の人類は、これを大魔法によって岩牢に封じるのが精一杯だった。

 月日が経ち、岩牢だったそれは何時しか岩山となり、封じられたゼルガスが響かせる怨嗟の絶叫は山鳴りとなった。しかし封じた牢に溜まる悪意は年々圧力を増していき、発する怒りは既に近隣の山里から生命を奪うまでに至った。

 いずれゼルガスは封印を破り、復活する。その時に放たれる悪意の瘴気と二百年溜め込んだ鬱憤の号は、想像するのも躊躇われるほどの生命を奪うだろう。

 ――その前にゼルガスを打倒しなくてはならない。

 二百年前の誰もが出来なかったことに、今、己が挑んでいる事実。

 悪意に押し潰されるな。己を奮い立たせろ。倒すべき相手に剣を向けろ。

 戦士は魂盗みの波動で本能的に縮こまった身体と心に、内側からもう一度喝を入れる。


「そうだよねぇ――」


 その意思は自然と声に漏れた。


「悪魔と戦える人間、大悪魔を倒せる人間なんか、もうここにいるだけしかいないだろうね。しかも……それが『女』とあっちゃぁ、世の中ホント土下座モンだ――よッ!」


 半壊した兜を脱ぎ捨て、中に収めていた紅の長髪をもうもうとした瘴気と熱気の風になびかせる。黙っていれば世の男が放っておかない端整な顔立ちだが、挑戦的な意思をギラつかせた強い眼光は紛れも無く彼女――

 カチューン・エレヴァンを、歴戦の戦士だと証明していた。

 剣の柄を両手で握り直したと同時に、悪魔の腕が虫でも叩き潰すかのように風を巻いて降ってくる。それが二度。三度。カチューンは常人離れした俊敏な体術でやり過ごしつつ、口に奇跡を力とする呪文を紡いでいた。


『レ・スール・イル・アーガン……灼熱を我が誇りとし、尖るは原初の紅。闇を裂くはノ・ル・エヴェレンの灯、宿れサラマンドラの御霊!』


 握り締めた両刃の大剣が発光し、彼女の髪色を映したように鈍く燃え盛る。四度目にゼルガスの拳を皮一枚で避けた後、カチューンは裂帛の気合と共に『鋼を弾き、魔法を通さない』と言われている大悪魔の鱗にその刃を叩き付けた。

 岩に鋼をねじ込む感触がカチューンの腕を伝い、ゼルガスの右腕に亀裂が走って鱗が弾け飛ぶ。カチューンの一撃は大悪魔の伝説を打ち砕いた。というより、打ち砕けるからこそ彼女はゼルガスの前に堂々と立っていられるのである。

 飛んだ鱗は空中で無数の黒い蟲となり、そしてゼルガスの傷から噴出す赤い溶岩は数多の蛇となって怒りをカチューンに向け飛びかかった。

 超人的な反射神経、そして身の丈程もある大剣を縦横無尽に振るえる膂力と剣術で、彼女は視界がほとんど利かない闇の霧とも言える瘴気の中、分散したそれらゼルガスの悪意をなぎ払っていく。

 ゼルガスが吼えた。魂盗みのそれではなく、ちっぽけな人間が未だ己に反抗する姿に苛立った、「対象のある」怒りの咆哮だった。瘴気は渦となって嵐と化し、岩石や溶けたマグマを結界空間に巻き上げる。しかしその「怒り」を向けられたカチューンはしっかり地に両足を着けて、魔法の炎をまとった大剣をゼルガスに向けていた。


「誰も彼もオマエの大声に怯むと思うなよぉッッ!」


 怒号を冠する大悪魔に真っ向から怒号で対抗し、カチューンは年頃の乙女らしからぬ……を通り越した、人間らしからぬ咆哮を大剣の炎に乗せ、ゼルガスに肉薄した。

 巨大な敵を倒すのに、狙うは足。懐に潜り込み、体重を支えきれなくなるほど足をメッタ斬りにする。動きを奪い、弱点であろう頭や心臓を手の届く位置に捕らえたところで、初めて必殺の一撃を叩き込む。

 迎撃に来る悪魔の右拳を避け、眼前に捕らえた傷だらけの足に数度目の一撃を見舞う――

 ――その前に、カチューンの足場が奪われていた。

 大地が割れ、できた奈落がカチューンを飲み込もうと口を開ける。咄嗟に跳躍してそれを逃れた横から、唸りを上げてゼルガスの尾が空中の彼女を跳ね飛ばした。ひたすら足を狙うというカチューンの戦略は理に適っていたが、それがやや愚直であったためゼルガスに読まれていたのだ。

 声も無くカチューンは弾丸となって岩肌へ激突し、地に転がる。衝撃は彼女の何重にも防護魔法を施した防具が吸収してくれたが、ついに限界を迎えてそれは粉々に砕け散った。

 剣を杖代わりに立ち上がった彼女に、黒煙を上げて火の玉が降り注ぐ。歯を食いしばって大剣を振るい、いくつか撃ち落した処に――魂を奪う咆哮。

 連続して護符が砕けた。さすがに長く戦っていて、周囲の瘴気に護符の力も少しずつ削られていったらしい。鎧の下に着込んでいた抗魔の法衣もボロボロに崩れ、カチューンの素肌が徐々にゼルガスの瘴気と直接触れるようになってきた。

 理不尽な悪意。底から湧き上がる恨み。血液が逆流して口から全てを吐き出したくなるほどの――怒り。世に対する怒り。無尽の怒り。全対象の怒り。怒り。怒り。怒号。


「……なめるなァーッ!」


 悪意の侵食を魂で拒み、カチューンは腹の奥底から勇気を振り絞って、不倒の構えで大剣を担いだ。

 そこに――咆哮。魂盗み。魂盗み。魂盗み。

 叫びで張り合う愚かな人間に対し、本物の怒りを浴びせんとゼルガスは三度連続で戦場を震わせ、周囲に存在する生命の魂を根こそぎ吹き飛ばそうと怒号を上げた。

 カチューンの目の前で金色の粒子が闇に一瞬映えて消える。戦闘前に用意した七十二の魔法護符、魔法法衣、防護陣を刻み込んだ対ゼルガスの防具、すべてが大悪魔の闇に飲まれた。

 今や下着程度の装甲とも呼べない布に身をくるんだだけの彼女は、ゼルガスの悪意渦巻く瘴気の毒に侵食されないよう、己の内で戦うのに精一杯である。強く噛んだ唇からは血が滴り、全身に冷や汗とも脂汗とも言えるものが浮いている。しかし……それでも彼女の眼は、決してゼルガスの悪意に犯されず闘志の輝きを放って強大な闇を睨んでいた。

 あと、一度だ。

 あと一度「魂盗み」を身に浴びたら、カチューンは絶命してしまう。もう彼女にそれを防ぐ手立ては無い。つまりは――

 『彼女に稼げる時間はここまでだ』、ということだった。

 そしてそれは余りにも無駄なく、「彼の」読み通りだった。


「待たせたカチューン! 決めるぞ!」


 ゼルガスを挟んだ噴煙の向こう側から、姿は見えずとも声がした。それは彼女がこのゼルガスを相手にずっと怯まず、逃げず、戦い、打倒することを信じ続けていられた拠り所。

 カチューンはゼルガス相手に一人で戦っていたのではない。

 悪魔と戦える人間は少なく、大悪魔と戦える人間は更に少ない。そして――

 それを打倒できる人間は、カチューンの知る限り世に一人。

 己の遥か上を行く本物の――「勇者」。

 その勇者の「援護」として、二人で戦っていたのだ。


「……ったく! ギリギリすぎよ『ジュドウ』!!」


 カチューンは前もって打ち合わせていた通り、勇者ジュドウの合図で大剣を構え直し、その刃にありったけの魔力を込めるため集中した。


『エ・スール・レイル・アーザス・アル・マハルミーア……』


 眼を閉じ、足を開いて大地に踏ん張り、世に漂う魔力と炎の精霊を集める作業に没頭する。それは余りにも無防備で、今この瞬間にゼルガスが攻撃してきたら対処する術は無い。

 しかしカチューンは「それが無い」と確信していた。

 ジュドウが「決める」と言った。だからもう――《後は決まる結末しか無いのだ》と。

 不意に今まで窒息するほど身を圧迫していた悪意の瘴気が消えた。外の空気と同じような、さすがに岩牢の中で土と埃の匂いは残るが、確かに地上の空気と同じものが周囲を満たしていく。カチューンの魔法もその空気のおかげで滑らかに効果を呼び込み始めた。

 そして戦場だけではなく、ゼルガスの周囲にも異変が起こっていた。

 その灼熱の身体を封じるだけの冷気が巻き起こり、ゼルガスの身体は末端から凍り始めた。ゼルガスは憤怒に己を焼き焦がし、その冷気に負けない豪炎を身体から発した。己が凍るという初めての感覚に更なる怒りが宿り、それを「魂盗み」に変えて眼前で相対していた人間――ジュドウ――にぶつけようとする処で――

 かざしたジュドウの剣先から、豪風が渦巻く。ゼルガスが巨腕を振るったり、咆哮と共に発するような二次的な風圧では無い。ただ「目の前の物を吹き飛ばす」という作用のみを持った強大無比な魔法の嵐だ。その竜巻はゼルガスの魂盗みはおろか、その身に纏った炎をすべて吹き飛ばした。 そして――吹き飛ばされた炎は廻り廻って、その精霊を集めるため呪文を唱えていたカチューンの元に流れてくる。

 ――ねぇ、ゼルガス。オマエの「魂盗み」もどういう理屈で即死を与えるのか理不尽なんだけど……それ以上にオマエはジュドウのやってること、理不尽だと感じているだろうねぇ。

 ――気付いているかなぁ。この局面はもう、「詰み」なんだよね……!

 呪文が完成し、カチューンの大剣は赤を通り越した爛々たる白炎に包まれ、この空間に光をもたらす小さな太陽と化した。

 その光が照らした先には、為す術も無く足を凍らされ、膝を突いて崩れるゼルガスの姿がある。正にそれはカチューンが思い描いていた「必殺の一撃を決める瞬間」でもあった。

 地を蹴る。何も阻む物が無い敵の下へ、カチューンは全力を振り絞って駆けた。

 そこに、ゼルガスが吼える。

 魂盗み。生命を絶命させる大悪魔の名を与えた「怒号」。

 それは――空気を震わせるに留まった。既にゼルガスの怒号に魂を盗む力は無い。カチューンはそれをも信じきっていた。

 ジュドウが決めると言ったからには、戦いの勝利に揺らぎは無い。そのように世界を味方につけてきた証を、これまで何度も目にしたのだから――!

 故にその足は止まらず、カチューンはゼルガスの凍った足に最大威力で包まれた魔法剣を叩き込んだ。

 それはもう怒号ではない。大悪魔の絶叫であり悲鳴であった。片足が蒸発したゼルガスは地面に崩れ、着いた手をジュドウの白刃がカチューンのそれと同じような威力で斬り払い、大悪魔は見えない天を仰ぐ大の字となる。魂盗みが効果を失っていたように、ゼルガスの鉄壁の身体も二人の刃を易々通す紙の鱗となっていた。


『馬鹿ナ……! 四大悪魔ノ我が……たった二人の人間如きニ……!』

「――四大悪魔? ああ、封じられていたから知らなかったのか。喜べゼルガス。今のオマエはこの世で唯一の大悪魔だよ」

『ナ……ニ……?』

「『嫉妬のアルミオーレ』。『憤怒のガフ』。『怨嗟のリベオラ』。もうこの世にはいない。大悪魔と呼ばれる存在はオマエを残すのみなんだ」


 ジュドウの言葉を聞き、ゼルガスはその意味を知った。

 《だからこの人間は――こうして己の眼前に剣を突きつけられるのだ》、と。

 ゼルガス最期の怒号を正に眼前で受け、ジュドウは一瞬その轟音に顔をしかめたが……再び剣を構え直すと、止めとなる呪文にも近い言葉を言い放った。


「既にその叫びは『怒号』にあらず。ゼルガス、何を持ってその悪意は現界する! 消え去れ! 有象無象の悪意の塊よ!」

「くたばれこの野郎がぁ!」


 男女の声が交差して、それぞれ大悪魔の急所を剣先が貫く。

 最早数多の悪意を束ねてきた怒号は崩れ、悪魔としてその身を形作るまでの結束は失われた。ジュドウとカチューンがこれまで三度見てきた物と同じくして、怒号のゼルガス……唯一の大悪魔だったモノの最期も、灰の城が崩れるかのようにサラサラとこの世の闇に溶け、あれだけの巨体が跡形も無く――消え去った。

 二人は最後の大悪魔を、倒したのだ。



※※※



「やっ……たぁ……」


 四大悪魔全討伐という前人未到の偉業を成し得た達成感より、何もかも出し尽くしたという疲労感が勝った。カチューンは力の無い叫びをあげると、その場に崩れる――

 寸前を、ジュドウの腕が伸びて彼女を支えた。


「シー……ネフ……エール……」


 そして呪文と共に、支えられている腕からカチューンの身体に活力が漲ってくる。僧侶の祈りではない、ジュドウ独自の回復術だ。その温かい力にしばらく身を任せつつ、カチューンはそうやって頼れる大勇者の腕の中で勝利の余韻を噛み締めていた。


「……ありがと、ジュドウ」

「それはこっちもだよ。カチューンがいなかったら大悪魔はどれも倒せなかった」

「またまたぁ。アタシとアンタの姿を見比べてみなさいっての。アタシなんか居なくても充分一人で倒せてたんじゃないのぉ?」


 激戦を終えたジュドウの姿。それは――この戦いが始まる前、つまりこのアシュウム山と名を変えた岩牢に突入する前から全くと言っていいほどに変わっていなかった。

 精霊の加護を受けたというマントは裾が少し焦げているものの、未だ瑞々しい赤色を放っている。「そんな軽装で大丈夫か」と見た者が必ず心配するという、最小限のプレートで身体を覆ったアーマーも見た目傷一つ無く、アンダーの衣服も破れた箇所など見当たらない。

 当然傷を負っているようには見えないし血の汚れも無い。兜を被らない彼の髪に「ああ、戦ったんだな」と分かる乱れがあるくらいだ。「本当にアナタが勇者?」と一見さんに必ず問われてしまう幼さを残した顔には疲れなど表れておらず、余裕の微笑みですらある。

 その点カチューンは全ての装備が剥がれてボロボロだ。魔法で治してもらったからもう分からないが、自称乙女の柔肌も傷だらけであった。


「もーぉ、相変わらず理不尽! アタシはこのまま外に出たら完全に恥ずかしい人だけど、何でアンタはいつもいつもそんなに無駄に無傷なわけぇ!?」

「いいからホラッ、これ使えよっ」


 裸同然のカチューンに顔を赤くしながら、ジュドウは己のマントをカチューンにかけてやった。そんな態度は年相応である。カチューンもまだ十九と若いのだが、彼女より歴戦で、あらゆる戦場で名を馳せた「無敵の大勇者」は驚くことに年下の十六だ。十歳の頃から戦っていたというが、常人には理解できない戦闘力を己の目で見てきた今は納得できる話だった。


「……何度も言うけど謙遜でもなく本当のことだよ。カチューンがちゃんと戦って悪魔の気を引けるからこそ、俺は精霊と有利に通じることができるんだから」

「アタシは未だにその『精霊と~』ってのの意味が分からないけどね。まあ、足手まといになってないってことだけで充分嬉しいよ」

「うん。俺は《こういうことができる》から悪魔と戦えるんだけど……それができないカチューンがここまで悪魔に屈せず対等に戦えるのは本当にすごいと思う。多分「勇者」って本当に呼ばれるべきは、カチューンのほうなんじゃないかな」


 お互いに微笑み合った。そんな雰囲気は、真に「すべての戦いが終わった」という安心と平和に満ちているものだった。暗く未だに悪魔の余韻が残る結界の中だったが、確かにそこだけは柔らかな太陽の日差しが祝福していておかしくない、暖かい空気があった。

 ジュドウとカチューン。信頼に結ばれた二人が見つめ合う。


「ねぇ、カチューン」


 意を決したという心持ちで、ジュドウが少し態度を硬くしてカチューンに向き合う。


「すべての大悪魔を倒したけれど、戦いはまだ……何かとあると思う。でも一時の平和は俺たちの手で作ることが出来た。だからその……俺たちも少し、平和であるべきじゃないかな」

「ん? まぁ……少しくらい休んでもいいわよね確かに」


 ってか休みたい、と続けたカチューンにジュドウは頷き、「だから」「その」と言葉を溜めてから覚悟を決め――大悪魔に止めをさした時と同じように――それを言った。


「カチューン……! 俺と結婚しないか!? してください!」


 ――静寂。もしここが花畑であるなら優雅に蝶が横切って花の蜜を吸いまた飛び去っていくだけの、ほのぼのとした時間停止があったろう。

 カチューンはキョトンとしていた。それっきり何の反応もないので、慌ててジュドウが色々と言葉を足していく。


「あっ……いやっ、だからさ……! なんというか、お互いここまで信頼を深めたっていうか……男と女なんだから、最終的にはそうあるべきで……! ちょ、ちょっと結婚は早すぎたかもしれないけど彼氏彼女から改めて、っていうのもその……あのさ、俺にとってカチューンはすごく特別で……! ここまで俺についてこれて、しかも嫌悪しないって女の子は全然いなくて……! だからその……俺にはカチューンしかいないから!」


 そんな顔を真っ赤にして慌てふためくジュドウを眺めていて、やっとカチューンの時間が動き出した。ぷっ、と吹き出すと声を上げてアハハと笑い出す。


「笑うなよっ! 今更って思うかもしれないけど、俺はかなりマジメに言ってるんだっ」

「あーはは……。うん、ごめん。いや、なんか、ホント今更で……」


 涙目を擦って、カチューンはにっこりとジュドウに向き直った。


「ありがとうね、ジュドウ」

「カチューン……」


「うん。ごめんなさい。ジュドウとはそういう関係になれない♪」


 ……。

 …………。

 再び静寂。今度は花畑に蝶という感じではなく、夜明けの裏通りにカラスといった雰囲気であった。

 たっぷりそんな空気を堪能して、ジュドウは別の意味で真っ赤になってゼルガスのように吼えた。


「……なんでだよっっ!?」

「いやー……ほんと今更だよぉ。アンタ気付いてなかったの?」

「何がだよ!?」

「アタシ女の子が好きなんだよね」

「……は?」

「だから。レズなの。同性愛者なの。男は愛せないの」

「……え?」

「だから、ゴメンネ? いやジュドウは決して嫌いじゃないけど、こんな性癖なかったらきっとオッケーしてたと思うけど、アンタとは生涯親友って感じかなぁ」

「ふざけんなぁー!!」


 思わずジュドウは手にしていた剣を地面に叩き付けた。そんな姿がおかしくて、カチューンは更に腹を抱えてジュドウの肩をポンポンと叩く。


「ほらぁ、嫉妬のアルミオーレ戦で一緒になったシスターのアーニャちゃんいたでしょ。『ジュドウ様』って結構アンタに一目惚れしてた系の」

「ああ、いたね。でも彼女は別にそこまで俺に好き好きオーラ出してなかったよね」

「そうだね。だってアタシが食っちゃったもん」

「なっ……!?」


 てへぺろー♪ という表情でカチューンは次々と己の戦果を報告していく。


「町娘のリファロちゃん、貴族令嬢のメイアちゃん、武器屋のジュネスちゃん……いやー勇者っていいよね。やっぱり女の子って強い男に憧れるもんじゃない? だからアンタの傍にいるとホイホイ釣れちゃうのよねー。アタシも結構強いしさ、んまー、周りでこれだけ女の子引っ掛けてたのにアンタ全然気付いてないとはねー!」

「気付くかそんなもんよぉー! 普通気になった女の子を『待て、こいつレズかな?』って疑うかよぉぉ! ねーよそんなのぉぉ!」

「大勇者とはいえ……やっぱり若いなぁ。いい勉強になったね……ジュドウ」


 再びポンと置いたカチューンの手を、ジュドウは破れかぶれという体で乱雑に払った。


「……せっかく」

「なに?」

「せっかく俺についてこれる女の子が! 勇者の戦闘まみれ人生と、一緒に強敵と戦っても死なない生涯のパートナーが見つかったと思ったのに!」

「そこまで惚れられるとレズでも照れるなぁーさすがに」

「うがあああああああああ!!」


 ジュドウは吼えた。猛烈に吼えた。恐らく遠くゼルガスの山鳴りを聞いていた人々は、治まったと思った山鳴りが再び響いてビクリと肩をあげていたかもしれない。

 それほどの絶望的で、決定的な、ジュドウの遠吠えだった。

 ――そしてのち。

 はぁはぁと肩で息をしていたジュドウは、どかりと地面に座り込み、これもまた完全に座った眼でボソリと力強く告げた。


「……やめる」

「え?」


「俺、もう勇者辞める!!」


 その魂篭った決意の声は、何度も岩牢に反射して木霊と化し……

 無敵の大勇者ジュドウの名は、この時より世界から消えたのだった。



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