今日もまた、猫の声が聞こえる
昔、まだ僕が小さかった頃の話だ。
「将来は何になりたいの?」とそう誰かに聞かれた僕は必ず笑顔でこう答えていた。
「猫になりたい!」と。
誰しも幼い頃には現実的に考えてどうしようもない可愛らしい願望というものを一つや二つ持っていただろう。
僕の場合はそれだった。
僕は猫が好きだった。いっそ、その姿になりたいほどに。
梅雨があけた。
うんざりするほどに道路をたたいていた雨の姿は今はなく、かわりと言わんばかりに景気良く紫外線が降り注がれている。
からりとした太陽の回りには今のところ雲一つない。真っ青な快晴。素晴らしいほどの天気だ。
ただ一つ難をあげるとすれば。
「あっつー……」
この、暑さだろう。
比較的過ごしやすい朝を過ぎればかんかん照りのお日様は容赦なく気温を高めていく。
いっそ雨でも降ってくれ。と、一週間前まで鬱陶しくて仕方がなかったその姿が少しばかり恋しくなる。
日本の夏特有の気候にうなだれながらとろとろと歩く様子はみっともないものだろう。だけれど、格好つける気力を気温が奪っていくのだから仕方がない。
学校からの帰宅路、今まで歩いていた道を立ち止まり振り返る。いつもつるんでいる友人とは少し前の交差点で別れた。家にはもう三分もあればつく。
学校は高台にあるため、低地になっているここからその姿が十分に見えた。
まあ、距離もあるからぽつんと小さく、だけれど。
終業式も終わり今日から夏休み。三十分ほど前までいたその場所を僕は見納めとばかりに、見つめた。どうせまた、一ヵ月とちょっとすればちょっぴりめんどくさく思いながら通うようになるのだけど。
長く短い夏休み。学校というものから遠ざかるその期間の始まりは、いつも少しだけしんみりする。
退屈で眠たい授業も、下らない話で盛り上がる休み時間も、少し気になっている子をつい目で追ってしまう瞬間も、そんな何気ない日常があるあの空間。僕は、めんどくさいと思いながら過ごすその日々が存外好きなのだ。
まあでも長い休みが嬉しいことも確かではあるのだけど。
今日から期間限定、何気ない日常からの脱出だ。
何か楽しいことが起こればいい。寝て起きて課題をやって、また寝て起きて、なんてつまらない生活で休みが全部つぶれないように。
さて、明日は何をしようか。
止めていた足を再び動かしそんな風に考えていると不思議と暑さが苦にならなくなった。
みーんみんとセミが騒がしく鳴いているのを聞きながら、先程とは違う軽い足取りで僕は歩みを進めた。
額に浮き出た汗。頬を伝って流れる雫。もうそろそろ家につく、と自室の冷房に焦がれながら汗を手の甲で拭って、曲がり角を横切った。その時だった。
――にゃあお
と猫の鳴き声が聞こえたような気がした。
僕はまた立ち止まり、回りを見渡す。見る限りでは、猫の姿など何処にもなかった。
「気のせい、なわけじゃないよな」
確かに、猫の声が聞こえた。
さて、どこにいるのだろう。木の上か、塀の向こうか、電柱の影か、車の下か。
突然だが、僕は大の猫好きだ。
母が猫アレルギー持ちなため飼ってはいないのだけど、猫グッズを集めたり、スマホに猫フォルダを作って猫写真を撮りまくったり、友人宅の猫をかまいまくって猫パンチくらったり(ご褒美)、猫カフェの常連になったり、のら猫を見つけては見失うまでそして時間が許すまで気付かれないように後をついていったり、などなどをして友人にドン引かれるほどに大好きだ。
そんな自他ともに認める猫好きの僕としては、ぜひともその姿を目におさめたいのである。
そしてあわよくば、もふりたい。なんなら猫パンチをくらってもいい。それができないなら完全に逃げ切られるまでストーキングしたい。車の下から、草の間から、電柱の陰から、じっと不審げに見つめられたい。
友人に言わせてみれば「気持ち悪い(ドン引き)」そんな期待を持ちつつ猫がいないかあちらこちらに視線を飛ばす。
しかし目を輝かせながらきょろきょろしまくるという不審者行動の甲斐なく猫の姿は一向に見当たらなかった。すでにどこか遠くへ行ってしまったのかもしれない。
かなり残念に思いながら一つため息を吐いて捜索は止めた。ああ、猫……と後ろ髪を引かれながらも諦めて進行方向に向き直って前を見据えた。瞬間だ。
「っ……!?」
僕は思わずのけ反った。
驚きのあまり声もでない。
――にゃあお
何処にもいないと思ってた猫が、いた。
眼前に。それこそ目と鼻の先ほど近い場所に、青い瞳を持つ黒猫がいた。
黒く艶々な毛並みをした猫は、突如として姿を表した。猫の瞳に酷く驚愕している僕の顔が映る。
ただでさえ冴えない顔だと言うのに更に情けない顔になってるなぁとそんなどうでもいいことが頭をよぎった。分かってる。これが一種の現実逃避だと。
そうしてしまうほど、僕は混乱していたのだ。
猫が。目の前の猫が、空に浮いているという事実に。
にゃあお
猫が鳴いた。
その瞬間うるさいほど響いていた蝉の声が不自然なくらいピッタリと止まった。
猫が動く。普段通り地面を蹴るような軽やか足取りで、それでいてゆっくりと何もない空間を歩き僕だけを見据えて向かってくる。
超現象に混乱はしても、不思議と嫌悪感だとか恐怖は感じない。
ただ僕を映す猫の瞳がとても綺麗だと、見惚れていた。晴天の空を映したかのような透き通ったスカイブルー。溺れてしまいそうなほど美しい。でも、どうしてだろう。どこかで見たことがあるような気がする。
猫が目を細める。
いくら好きだと言っても、普段はこう思ってるのかなぁ程度にしか猫の『表情』は分からない。けれどこの猫の『表情』は何故だかはっきりと伝わった。
悲しいと、やりきれないと伝えるそんな眼差し。直感した。きっとこの猫は僕じゃなく、『誰か』を見ている。ぞくりと背中が震えた。
刹那、猫がふっと消えた。まるでシャボン玉が消えたように、ぱちんと。
「なんだっ……」
なんだったんだ。
本当はそう言いたかったのだけど続かなかった。急にひどい目眩に襲われたのだ。
目の前が暗くなり、何も見えない。平衡感覚が崩れる。とてもじゃないが立っていられない。
覚えがあるような感覚。これは……立ちくらみ?
「っ………」
僕は思わず片膝をつき、落ち着くのを待った。けれど、おさまる気配は一向にない。
耳鳴り、頭痛。
良くなるどころか悪くなる一方の容態。膝をついてバランスを保つことすらできなくなり、どさっと音をたててアスファルトへと倒れこんだ。熱い。かんかん照りの太陽に熱せられていたのだから当然か。
そのうち熱中症になってしまいそうだ。いや、もしかしたら現在進行形で脱水症状を起こしているのかもしれない。このまま誰にも気づかれなかったら、僕、死ぬかな。
こんな場所で一人で死ぬなんて嫌だな。それにしてもあの猫はいったいなんだったんだろうか……。幻覚、だった?
薄れゆく意識の中で最後に思ったのはそんなことだった。
どうしたんだろうか、僕は。
はっきりしない、目覚めたてみたいな感覚に僕は眉をしかめる。確か、道路上で立ちくらみはのようなものにあっていたはず……。なのに、何故僕は自分の部屋にいるのだろう。無意識のうちに帰ってきたのか? 脱水症状を起こしていたかもしれないのに?
それともあれは、夢?
「お。ようやく気付いたか」
『!?』
ぐるぐると色々と考えていると、聞き慣れた、いや聞き慣れたなんてもんじゃない。毎日聞いている声が聞こえてきた。僕は驚愕した。聞こえてきたのは僕の声。そう確かに僕の声。
喋った覚えがないのに聞こえる僕の声。
「悪いな。ちょっとばかしお前さんの体借りてるぜ」
『………』
僕はまだ自分に何がおこっているのかわからず、ただただ呆然とした。
見える景色は確かに僕の部屋だし、タンスの上に置かれた鏡に映るベッドへ腰掛けた人物も僕だ。
確かに僕はここにいて僕は喋っていた。だけど、それは僕の意思ではないものだった。今こうして僕は声を出そうとしてるのにうんともすんとも言ってくれない。声だけじゃなく手も足も。動いてくれない。僕の意思に、手も足も口も、何一つ反応してくれなかった。
なんで?どうして?
「……悪い。俺がお前さんの体を乗っ取ってるみたいだから、お前さんの意志じゃあこの体は動かせなくなっちまったみたいだ」
混乱している僕に、『ぼく』が申し訳なさそうにそう言う。
『乗っ取る? 乗っ取るって何で? 意味が分からない! あんたも誰だよ!』
僕は精一杯叫んだ。全て、『ぼく』の声として出てきてはくれなかった。それでも、 『ぼく』には伝わったようで苦笑交じりに威勢がいいねぇと呟やかれた。
「俺はナルっつーんだ。信じちゃくれねぇとは思うが、お前さんが意識失う前に見た、あの黒猫さ」
困ったもんだよな、そう付け足した鏡の中の『ぼく』……『ナル』は眉をしかめながら頭を掻く。
『猫……? なんで……?』
「俺に聞かれてもわかりゃしねぇさ。ただ、どういうわけか俺がお前さんを乗っ取ってた」
『……そんな』
どうしようもない理不尽で迷惑な話に僕は泣きたくなった。でも、きっと『ぼく』は泣いてくれないだろう。『ぼく』が言うに、今の『ぼく』は『ナル』なのだから。
なんで、なんで、なんで!!
僕の慟哭は何処にも響かず消えていく。
「……本当に、すまねぇな。俺がいつまでたっても未練たらたらだったから」
こんなことになっちまったとナルは呟いた。鏡に映るその顔が、本当に悲しそうで苦しそうだった。ふと、あの時目を細めた猫の姿が頭を過ぎった。今のナルのように、悲しそうで、苦しそうで、やりきれないと辛そうで。
『ぼく』の至って普通な焦げ茶の瞳とあの空の瞳とが重なりあう。
不思議なものでストンと府に落ち、ナルが言ったことは本当なのだと信じることができた。黒猫ナルに乗っ取られたのだと言うことも受け入れることができた。
そう落ち着いてくると少し余裕ができたようだった。
恐る恐る、僕は尋ねる。
『もしかして、だけど。ナルはもう死んでるの?』
「まぁな。一月前に車に跳ねられたさ」
僕を乗っ取ったりだとか未練という言葉からそう結論を出したらどうやら当たっていたらしい。
えらくさっぱりと答えるナルのその物言いに不謹慎ながらも笑えた。
そして、その笑いが更に余裕を作った。
この黒猫に……ナルに興味がでてきたのだ。
『そっか。何かしたいこと、あるの?』
僕のその質問に、ナルは答えなかった。かわりに、こくりと一回うなずいた。
次の日の朝。残念なことにあれは夢でしたなんてオチはなかった。
僕はナルに起こされ、少々混乱したのちああ体を乗っ取ったられたんだっけとどこか他人事のように昨日のことを思い出していた。
猫が消えた時。あの時にナルが僕を乗っ取ったのだろう。あの謎の立ちくらみはそのせいだったのか。
まあ、なんというか、とりあえず脱水症状じゃなくてよかった。
「もう十時だぞ」
一人思考に沈む僕にナルが声をかける。ナルが言うように視界に入った時計は十時を指していた。一瞬ヤバいと思ったもののそういえばもう夏休みだったと思い出し安堵する。そもそもな話、こんな状況では遅刻なんて些細なことなのだけれど。それも含めて、やっぱり夏休みに入ってからでよかったと息をついた。
「なぁ、ちょいと出かけたいところがあるんだが、いいかい?」
落ち着かないように視線をさ迷わすナルがそう聞いてきた。
『僕にはこの体が自由に動かせないようだしご勝手に』
「さんきゅ」
思わず少しばかり刺のある言い方になってしまったそれには別段気にした様子を見せずむしろ嬉しそうにナルは礼を言った。
心が広いのか単なる無頓着なのか。どちらにせよ、ナルのその嬉しそうな声を聞き、何故か笑っている自分がいた。『ぼく』の顔には、でないんだけどね。
ナルの目的地へつくまで、僕たちは色々と話をした。
猫の生活はどういうものだったのか、学校ではどうすごすのかなど。
互いに知らない様子を知ることが出来るのは楽しいもので、少しだけ今の状況になれて良かったかもと思った。
ナルは猫だというけれど、話し方、それに話す内容がとても人間くさくて妙におかしかった。猫だなんて嘘じゃないかと思ったけれど、茶ぶちの猫に出会った時、ナルは確かに会話をしていた。
「やぁ、ご機嫌いかが」
「ま、そこそこってもんかいねぇ。若いの、随分とおもしろい姿をしておるがお主はどうじゃ」
「俺? 俺もそこそこっすよ。今はこんな態ですけどね」
「ふふん、そうかい」
「ええ。それでは、失礼」
小さくお辞儀をし、茶ぶちから離れるナルは懐かしいのに会ったと呟いた。ナルの口調が僕にたいするそれと違うことから、少なからず茶ぶちの猫がナルより上なのだと分かった。
ハタから見ればきっとただの人間が猫に話しかけ、猫がそれに反応してただけに見えただろう。でも、僕には鳴き声のかわりに、ちゃんとした人間の言葉に聞こえた。
何故? と思ったけど猫であるナルが僕を乗っ取っているからだろうかなんて結論で落ち着いた。
なんでかなんて、結局のところ僕の頭でどんなに考えたって分かりゃしないものなのだ。そんでもって、ナルがどんなに人間くさくともやっぱりその本質は猫なのだと言うことはよく分かった。
茶ぶちの猫と別れたあとも、ナルの知り合いらしい猫と度々出会い、そして別れる。
ぽてぽてと歩く子猫を引き連れた三毛猫とも出会った。「なにこれー」「だれこれー」「ママー、お腹すいたー」とぽてぽて歩きながら自由気ままに喋っている子猫は悶絶するほど可愛かった。ナルと会話しながら子猫の世話をするママさんな三毛猫もとても可愛かった。
猫と話せるなんて本当にすごい!最高!と一人盛り上がってる僕にナルはくつくつと笑う。
「楽しそうだな」
『そりゃあね! 不思議だけど楽しいことこの上ないよ!あと次から次へと猫が現れるし! 慣れてもない猫が逃げないし! 可愛い! でも、僕の意思で、もふれなくて残念!』
「そうかい。よかったよかった」
僕の返答に満足したかのようにナルは呟いた。
僕の体を乗っ取ったという負い目が少なからずナルにはあるのだろう。
だから、僕が少しでも楽しくできれば償いになるだろうと思ったのか。
……そんなこと、思わなくてもいいのに。
少なくとも、そう感じるくらい、今の僕にはナルに対して好意が生まれてきていた。
僕たちが他愛ない会話をしているうちに、どうやら目的地へついたようだった。ぴたりと足を止めた場所は大きな公園の入り口。犬の散歩やジョギング、ピクニックを楽しむ人達が見える。
『来たかった場所ってここ?』
「ん」
僕の質問にそんな簡素な返事をするとナルは公園の中へ入っていった。
青々と緑を茂らす木が立ち並ぶ。その中の一際大きく、太い木を目指してナルは歩いているようだった。ナルが目指すその場所には、僕と同じくらいの年の女の子がいる。
「やっぱり今日もいた……」
ナルが呟く。
やっぱり、ってナルは彼女のことを知っているんだろうか。
疑問を浮かべてるうちにナルが近付く。そして更に疑問が増えた。女の子は僕が知っている人物だった。
同級生の風見さん。同じクラスで、僕と一緒で猫が好き。猫好き同士、たまに話したりもしたことがあるし、うちの子が世界一可愛い! と飼い猫の写真を見せてもらったこともある。
「あ、れ。柴崎君……?」
だんだんと近付く『ぼく』に気付いた風見さんは驚いたようにこちらを見た。
その瞳は妙に潤んでいて、今にも泣き出しそう……いや、泣いていたのかもしれない。少しだけ赤い目尻。
その赤さが僕の記憶を掘り返した。
夏休みに入る直前こそいつもの風見さんだったけど、確か一ヶ月ほどまえに彼女はひどく落ち込んでいた。そして毎日毎日、こうして目尻を赤くしながらなんでもないのと笑っていた。
猫好き同士なクラスメイト程度の関係でしかない僕がどうしたのかと聞き出せるはずもなく、心配しつつも日を追うごとに普段の明るさを取り戻していった彼女に安堵したのを覚えている。
けれどまた、彼女は泣いていたのだ。
きっと、あのときのことが関係して、今日もまた泣いていたのだ、風見さんは。
ナルは風見さんを見つめるとどこか安心したような、それでいて悲しそうな複雑な色のため息を吐いた。
「まだ、俺のこと引きずってんのか?」
『えっ?』
突然のナルの言葉に思わず変な声が出た。風見さんも僕と同じように驚いている。そりゃそうだ。はたから見れば意味不明な事を言い出した電波。付き合って別れたでもない相手からのこんな言葉、驚くに決まっている。止めてくれよナル。
「泣くなよ。葵が泣くと悲しくなる」
『ちょ、ナル! 突然どうしたの!』
僕はナルに叫んだが、ナルは完全に聞いてないようだ。
風見さんは驚きのあまり動けないようで完全にフリーズしている。
何コイツ、みたいな冷たい視線がないのはありがたい。そんな目で見られた日には夏休みどころかそのあとも学校に行けなくなっちゃうかもしれない。
「忘れろなんていわねぇけどさ。……というか忘れてなんか欲しくねぇけどさ、俺のこと、引きずるな。俺は、お前の、葵の笑顔が大好きなんだからさ」
そう言い終えると、ナルは笑った。じっと『ぼく』を……ナルを見据える風見さんの瞳には僕もこんな顔ができるのか……と思えるほど柔らかく、優しく笑っている『ぼく』が映っている。
君は、と風見さんがか細く呟いた。
先程とはまた違う驚きがその顔に浮かぶ。
だけど、その表情はすぐに変わった。
「……そっか。そうだね。私が泣いてると、いつも心配してくれていたもんね」
花のつぼみが綻ぶみたいに、風見さんの笑顔が咲いた。
輝くほどまぶしい、そして優しい笑顔。
「うん、それ」
ナルは満足そうに頷く。
「それじゃ。元気でな」
それだけ言うと、ナルは風見さんに背を向け歩きだした。
何がなんだか分からないうちに用事は終わってしまったようだ。
今まで出会った猫たち同様のあまりにもあっさりとした別れに面食らった。きっとナルにとって風見さんはとても大切な人だろうに。
『もういいのか?』
「ああ。お前さんには迷惑かけたな」
ナルが言うほど僕は迷惑だなんて思ってない。いや、最初の最初は迷惑だと思ってはいたんだ。
けれど、今はむしろ有り難いようそんな気がする。
猫と話せたし、猫が寄ってきたし、子猫可愛かったし、どうやら風見さんが本当に元気になれたようだし。
それもこれもナルのおかげだ。
だからむしろ、僕はナルに感謝しているくらいだ。
風見さんから遠ざかる。ナルが公園から出ようとしたその時だった。
「ナルゥゥゥ! 私も大好きだった! ありがとう!!」
精一杯の大きな声が後ろから聞こえた。風見さんのものだった。
「葵な、俺の飼い主だった人なんだよ。葵も俺も、小さい頃からずっと一緒だったんだ」
驚きに少しだけ肩を竦めたのち片手をあげて返事をしてなにごともなかったかのように歩きだしたナルは少しだけ照れたように、だけど誇らしそうにそう呟いた。
ああ、そうだ。と思い出した。
黒猫ナルの綺麗なスカイブルーの瞳。
それは以前、風見さんにうちの子可愛い! と見せられたあの写真の猫と同じものだと。
その日のうちに、ナルは消えた。
風見さんのことが未練だったらしいから、言葉を伝えられて、笑顔を見れて、成仏したのだと思う。
消える前に、ナルは色々と教えてくれた。
あの公園の木の下で風見さんと出会ったこと。
風見さんと過ごした日々のこと。
一ヶ月前、事故にあって満身創痍であの出会った木の下にたどり着いたこと。
そして、帰ってこないナルを探していた風見さんが瀕死のナルを見つけ、風見さんに看取られながら息を引き取ったこと。
風見さんがずっとずっと泣いていたこと。
ナルは教えてくれた。
風見さんがどれほど可愛いか、どれほど大切か。
己を失って泣き暮らす風見さんがどれほど心配だったか、と。
ナルは風見さんが大好きだった。
成仏もせずに、こうして僕を乗っ取ってしまうほどに。
結局最後までどうしてナルが僕を乗っ取れたのかは分からずじまいだったけど、もうそんなことはどうでもいい。
たった一日と少しだけ。
それだけなのに、ナルがいなくなってしまってなんだか物足りない気持ちになった。
黒猫のナル。僕の友達。
いつかまた巡り会える時が来たら、また友達になれるだろうか。
その時はまた話したい。
そしてこの時のことを笑いあいたい。
小さい頃、猫になりたいなんて言っていた僕。
実際には、猫が僕になったんだよ、なんて冗談混じりに言って笑うのだ。
ナルがいなくなってから。
以前のように猫の言葉が分からなくなっていた。
茶ぶちも三毛ママも子猫たちも、会話なんてできやしない。
でもこれが当たり前。普通は分からないものなのだ。
ナルのおかげで仲良くなった子猫たちとじゃれあいながら僕はナルを思い出す。
きっかけはあの鳴き声だ。
にゃあおと鳴いたナルの声。
そして今は、子猫たちのにゃあにゃあという声が溢れてる。
三毛ママののんびりとしたにゃーという声も聞こえてくる。
子猫を撫でる手を止め目を閉じる。
瞼の裏に浮かぶのは、黒い艶々な毛並みでスカイブルーの綺麗な瞳の、妙に人間臭く話す面白い友達の姿。
黒猫のナル。僕の大切な、ちょっと変わった友達。
ナルを思い出していたら子猫がはよ撫でろと不満げにぐりぐりと手のひらに頭を擦り付けてきた。
苦笑しながら撫でるのを再開すると、子猫は満足そうに鳴いた。
――にゃあお、と。
空は快晴。
ナルの瞳のようなスカイブルー。
今日もまた、猫の声が聞こえる。
昔自サイトに乗せていたやつを、加筆修正したものです




