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榊は、10分ほど後に店を出てきた。外で待っていた万菜美はすぐに榊が出てきたことにホッとする。その間に母親には同僚の男性を連れていくことを電話で告げた。父とも連絡が付いたらしいが、父は通勤時間1時間を有する場所に勤めており、やはり今日は父も飲み会だったので、すぐには帰ってこられないらしい。それでも飲み会を抜けて帰ってきてくれるとは言ったので、万菜美たちに遅れては来てくれるだろう。
母親は同僚を連れてくることを不思議には思ったようだが、
『男の人がいてくれるなら助かる……』
と少しだけホッとした声を出していた。
駅前からタクシーで乗り込み、自宅最寄りのコンビニを告げる。父の勤務地とは違って万菜美の勤務地は自宅から近い。そう言った場所を選んだからだが、この場合はそれで良かったと思った。駅二つほどしか離れていない自宅最寄りへは、タクシーで20分もかからずについた。
「万菜美!」
コンビニから出てきた母親の格好は、ギリギリ外に出られる程度の格好だった。まだ風呂に入っていなかったのだろう。エプロンぐらい外してよ、と思ったが、それさえも忘れる程、気が動転していたのだろう。
「お母さん、何があったの?」
母親を労わる様にその背中に手を回し撫でながら問えば、母親は青い顔のまま答える。
「家の中の扉が突然、全部開き始めて……」
それは、人ではありえない……現象だったという。だから、母は警察にも連絡が出来なかったらしい。
リビングでテレビを大きめの音で見ていた母は、二階のドアがぎぃ、と開く音を聞いてしまったらしい。当然、自分しかいない家だ。誰も二階にはいない。またか……と思ったが、出来れば気のせいにしてしまいたくてテレビの音量を更に上げた。
ぎ、ぎ、ぎ……
何かが階段を下りてくるような音。それさえも気のせいだと思いきかせながら、母は、既に頭に入ってこないテレビを凝視したそうだ。それでも、何かがいる、そう思ってしまった瞬間、
ばんっ!
強い音と共に、今までにあり得ない勢いでリビングの扉が開いた。それと同時に部屋中の扉という扉……テレビ台の扉、リビング用のクローゼットの扉、リビングと直接接しているキッチンの収納棚、挙句には冷蔵庫まで……すべての扉が勝手に開いたのだ。
母は「ひっ」と短い悲鳴を上げると、そのまま辛うじて携帯だけは手にして外に飛び出したのだと言う。玄関が開いたことをとても感謝したそうだ。
「何かいるのかしら……」
青白い顔でそう言った母の『何か』は、生きている人間ではないことは確かだ。人間の力では出来ないことなのだから当然だが、それが心霊現象だと言われてもピンとはこない。
「とりあえず、行ってみましょう」
そう言ったのは榊だった。万菜美は背中にじわりと嫌な汗をかきながらも、彼について自宅へと向かった。
明かりのついた家は、外から見る限りは、全く何の変哲もない自分の家だった。いつもと変わらない我が家だ。一体、この家で何が起こっているのか……、万菜美には理解が出来ない。
「俺が中に入って様子を見てきます」
榊の言葉に、万菜美は震えながらも
「私も行く」
と言った。
「私の家のことだし……それに、同僚の榊だけを入れるって言うのは……」
異常な事態だというのに、自宅へあまり親しくない会社の同僚を、一人で入れることに抵抗を感じた。榊もその辺りは分かっているのだろう。
「俺の手を離すなよ」
と言って、万菜美の手を握ってくれた。こんな時なのに一瞬だけドキリとしてしまったが、そんな淡い温かみは、家の中に入った瞬間、霧散した。
「何、これ……」
入った瞬間、家の中が8月だと言うのにヒヤリとするほど寒くなっていた。エアコンをつけっぱなしにしても、この温度は異常だ。
榊は玄関をゆっくりと見てから、靴棚の上のオルゴールに目を向ける。
「これは?」
「あ、それ、姉の家にあったものを母が貰ってきたみたいで……」
「そう……」
榊がそれを手にとる。ごくごく普通の何の変哲もないオルゴールだ。
「これか……」
「何? 何かあるの?」
「いや、今は何もない」
(今は……?)
その言い方では、前は何かあったような物言いではないか。そう言おうとした時、
ぎぃ……
何もしていないのにリビングの扉が動いた。外開きの扉なので、ドアが開いていく様が玄関からでも見える。勿論、リビングには誰もいない、はずだ。
「お邪魔します」
榊はきちんとそう言ってから靴を脱ぎ、万菜美の家にあがる。万菜美も榊の手を握りながら玄関から上がった。
我が家の筈なのに、見慣れた、生まれた時から住んでいる家の筈なのに。
まるで、ずっと人が住んでないかのような家のような気がした。
リビングに入ると、母の言ったとおり、部屋中の扉という扉が開いていた。これでは母でなくてもその場にいたら卒倒しただろう。よく母は携帯だけでも持って外へ逃げられたものだ。
テレビの笑い声が虚しくリビングに響き渡っている。稼働しっぱなしのエアコンは、テーブルのリモコンを確認すると28度のエコ設定で、どう考えてもこれ程家中を冷やす温度ではあり得なかった。
「榊君……榊君ってお化けとか、払えるの?」
「いや、無理だけど」
「えっ!」
てっきり除霊も出来る凄い人なのかと思ったが、榊はきっぱりと、
「ただ、見えるだけだから」
と言った。
「ええええ……」
それでは幽霊が襲ってきたらどうすればいいのだろうか。そう思った時だった。
ガチャリ。
あからさまにドアを開く音が二階から聞こえた。今までのぎぃ……とゆっくりドアが開く音ではない。ノブを確実に回し、ドアを開く音だ。
「ああ、怒っているんだね」
サラリと悠長なことを言ってのける榊を、万菜美は釈然としない思いで見上げる。
「二階も、いい?」
榊の問いかけに、渋々ながらもこくりと万菜美は頷いた。
二階は、一階以上にひんやりと冷たかった。そして微妙に生臭い。生ものなど二階にもちこんだことはないはずなのに、鼻につく臭いは下水のソレに近かった。思わず顔を顰め、それでも榊の手を離さずに掴む。
例え見えるだけであっても、今は榊しか頼れる相手がいない。
「榊君……」
「ここまで凄いのはちょっと久しぶりだな」
答える榊の声も緊張している。
ぎい、ばたんっ! ぎい、ばたんっ!
何度も開いたり閉ったりしているのは、事もあろうに万菜美の部屋のドアだった。
「私の部屋……」
もう怖くて、言葉も上ずる。ドアが勝手に開いたり閉じたりを繰り返す様は異常過ぎて、いっそのこと遊園地のアトラクションのように滑稽にさえ思えた。それなのに、笑える顔の筋肉はピクリとも動かない。
ただ、ただ、寒気がして、逃げ出したい。
榊の手を握らなければ、万菜美はきっと逃げていただろう。
「あけるよ?」
勝手に開け閉めをしているドアを躊躇うことなく榊が掴む。そうすると、ピタリとドアは開閉をやめた。
ぎぃぃぃぃ……。
立てつけが悪いわけでもないのに、軋んだ音を立ててドアがゆっくりと開いていく。
その瞬間!
ドンドンドンドンドンドン!!!
強い音。階段を何者かが勢いよく踏み鳴らして上がってくる音だった。
「え?」
すっかり部屋の方に気を取られていた万菜美はその音に驚き振り向く。
そして見た。
黒い、何かが、いた。廊下の明かりがバチンと消える。一瞬見えたあの黒い影は何だ?と思う間もなく、何かが凄い勢いで万菜美と榊に突進してきて、そして万菜美を万菜美の部屋に引きずり込んだ。
「榊君!」
万菜美の手が榊の手と離れる。何者かに押し込まれるかのように万菜美は電気も付けていない自分の部屋に引きずり込まれ、バタン!とドアが閉められる。万菜美を押し込んだ何かは見えない。
「榊君! 榊君!」
「小祝さんっ!」
榊の声が外から聞こえる。ドアノブをガチャガチャとしているのも見える。だけど、開かない。開けられないのだ、と分かった。
万菜美は部屋の電気をつけようとする。しかし、何度電気のスイッチを切り替えても、部屋の蛍光灯はつかない。机回りに向かって電気をつけようとしてもデスクランプをつけようとしても無理だった。
外の明かりが微かに入り込む部屋の中、万菜美はぎぃ……とまた独特のあの音を聞いた。
榊のいるドアではない。
部屋の中、クローゼットの扉だ。
暗闇の中で慣れてきた目でそちらをみれば、クローゼットの扉が僅かに開いていた。
(見るな見るな見るな見るな見るな見るな見るな)
心の中で己が警鐘を鳴らす。鳴らしているにもかかわらず、自分の目は食い入るようにクローゼットを見た。
真っ暗なはずなのに、クローゼットの中はさらに深淵の闇が見える。そこの中にあるはずのものは自分の衣類などの筈だった。しかし、そんなものありやしないといわんばかりに、真っ黒な闇に──
白い、指。
「ひっ!」
指だ。指だ。指だった。一本ではない。指はやがて全容を現す。手だ。手。しかも1人の手ではない。
無数の手が、クローゼットのその僅かな隙間の中からこちらに向かって伸びている。
「いや……いや……っ」
叫び声さえも出ない。怖くて、何が起こっているのか理解すら出来なくて。腰が抜けた万菜美はそのまま座り込み、ドアに背中を寄りかからせる。
「あ、う、あ、あ、あ──」
万菜美のものではない、誰かの声がクローゼットの中から聞こえてくる。何かがいる。人ではない何かがそこにはいる。
「いやっ、いや!」
頭を振り、両手で頭を覆いながら、全てを拒絶する。もう何も見たくないし、聞きたくなかった。
それなのに──。
ぎぃ……
扉が更に開く。クローゼットをもう万菜美は見られない。何かがそこから出てくる気配がするのに、それを見たくない。
怖い。怖い。
怖い怖い怖い怖い怖いこわいこわい──!
その時、背中のドアが微かに動いた。ぎぃ……と僅かに動いたのを背中で感じる。
「さ、さか……」
榊が開けたのだろうか。思わずそこに縋りついた。その隙間を覗き見る。
そして、目が合った。
真っ白な顔。赤い口。黒い目。黒い髪。女。
断片の情報だけでしかないそれは、座り込んでドアに縋りつく万菜美と同じ視線の位置に、顔だけがあった。身体はない。ただ、女の顔だけが、同じ目線でこちらをみて、そして言う。
「あけろ」
万菜美の恐怖は限界を越え、万菜美はそのまま気を失ってしまった。