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「小祝さん、これ! これっ!」
仕事に行った日、珍しく何人かがワイワイガヤガヤと一人のパソコンの前で騒いでいた。
「何?」
万菜美が一期下でもある新人のパソコンを覗き込むと、そこにはこの前、部内旅行で出かけた際の写真が表示されていた。回覧で回っているものだろう。万菜美にはまだまわってきていないそれを同僚が指さす。
「これ、こわくないっすか?」
「は?」
同僚の男が指さした写真は、河原でバーベキューをする自分たちの写真だ。万菜美の他に三人の女性たちがバーベキューの鉄板を囲みながらカメラに向かって笑いかけている。
(何、これ?)
その写真は、写真の端が黒くなっていた。デジカメ時代のこのご時世、カメラのレンズに光などが入ることは殆どない。不可思議な黒い縦線は、恐らく撮影者の髪か指がレンズにかかったものだろう。そう思いたかった。
一瞬、開きかけた扉に見えたなんて、あり得ないこと。
思わず顔を顰めながらも、
「撮影した人の影でしょ」
と言えば、同僚は「いやいや、こんなにはっきりは無理でしょ」と言い返した。
「何が?」
「これっすよ?」
「──っ」
同僚の指さした先、背後の川の中、黒髪の頭が川に浮いていた。どう考えても、川の浅瀬に近いその場所は、人が頭まで潜れる場所などなかったはずだ。事実、その隣に冷やす為に置いてあるジュースのコンテナは、それ程深く水には入っていない。
「い、岩じゃない?」
「でも、この浮いている感じ、髪っぽくないですか?」
確かに人の頭のように見える。見えるが、現状、家の中で微妙に気持ちが悪いことが起きていた万菜美にとって、心霊写真なんてものは絶対に関わりたくないものだった。
「やめてよ!」
思わず声を固くしてそう叫ぶと、同僚を囲んでいた面々が驚いた顔で万菜美を見ていた。
「あ……」
万菜美は思わず出してしまった声に取り繕うとしたが、そりより先に別の声が万菜美を救う。
「それ、課長のヅラでしょ」
タイミングよくそう言ったのは、万菜美の後ろから覗き込んできた同期の榊だった。どうやら騒いでいる彼らが気になって見たらしい。
普段はそんな冗談一つ言わない榊だが、そのタイミングは有難かった。どっ、と皆が笑い始める。
「ひどっ! 榊君、ひどっ!」
「榊さ〜ん、それ、課長に言ったら殺されますよ!」
「課長の頭のどこにヅラが……!」
課長の頭は、申し訳ないが、見事に頭頂部がつるつるとしている。典型的な波平スタイルだ。勿論、カツラなどつけていない。しかし、榊のその言葉はツボだったらしく、皆がヒーヒーと笑い始めると、遅く出社してきた先輩が、「あー、ごめん、ごめん」と事の真相を種明かししてくれた。
それは誰かの頭でも、カツラでもなかった。
ビールを冷やすために丸めた黒い網だったのだ。光の加減で細い網目のそれは何の因果か、人間の頭に見えてしまったらしい。
「こっちの写真だと、ビールだってわかるだろう?」
何枚か先の写真では、先輩が黒い網を持ち上げて、中からビールを取り出す写真があった。心霊写真だと騒いでいた同僚は、不謹慎だと皆にからかい半分に槍玉にあげられて、その話は終わった──筈だった。
万菜美は、写真の端、縦の黒線の映り込みまではすっかり忘れてしまったのだ。
「小祝さん、最近、変なこと起こってない?」
榊がそんな風に訪ねてきたのは、そんな写真騒ぎがあった直ぐ後の暑気払いだった。お盆連休を明日からに控え、各々が和気藹々と飲んでいる中、いつの間にか万菜美の横に座ってきた榊が、そんなことを万菜美に聞いてきた。
「変なこと?」
会社生活のことかと思い、万菜美は色々と思い返してみるが、特に変なことはない。誰かを好きになってとりあったり、上司の不倫相手として言い寄られたり、なんてことは、ドラマや小説の世界でしかない、と言い切れる程、万菜美の会社生活は、よく言えば順調、開けっ広げに言えば平平凡凡そのものだった。
「特にないよ」
だからそう返せば、榊は少しだけ眉を顰めつつ、
「本当に?」
と問い返してくる。そのいつもの榊らしくない執拗さに、万菜美も眉を顰めて「何?」と返そうとしたとき、
ぎい……
何の前触れもなく、頭の中に軋んだ音が響いた。思い出してもゾッとする音。
最近、万菜美の生活を何となく居心地悪くさせている得体のしれないもの……。
「あ……」
何故そんなものを思い出したのか自分でもわからない。ただ、直感的に、榊の言いたいことはそれなのだ、と頭の中で閃きの様に悟る。
榊も万菜美が何か思い当たったことに気付いたのだろう。
「こんなこと言うのは何だけど──」
と前置いてから、
「この前の皆で撮った写真。後ろの頭みたいなものはただの実物だったけど、君の横に映っていた黒い線の方は、とてもよくないものだった」
と言った。
周囲の喧騒が一気に聞こえなくなる。熱く蒸した空気が、一瞬にしてヒヤッと冷え、背中を理由もわからぬ冷たいものが駆け抜けた。
「撮影者の指とかが映りこんだってわけじゃなくて──……、あれは小祝さんの何かをこじ開けようとしている何かに見えた」
(開ける──!)
ゾッとした。一連の家の中の不可思議な出来事が次々と頭の中をかけていく。立てつけが悪くなったわけでもなく開いてしまうドアの数々。それは一つ一つは微々たる現象ではあっても、既に小祝家の中では看過できないものになりつつあった。
一番家にいる母親がその被害を多く被っており、最近、母親は日中もあまり家にいないと言う。気休めに盛り塩なんてものもしているが、それの効果も全くない。
「さ、榊君……、そういうの見えるの?」
思わず声を潜めて尋ねると、榊は曖昧に言葉を濁す。
「いつもはこんな事、見えていても言わないんだけど……、小祝さんのそれははっきり言って、良くなさすぎる」
「よくなさすぎるって……」
「話半分で聞いてくれていいから」
榊はそう註釈してから、言葉を続ける。
「あの写真の縦の黒い線。あれは小祝さんに危険が迫っているっていう守護霊からの警告だよ。あの写真を見た時、俺でさえゾッとした。黒い線の中に、手が映りこんでいた。よくよく拡大しないと見えないから、皆気付かなくて良かったけれど、俺は何だか気になって拡大したんだ。そうしたらただの線じゃなかった。あの線の中に手が映りこんでいるんだ。勿論、小祝さんたちの手でも、撮影者の手でもない。その手は黒い線の中からこちらに向かって何かを掴もうとしているように俺には見えた」
万菜美はあの時の写真を思い返してみる。写真の端、1センチにも満たない幅の黒い線。それの中に手が映っているなんて、思いもしなかった。ただの映り込みであればあり得ないことだ。
「多分、田島は勘が鋭いから、無意識にあの写真の異常さに気付いたんだと思う。幸い、騒いだ場所が違かったから良かったけど、あの写真は、見ていて気持ちがいいものじゃない」
もう、酒宴どころの話じゃなかった。じわじわとにじみ出てくる汗は熱さのせいではない。背筋が先ほどからずっとゾクゾクとして寒い。
「さ、榊くん……あのっ!」
最近の出来事を話そうとした時、携帯が震えだす。酒席だということでバイブマナーモードにしていたものだ。いつもだったら気にしなかったが、何となく心にひっかかり、
「ちょっと、ごめん……」
と言いながら席を立ち、個室の外で確認すると、それは母からの着信だった。今日、飲み会だということは知っている筈だ。それにも関わらずかけてこられた電話に、何か不穏なものを感じ、万菜美は電話に出る。
「もしもし、お母さん?」
『ま、万菜美……!』
母親の声が上ずっている。
「どうしたの、お母さんっ!」
『い、家の中に──』
「何? 家がどうしたの?」
『誰もいないはずなのに、誰かいるの……!』
ガタガタと歯のかみ合わない母の言葉に、万菜美は息を飲んだ。
「今、どこにいるの?」
『家の側のコンビニ……。なんだか怖くて……』
「分かった。直ぐ帰る」
それだけ告げると電話を切り、酒席の中にもぐりこみ、感じに声をかける。
「ごめん、ちょっと家の用事で先に抜けるわ」
「そうなの? 気を付けてねー」
会費は就業時間中に集められていたので払うことはない。すっかり酔いも冷めた状態で自分の座っていた場所の荷物をとると、榊が心配そうに声をかけてくる。
「何かあった?」
「……」
榊はただの同僚だ。特別親しい間でもないので、互いの携帯番号もアドレスも知らない。同期ではあっても仕事をするグループが違うので、接触する機会がないのだ。
このまま「何でもない」と言って遠ざけることも出来たが、何かそうしてはいけないような気がして、万菜美は榊の方に顔を近づけると、小声で言う。
「ごめん、もし迷惑でなければ、これから我が家に来てもらえる?」
そんな話をただの同僚にすべきではないと頭の隅では分かっていた。分かっていたのだが、同時に、これは自分たち家族だけではどうしようもないことだということも、漠然と万菜美は気付いていたのだ。
それは何か見えざるものが万菜美にそうした方がいいと言っているかのような気にさえなることで、榊も何故か万菜美を通してその背後を見ながら、
「分かった。時間ずらして抜ける」
と言ってくれた。
万菜美の背後を見つめる榊の目は、どこか昔飼っていた猫の目を思い出した。あの猫もそうやって、たまに飼い主ではないどこかを遠く見ていた……。