十二月二十四日 金曜日 午前十一時十分 起点再度
シンディの体温がほとんどなくなったころ、私は現実に引き戻された。左目の周りだけが水の感触を感じながら、ひりひりする。心臓が半分に引き裂かれたような痛みがする。
矢坂が私の正面にいて、心配そうに覗き込んでくる。
私は思い出した。結を迎えに行かなければならない事を。だけど、身体が永遠にここにいたいと根を張ろうとする。
「……ごめん、矢坂。迎えに行こう」
涙を振り払って、出来るだけ暗い顔をしないようにした。それとともに自分の取り乱しようを思い出して、恥ずかしさのようなものがこみ上げてくる。
「そんな泣きじゃくった顔で行っても、不安がらせるだけだろ」
さすがは長男と言うべきか、などと頭の隅っこで考えてるとすっぽりと何かに覆われた。
矢坂が私を抱きしめていた。いつもなら酷いパニックに襲われるだろう。だけど、今は安心した。この感情を安心だけでは表せない。とても心が安らぐ。
「…………シンディを弔いたい」
十分な事は出来ない。だけど、彼女のために出来る限りの事はしてもいいはずだ。
矢坂から離れると、私は腕にヘルメットをかけてシンディを抱え、川にかかった道路橋から河川敷へと続く階段を下りる。
鬱蒼と茂った雑草を踏みしめて、空間を開けてそこにシンディを寝かせる。こみ上げる涙を抑えた。
「……土に帰り、草を生やし、命を育む。そして、また土に帰る」
どこからかの小説を引用する。フィクションだとしてもそれは現実に通ずるはずだ。
彼女は生き続ける。肉体が消えようと魂が消えようと、彼女は消えない。
「逆境にめげず生き続けたボーダー・コリー。シンディ。どうか安らかに」
最後に一度優しくゆっくりと撫でる。涙が出そうになるが我慢する。彼女は一度でも心から喜んだ事があるだろうか? あの飼い主たちはシンディが死んで悲しむだろうか? あの飼い主はシンディを愛していただろうか? 私は胸が苦しくなった。
泣く事はもう許されない。シンディが敵対したように私はあいつを敵対する。そして、シンディの存在と意思を引き継ぐ。そして、仇をとる。
さっきの吸血鬼に見つけられないように草で丁寧に覆い隠し、ヘルメットを墓標代わりに置いた。いつかちゃんとした墓標を立てて、永遠にシンディの証を印したい。
「ありがとう、シンディ」
出来るだけ笑みを作ったが、自然な笑みだっただろうか。もうシンディは天国に行く事を許されて、足を踏み入れているかもしれない。
後ろ髪を引かれる思いとはこの事だろうか、足が重くなったみたいにずりずりと引きずって歩く。階段の一番上で矢坂は待っていた。
「矢坂、ありがとう。落ち着いた」
矢坂も泣いた事は明らかだった。目を強くこすって赤くなってる。だけど、平静を装っている。
「まあ……それなら、よかった」
バイクまで歩くと、私は乗るのを躊躇ったが、矢坂に背中を押された。
「乗れ。アホ」
矢坂がバイクに跨り、その後ろに私が乗ると目の前にある大きな背中に抱きついて押し殺すように泣いた。
風が、自分であって今までの自分ではない部分を流してくれると思った。でも、風は何も流してはくれなかった。心の奥深くには、昔感じた何かが蟠っていた。それには気付かなかったフリをした。
バイクが突然停車した。私は何事だろうかと顔を上げ、見えたのはトンネルだった。
そして何かが這いずり寄ってくる音。ナメクジやヘビが這いずるスピードよりも速い。まるでゴキブリのスピード。目の前にあるトンネルが囁いてるような錯覚がある。
トンネルの中から血が流れてきた。ヘビのように滑るとバイクの横を抜けた。何事も無かったように静まり返ると、背筋に寒気が走った。胃が縮こまるような感覚。
矢坂はエンジンを唸らせ、バイクを走らせた。
トンネルを抜けて、少し下り坂を行ったところにある十字の交差点に来た時だった。
「で、こっからは?」
ここまでは道路に沿って走ればいいだけだったが、三つも選択肢が出来てしまっては道を知らない運転手はお手上げ状態だ。
運転手に聞こえるか聞こえないかぐらいの声で私は言った。
「道なり……真っ直ぐ、三つ目の信号の、少し先を左……」
のどかな田舎といった雰囲気が漂っている。
眼前にある二つの山。金剛山と大和葛城山の山頂は少し白っぽく見えた。
どれだけバイクのスピードが速かろうが遅かろうが、顔に受ける風は何も流してはくれなかった。ただ、肌を刺すような冷たさしかなかった。
二つ目の信号の脇の道の駅には何人かいた。大きな身振り手振りで何かを話しているように見えた。
三つ目の信号を抜け、左の道に曲がる。
由緒正しき家のような大きな家が並ぶ道路を走り、T字路の角まで来ると私は目的地についたと矢坂の肩を叩いた。
T字路の角にある少し古い民家。それが、いとこの家。田村家。
大きな屋敷のような家は叔母の夫の両親が住む。二人とも庭弄りが好きで、よく菊を育てていた。妻の方は愛想がよくて何にでも世話を焼く、夫の方は無口で骨董品を集めるのが好きだった。だが、今はもういないだろう。
隣に繋がれるように増築された家が叔母家族が住む家だ。
完全に停車していないバイクから私は降りると荷物を投げ置き、玄関先まで走る。
大きな正面の玄関ではなく、その隣の方にある小さな勝手口のような玄関のノブを回す。回して引いても押しても扉は開かない。田村家では毎度の事で連絡してから訪ねても開いている事は滅多にない。
結を呼んでいる暇も無いぐらいに焦っていた私は玄関の窓を割り、鍵を開けた。靴も脱がずにフローリングの床を走る。リビングの扉を開けば、小さなかすれた泣き声がした。
少し奥に入るとおもちゃの化粧台のそばでうずくまり泣いている小さな影が目に入った。
「結っ!」
私の突然の声に驚いたのか顔を上げた。
「つぅちゃん……! ……ママがぁぁ……ママがぁあ……!」
はれた目、グチャグチャの顔。まだまだ幼さの残る顔が私を見た。
すぐに抱きしめたかったが、人を殺そうとした自分には躊躇われた。あの気持ちをすべて忘れたかったが出来ないため、片隅に置き去りにする。
叔母の隣に座り込む結を抱き上げた。
「結……――」
何て言えばいいのかわからなかった。
どう言えばわかるのか、どう言えば傷つく事を最小限に抑えられるのか。思い浮かばず、出来るだけありのままを言うしかなかった。
「……みんなな、死んでしまってん……。だから……だから……一緒に行こう?」
結は目をゴシゴシと擦るとを見上げた。
「……つぅちゃん家?」
「そう……。友達もおるし……」
少し考え、結が言う。
「……行く。……ママは?」
「ママは……」
私は自分の母を考え物悲しくなった。
「死んでしまったから……、結はちゃんと生きな、な? ママも結に生きてって思ってるから。だから、必要なもの持って」
結は理解していた。離れたくない、でも生きなければならないという表情でおもちゃの棚の横からピンクの小さなスーツケースを持ち出した。
私もクローゼットから結の服を数着と上着を二着持った。
二人はどうしてる? と結の二人の兄を気にかけたが、学校にいるだろうと考えていた。いや、学校からこの家は近いのだから、帰ってきていないところを見る限り生存率は低い。悪戯合戦や「サメ家族」と呼ばれる独自の家族ごっこをしていた弟分のいとこを思い出していた。家に来ては嵐の後のように家の中をごちゃごちゃにしていくために嫌で来てほしくなかった。二人掛かりで奇襲攻撃をかけてきてお互いの急所を蹴り合った事もある。それでも、根本から嫌いではなかった。
古い過去のような記憶をよみがえらせているうちに結はスーツケースにぬいぐるみを詰め込む。隅っこには豚の貯金箱が入ってる。今や、バブル時代ほどの価値もなくなっているだろう。
私はパソコンラックの上にある印刷機から紙を取ると、ペンで「結は堺にいます。」と書き、机に置いた。
「ん」
私の腕を引っ張るパジャマ姿の結に、持っていた上着を着せると玄関に向かった。並べられていた靴にはガラスの欠片が散り、とても履ける状態じゃなかったため、シューズボックスから一足取り出した。
結が靴を履いたところで背後、すなわち部屋の方から物音がした。
それもつい先ほどまでいた家ではなく、繋がっている隣の家。叔母の夫の両親が住む家の方から音がした。
軋んだ音ではなく、何かがぶつかったりするような音。
そのような音が二、三度したかと思うとガチャガシャーン、と食器のような物が床に落ちる音が響いた。
ポルターガイスト……? 薄気味悪く感じたが気になった。幽霊が出ても可笑しくなさそうだし、それぐらい古そうだから。
結の家族の誰かなら、すでにわかっているはずだ。
隣の家と繋がる唯一の戸の奥からする。ガリガリガリッと何かを削る音、バキッと何かを折る音。
最悪、コソ泥だろう、と考えながらも、思考回路は幽霊の系統から抜け出せない。
「結……、外に一人待ってるやつがおるからそこに行ってて」
玄関を開けると、スーツケースを持たせた結を押し出した。
吸血鬼と対面した時とは違う恐怖心があふれたが、好奇心にはまだ負けていた。それでも、恐怖は恐怖で私は玄関に置いているゴルフクラブを一本持った。いつでも目の前の相手を殴れるように持つと、廊下を進んだ。
私は一瞬我に返った気がした。どうして矢坂はついてきてくれたのだろうか?
だが、そんな疑問も音によってかき消された。息が聞こえてきた。深く呼吸をする音と、犬がにおいを嗅ぐ時の音、擬声語ならクンクンと、その音が聞こえてきた。