十二月二十四日 金曜日 午前十時十六分 勘違い再会
重い車体に道路に押し付けられているとわかったのはそうかからなかった。
膝に強烈な痛みが走り、今まで麻痺していた感情が堰を切って流れ出した。
死んだ?
ありえない。
夢?
夢じゃない。
人は死んだ。動物も死んだ。
血が流された。
どうして?
何で?
死んだ?
絶望、空虚、無念、後悔、不安、驚愕、恐慌。
私は感情を停止させてたに違いない。心臓を鷲掴みにされて、臓物と一緒にかき混ぜられるような気持ち悪さがあった。
一瞬で命を奪った現象に恐怖を感じた。グランドキャニオンにぶら下げられても得る事は出来ない強烈な恐怖。夢を見ているかのように鮮明でそれ以外を感じない。だけど、脳だけは別に動いているかのように冷静だった。
死んだ。それは変えられない事実。学校内であれだけの人数しかいないのだから、大阪では、日本では、もしかしたら世界では人口が大幅に減った。減ったなんてもんじゃない。一瞬の間に葬り去られた。誰が、何のために、どうやって起きたのかわからない。そもそもこんな事をする人がいるのだろうか? 何のために人々を死なせたのだろうか? どうやって一瞬のうちに何万、いや何億もの命を殺した? 手を触れず、同時に、血を流させるなんて出来っこない。
途端に自分に怒りが湧いた。どうしてかはわからない。学校に残るべきだったからかもしれない。
頬に奇妙な感覚を覚え、現実に引き戻された。ナメクジが這うような、でもどこか生暖かく優しいもの。
白とキャラメル色っぽい黒の細身の犬が目の前にいた。大きな愛らしい目はブラウンで、目の周りの模様は左右対称だ。
「シンディ……」
私がシンディと呼ぶその犬は近所のボーダー・コリーだ。檻に入れられ、寒くても暑くても外に放置。餌はほとんどなし。酷い扱いを受けているメスの成犬。
そこに私は中三ころまでカスパルやらご飯の残りやらを持ってきて食べさせていたからか、懐っこく、吠える事は滅多になかった。しかし、一緒に飼われていた伴侶である同種のオスが亡くなってからは少し気性が荒くなった。私は威嚇され、それ以上は近づかなかった。
心なしか心配そうに鼻を寄せるシンディを安心させるように耳の辺りを撫でてやる。
威嚇の色がまったくない事に嬉しさを覚えていたが、今はそんな事に浸ってる場合じゃない。
頭を打ったのか少しくらくらする。いつの間にかヘルメットが遠くのほうに転がっていた。肘を擦りむき、リュックの肩ベルトは千切れてる。片方の肩ベルトを腕から抜いてリュックを向こうに避ける。
私は道路とバイクの間に挟まれた足に目を向けた。ぶつけどころが悪ければ、粉々に砕けているだろう。けど、幸運な事に凄まじい痛みはまったくない。
「痛ぁ……」
圧し掛かったバイクを起こそうとするが、いくら農芸高校で肉体労働的な実習をさせられても少なくとも百キロは超えていそうな車体を起こす事は出来なかった。
足を引きずり出そうと引こづってみたが、びくともしないどころか何かが足に食い込む。
無理だとあきらめリュックを引き寄せて顔をうずめる。シンディはバイクの周りを行ったり来たりしてたが、さすがにバイクの上に乗られた時は怒った。
このまま、一生終わったら佐野家始まって以来の恥だろう。何で右足だけバイクに押しつぶされているのだろうか、無駄にバイクを退かせられないじゃないか。クラッシュ症候群が心配だけど。
などと考えていると、携帯電話の存在を思い出す。嫌いだった文明の利器に少々感謝しながら、ポケットから取り出し、リダイヤルで親友にかけてみる。日本じゃないはずだから期待はあまりしないが。
呼び出し音が鳴り響く。掛けた先は霧生咲羅。保育園からの幼馴染で、高校入学後でも交流のあった唯一の友達と言っても過言ではないだろう。交流と言ってもインターネットでゲームやチャットぐらいだが。彼女は父の仕事の都合のためにアメリカのフロリダ州に移り住んだためだ。
[ハロー? ……じゃなくて、何か?]
声を聞くのは久しぶりだ。この状況だっていうのにイルカみたいな無邪気さが残ってるが、このクスクス笑いはまるで悪戯でも考えている猫のようだ。
私は拝啓から季節の挨拶までをすっ飛ばし、早速本題に入る。
「助けて、バイクに押しつぶされそう。助けて」
[レスキュー隊でも呼んでみたら?]
真面目に受け取ってしまいそうだったが、冗談だと理解してこちらからも言ってみる。
「今何が起こってるか知らないって事はないよね?」
日本だけ、もしくは大阪だけならインターネットのニュースで報じられてても可笑しくない。そうじゃないって事は世界中で起こってるって考えたほうがいいはず。
[ちゃんと知ってるわ。世界中で起きてるんだから。思ったよりつーの飲み込みが早くてよかった。今ね、そっちに向かってる]
私自身、まだ完璧に飲み込めた気はしない。たぶん、今は行動出来ないから認識もあまりしなくてすんでるに違いない。
まあ、日常的な考えで頭を使えるぐらいは出来た。咲羅がアメリカ、しかもフロリダにいて、ここからはほぼ真反対の位置にいる事も。
それに、日本に来るのに最低でも二十時間はかかるはかかるはずだ。どれぐらい世界が混乱してるかはわからない。だけど、飛行機など飛ばせる余裕なんて空港にはないはず。それよりも墜落したって可笑しくない。
「咲羅、わかってると思うけど、こっちとそっちじゃ距離があって、それに人口が減ってるんだよ?」
言葉にしてグサリと実感する。世界で起きてるなんて実感は出来ない。だけど、小さな範囲では身にしみるほど理解出来る。近所の人が洗濯物を干すためにベランダに出たり、愛犬のために散歩に出たり、用事のために出てくる事はない。逆に帰宅する事もない。人口はこれまでにないほど一度に減った。いや、死滅した。
誰が、何のために、どうやって……。
ループしようとした自分の思考を断ち切り、向こうからする声に耳を傾ける。
[……てる? ねぇ、聞いてる?]
「早くして! クラッシュ症候群で足が壊死する!」
パニックの真似事をしてみたが、心の奥底ではもっと叫びたいのがわかった。泣いて叫んで消えたい。少し不安を出せた気がして心が軽くなるが、微量すぎる。
[もう、大丈夫よ。魔女が王子を送ったから]
私をか弱い姫とでも言いたいのだろうか。その王子が白馬に乗ってきたら、白馬と駆け落ちしてやろう。それか、落馬する呪いをかけるか白馬にバックドロップでも仕掛けてもらおうか。
というか、最初から王子なんて――
「いらない」
咲羅は私の考えが読めてるのかと思ってしまう答えが返ってきた。
[白馬にジャーマン・スープレックスされたあんたを助けるためにね]
私はまんまと白馬に裏切られたってわけか。
「面白い」
無感情に皮肉った。
[そろそろだから、切るわ。何かあったら電話して。メールでもいいから]
咲羅の背後で物騒な音がした気もするが、気には留めないで置こう。
助けは望めない。爪先のほうにあった痺れが膝に到達して脚全体を包みそうだ。
シンディに牧羊犬としての本能を発揮してもらうしか望みはないかもしれない。痛みを我慢すれば、引こづり出せるはず。
最後に一度自力で試してみようと、車体に両手をかける。安定した位置かを確かめ、肘が道路にぶつからないかを確かめて一気に押してみる。
奥歯が砕けそうなほど力を入れてみるがちょっと浮いただけで、重心が足に重みをかけ、それ以上上げられなかった。
「よっと」
突然、重たいバイクは風のように私の上からいなくなった。
上体を起こすと、バイクは私の右足のすぐそばに転がっていた。その横には数分前に会った人物。
私より数センチ高い背丈、軽い癖っ毛の短い髪、優しそうな目。さっき会った時にはわからなかったが、最後に見た時より大人びた顔つきだ。だけど、髪は相変わらず未熟な毬栗みたい。
「矢坂……」
つい三十分ほど前に会ったはずなのに三日ぐらい経ってる気がした。
「ピー子」
懐かしいあだ名で呼ばれた事で過去の感情がぶり返し、顔が赤くなりそうなのを抑えた。由来も何も知らないあだ名だったが呼ばれるのは悪くない。
「何で、お前が……」
「いや、霧生が電話してきて……」
これが王子だと言うのだろうか? いや言わない。言いたくない。
「どうしたんだ、それ?」
目ざとく私の右足の傷を見つけた。自分でもまだ確認してなかったから、自然に目に入るほど酷いものだとは思わなかった。
横滑りでズボンが擦れながら捲り上げられ、道路と接した脚が粗い鑢にかけられたように抉られて、砂と混じった血がべっとりついていた。ロブった。
直視すると痛みがぶり返してきた。足が挟まれていたからか今までは傷の痛みは感じなかったのに。今までで最大に血を失ってるのがわかる。少し長く放置しすぎたかもしれない。
シンディがにおいを嗅ぎ、舌を出した瞬間、私は声を荒らげ足を引いた。傷口を触られる痛みは少し苦手だ。
『血だわ。……新鮮な血よ!』
あの声が響いた。脳に直接響くが、違和感はなくずっと前からその感覚を知っているような感じ。シンディがうなり、矢坂がその場に凍りつき、私の背中に嫌な汗が流れた。
黒い風が辺りを包み込んだ。刹那の出来事に体が動かせなかった。動かせたのは右足の傷に電気が走ったような痛みが襲った時だった。
「いっ!」
ヒリヒリ、ジリジリ、熱した板を押し付けられたような熱が治まり、右足に目を向けると紅紫色と銀色のドロッとした液体が傷口を塞いでいた。
「うっわぁ……何これ」
まるで自分の足にエイリアンの一部を植えつけられたような気持ちで見ていた。何か寄生虫のようで気色悪い。
「大丈夫か……?」
心配そう、というより私が首のない人間だとでもいうように聞いてくる。
痛みは完全に引いていたため、あまり気にかけず、ズボンのズタズタになった裾を下ろした。布地に液体が滲み、アーミー柄にアーミー柄を重ねた。
「大丈夫」
私は無愛想に答え、リュックから救急箱を取り出した。リュックが放り出された所為か中身はかなりぐちゃぐちゃだ。
その場に座り込んでどうにか包帯を見つけ出し、傷口を塞いでいる液体を拭った。表面だけは拭えたが気味の悪い色が傷口を覆っている。化膿してもやだし、しょうがなくその上から包帯を巻いた。支障が出ない程度にきつく縛る。
「何なんだよ、それ」
純粋な恐怖の色が矢坂の目に宿ってる。誰しも今はそうだろう。私だって鏡で確認できればそうに違いない。
何かが突然現れて、傷口をふさいでいくなんて、そろそろ本気で夢の可能性を考えたほうがいいかもしれない。だけど、夢だとは思えない。
「知らないし、知りたくもない」
足に引っ付いてるものが受け入れがたいものだったら、私には一生吐き気が付きまとうかもしれない。だけど、今の文明じゃ説明しがたいものに違いない。黒い風と氷のような血を求める声に関係してるもの。
「俺だって知りたくねえけど……」
「あのさ……帰って」
相手の顔を見たくなくて、私は救急箱を整理しながら言った。
「悪いけど、帰って」
もう一度言う。時間稼ぎにもならず整理し終わった救急箱をリュックに詰め込む。リュックを抱えて立ち上がり、衣服についた砂埃を払う。
「何で?」
理由などなかった。
自分でも明確に理由はわからなかった。だけど、今の私に関わらないでほしかった。過去の楽しく綺麗な思い出を、今の世界で穢したくなかったのかもしれない。
少なくとも数年前のような特別な感情は抱いていない。何年越しかにしゃべった相手に戸惑いながらも答えた。
「……帰って」
「どこに行けって言うんだよ。小六ん時の俺を殴ってた威勢はどこいった?」
好きだった懐かしい記憶がジリジリと思い出される。私は頭を打ちつけたくなった。こんな時に思い出して今の記憶と関連付けたくなかったし、とてつもなく申し訳なかった。
次の瞬間には頭に強い衝撃を受けていた。火照りが別の意味で出てきた。
「ちょっとー! めっちゃ痛いんですけど!」
無意識のうちに体が動き、左足が上がっていた。カメレオンの舌のように足が伸びたかと思うと、瞬きをするかしないかのうちに足は戻っていた。
思った以上に強かったのか被害者となった加害者は腹を押さえて、後ろによろけていた。
あんぐり開いた口は戻らず、両手で隠すように押さえ、私は自分のした事に目を見張っていた。
「それでいいんだって。……やりすぎだけど」
「ホント、ごめん。マジですみませんっ」
殴っていた小学生の私だったら謝るなんて考えもしなかっただろうが、中学でまったくしゃべってもいないためか、他人行儀になっていた。
それ以前に蹴り飛ばした事の謝罪は本心からだ。数年前の小学校の頃なら謝る気にもなれないが、今はそれぐらいの礼儀はわきまえている。
「謝んな。で、バイクでどこ行くんだよ?」
倒れているバイクを軽々と起こした矢坂を私は少し妬ましく思った。
「別に、どこでも」
万が一、また倒れたらいてくれたほうがいい。だけど、結を迎えに行くだけだ。何の心配もない。
「行き先は?」
手を前に出し左右に振って拒否を示すが、矢坂は無視してバイクに跨った。唯一の移動手段が山賊に占領されてしまった。
「いとこを迎えに行くだけだから!」
「殴ったんだから、それぐらい言う事聞けって」
「あー、いや、ホント……ごめんなさい」
自分の非を言われたら言い返せなかった。私が言い換えないのをわかってるのか矢坂はニヤリと勝ち誇った笑みだった。
しょうがない、とため息をつき、占領されたバイクに乗ろうと一歩足を前に出した。
「ん」
右手を差し出された。私は脳みそを取り出されたように頭がスッカラカンになった。
長くて短い間。矢坂の手が再び動き、私の手に伸びた――かと思うと手からヘルメットを盗られた。
「ん、行くぞ」
ハンドルを握り締める矢坂だったが、脳みそが戻って不機嫌になった私の顔を見て止まった。
「……レディーファースト! そこは! ……はぁ、やっぱりいい」
冗談で言ってみたが、言い合うのが目に見えていたためにそれ以上言い返すのを諦めて、バイクの所有者であるおっちゃんの住む家にもう一度上がりこみ、ヘルメットを拝借する。
レディーファーストの精神がないのもわかってるし、私にもそういう心得があるわけでもない。真顔でされたら、逃亡してやる。
私はありとあらゆる文句をつぶやきながら、単独事故現場を一瞥する。自分がバイクと共に転倒したのを思い出し、胃が竦むような感覚に身震いした。
シンディは大人しく座り、交互に二人の顔を見ていた。理解してるのだろうか?
「こんな状況じゃなかったら、もっと言いたい事あるねんけどなぁ……」
シンディの頭を撫でて、目を見る。チョコレート色の目の中には感情があり、恐怖や困惑ではなかった。
「ついてくる気?」
返事はしない代わりにしっかりとシンディは私の目を見てくる。肯定ととっていいのだろうか。
彼女の意志なら私がそれを跳ね除ける事は出来ない。
私がこうしているように、シンディも自由に選択できる権利があるはずだ。
矢坂とはまともに話すのも小学校以来である。喧嘩するほど仲が良いのか、よく言い合いをしていたのは懐かしい。そんな記憶を押しのけて、リュックを背負いなおし、矢坂の後ろに乗る。
「頭がまだついていけてないし。どうしていいかもわからん」
ヘルメットのシールドをパカパカと開閉してみる。
こんな事をしていていいのだろうか? もっと他にしなければならない事はないのだろうか?
夢だと言う選択肢は消えてる。怪我の痛みがあんなに鮮明にあるはずがない。
誰が、何のために、どうやって……。
三度目のループしようとした自分の思考を殴りつけたくなる。
答えが出ないんだったら、答えがあるほうに進むしかない。その間に答えは出てくるかもしれない。結を迎えに行って帰ってくるまでの間に、政府からなんらかの音沙汰はあってほしい。
「俺も同じようなもんさ。だから、今はこうしてる」
お互いヘルメットを被る。
エンジンが素早くかかり、急に発進したために私は慌てて前の腰にしがみついた。