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学校断頭  作者: 浪速
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十二月二十四日 金曜日 午前九時五十二分 移動する行動

 私は前髪を掻き分けた。私にとって前髪が長い事は重要だった。果樹園で言う防風林の役目、家で言うカーテンの役目をしていた。髪は鼻まで届くぐらいに長く、母から、切れ切れ、と口うるさく言われていたのが耳についている。いくら言われようが、学校をより安全に過ごすには一番方法のため切らずにいた。


 早歩きで自転車置き場に向かうと何人かいたが、言葉は交わさなかった。


 自分の頬を叩いて、現実だと奮い立たせる。

 自転車の鍵を外し、乗ると、学校を出ようと裏門に向かった。


 出る前に牛舎、豚舎、水禽舎、その他動物がいる小屋に目を向けた。一番最初に深緑の大きなサイロが見える。その横の牛舎でも人間と同じで生きてるものと死んでいるものがいた。


「……動物までも……」


 残った動物はいつもより悲しく鳴く。総合実習の時に幾度も聞いた声は悲痛な叫びに似ていた。彼らをいつも以上に人間と同じなのだろうと感じると同時に小さな憎悪のようなものが現れた。幼い頃に見た豚を主人公にした映画の気持ちのそれと同じだった。


 裏門に向かうと、とても不気味だった。何が、とかじゃなく空気が。

 正門は車が行きかっている道路に出るが、西裏門は住宅街の小さな道に出る。

 住宅地を抜けるて少し行けば川が見える。川沿いを走りながら、私は帰る道を考えていた。


 河川をゆっくりと流れる鳥と鯉。そこに車が落ち、家には車が突っ込み、高速道路から落ちてきたらしい車はへちゃげていた。

 河川とクロスする高速道路の下を潜り、突き進む。いつと同じ帰り道を行くが、まったく様子が違った。玉突き事故なんてものじゃない。数珠繋ぎのように衝突している。黒い煙を出して炎上しているのは二台あった。衝突物の間から何度も見たくないものを見てしまった。海の中に静かに住む珊瑚のように亡骸はいた。飼い主を喪った犬はどうしていいのかわからないような顔で周りを見ていた。毛には飼い主のものと思われる血がついていた。


 信号機はいつもどおり動いていたが、自動車はいつもと違った。

 いつも渡る信号の近くには車屋がある。もう、無法地帯なのだからいいのではないかと思いながらも諦めた。無法地帯だからと言って私はそんな事をする性格ではない。それに、乗る事は不可能ではないが、操れずに事故になってはどうもこうもない。それよりか道路が通れる場所が少なかった。遺体を踏むとなればまだ場所はあったが、気持ちがいいのもではない。


 コンビニの前を通り過ぎ、いつもは行かない環状線と高速を繋ぐバイパスを行くと、道路の両側にある車関係の工場からは機械が動き続ける音がした。

 大きなスーパーと反対側にある小学校は静まり返り、運転手を喪った車がグラウンドを走っていた。

 自転車を漕ぎながらいくつもの思い浮かぶ可能性を消していった。


 これはテロなのだろうか? この世界は夢なのだろうか? 何が起こったのだろうか?


 畑と小さな工場が重なる景色を横目にガソリンスタンドまで自転車を走らせていく。車はほとんどが雑草の生えた畑に落ちたり、工場に入り込み煙を上げたりしていた。ガソリンスタンド前の信号機も通常通り仕事をしている。


 私は意識をほとんど思考回路に向けていたが次の瞬間現実に引き戻された。胃がギュッと縮こまってしまう。

 警察。別に悪い事をしたわけでもないが、そういう気分になってしまう。警察の前で自転車を立ち漕ぎすると追いかけられるという話を聞いた所為かもしれない。私の中の警察のイメージは良くも悪くもなく、本当のいざという時にあまりいいようになっていっていないイメージがある。比較が外国だからなのかもしれない。死は警察官も例外ではなかった。バイクは横転し、少し後ろの方に倒れていた。 


 嫌な汗と共に浮かんだ考えが、一つの行動に繋がる。

 私の馬鹿らしい考えが当たってるならバイオテロを巻き起こしたテロリストが今にも残った人々を殺しにかかるだろう。

 いや、もしかしたらエイリアンか人智を超えた何かが、地球人を観察するために擬似地球を作って今まで生活させていた。あるいは最初から人類にはこういうリミットがあった。あるいは死んだ人々は別の世界に意識を飛ばしてる、それが本来あるべき姿で私たちが死んだ状態なのかも。

 日常で私の馬鹿な予想が当たる確立はかなり低い。だけど、もう日常とは呼べなくなった今に何が起こるかわからない。貧困と飢えが待っているなら、無法地帯と化して略奪やら強盗が起こるだろう。

 だとしたら、正当防衛をしてもいいのではないか? 


 自転車を止め、警察官に近付いた。


「……絶対に、悪いようにはしませんから……」


 何があるかわからない未来さき。万が一の護身用として、少なくとも必要とする。

 しかし、こういう時に武器を手にとった瞬間にもどこかで誰かが同じような事をし、徐々に殺し合いの戦場に入り込んでいく映画を思い出した。

 だからって、今私が拳銃を手に取らなくても別の武器を手に取るはず。たとえば、鋏やナイフ、金槌や鋸。鍬だっていい。


 手にするか、せざるべきか。銃刀法も何も構っていられない。動物園から肉食動物が逃げ出してたら困るなんてもんじゃない。そんな事はありえないと思うけど。

 実は死んでいなくて、手を掴まれたらどうしようか、とホラーアクション映画を思い出していた。


「本当に……ホントにごめんなさい」


 何に言っているのか、何の事で言っているのかわからない。

 恐怖心と共に、拳銃が入っているホルスターごとベルトを取る。警棒や手帳やらが入った小さなバッグがついていたが、それらは全部取り外した。そして、銃についているゴムのように伸び縮みする紐のようなものを引きちぎった。


 普段なら目を輝かせているところだが、心情的に無理だった。今すぐにでも捨ててしまいたいだけど、心のどこかが持っておけって言ってる。

 ベルトの端と端を持つと、ブレザーで見えない辺りにずり落ちない程度の加減で締めて巻いた。拳銃を手に取った。本物の重みと無機質な冷たさを感じる。スライドを動かさないように気をつけながら、どうにか弾倉を本体から外した。安全装置の位置はわかっていた、それでも解除されて暴発でもしたら困るため弾倉を外しておいた。弾倉をブレザーの内ポケットに入れ、本体はホルスターに戻した。


 恐怖を纏い、私は武器を持ち去った。


 古い住宅街と新しい住宅街が隣接し、近くには池、その向かいには小学校。小学校前の池に差し掛かる前に右に曲がった。交通量が多くて、狭い学校前の車道を避け、いつもいく裏道へと戻っていく。池があり、小さな公園と小さな神社もある。細いがどこよりも人通りが少ない。十数年前に廃園となっている保育園の前を通り過ぎ、ポツリとある運送会社の倉庫あたりだった。


 ずっと前の方に動くものが見えた。


 動いてる……?


 高校からここまで何人かは生存者を見たが、今視界に入っているのは顔見知りだった。

 すれ違う直前にブレーキをかけた。高い大きな音が響かせながら止まると、私は後ろに向いた。胃がひっくり返りそうだった。


「……生きてる」


 向こうも同じように止まっていた。


「生きてちゃ悪いかよ」


 嫌味っぽく言う元幼馴染に私は嬉しさが込みあがってきた。悪くない。悪くない。むしろ生きてて嬉しい。

 やっと本当の仲間に会えたような安堵に包まれ、涙腺が少し緩むのと同時に全身の力が抜け、自転車が倒れた。相手はどうしていいのかわからず、自分の自転車を止めると私の自転車を起こした。自転車の所有者をどうしたものかと頬をかき、迷いながらも私を立たせた。


「何があった……って言ってもなぁ。このザマじゃ一目瞭然か……」


 自転車を受け取ると自分でも驚くほどか細い声で言った。


「……声と一緒に、死んだ」


「あの声、お前も聞こえたのか?」


 私は小さくうなずくと、やっとこさっとこ思考を動かせた。脳はガチガチに固まってほとんど何も理解していなかった。

 生きている者は全員、あの声を聞いてるのかもしれない。とたんに何か黒いもやのようなものに閉じ込められそうな不安に押しつぶされた。


「あ、あの家に帰りたいから、じゃあ……」


 私は自転車に乗ると急いでその場を離れた。

 破裂しそうな心臓が悲鳴を上げ、胃は引っくり返ったままだった。






「ただいま……」


 声が返ってくる事を期待していたが、返ってこなかった。

 少なくとも、玄関が開いているから誰かいる。そして、一度も家族と「声」の話をしていない。死んでいる可能性が高い。


 第一候補として、祖母。ほとんど家にいるからだ。

 靴を脱ぎ、リュックを投げると、台所に向かった。そこにはいなかったが、和室の仏壇の前で倒れていた。

 悲しみはわいてきたが、涙は流れなかった。寿命で亡くなっていたら別れが辛いがすがすがしい気持ちになっていたかもしれない。けど、今はその気持ちはない。

 それよりも、蝋燭と線香共々倒れていなくてよかったと私は思っていた。倒れていれば火事になっていたかもしれない。

 私はなんて無慈悲なんだろう。




 四月上旬、私が高校に行かなくなったころから家族は壊れた。

 原因は私だ。高校の特徴に嫌悪するような感情からそうなったのかもしれない。

 私は自分の部屋で一人本を読み続け、所謂引きこもりになった。

 因果関係はわからないが、母は祖母に冷たくなった。それによって、祖母はよく仏壇の前で泣くようになり、罪悪感を感じた私は部屋に閉じこもった。悪循環。祖父が一番普通だったが。


 引きこもりだからといってまったく家族に会わなかったわけでもなかった。

 トイレやシャワー、食事時には家族と顔を合わせる事があり、その時は思考以外は今までと何も変わらずといった雰囲気を作っていた。

 何も知らないフリ、本を読み続けて周りの冷たさが見えないフリ、鈍感を装い話の本心に気付かないフリ。思考以外を偽った。本心を表に出す事はなくなった。


 以後、人前で泣く事はなくなった。今はもう自己への涙は流れる事がなくなった。まるで感情が冷え切った感じに。

 子供が一番よく気持ちや雰囲気を感じるとはこの事だろうと、思い続けた時間でもあった。


 しかし、二学期から高校に行くようになり、少しずつ周りは元に戻ったが、私の溜まった感情はどうにもならない怒りとして現れた。

 今まで以上にキツい言葉を使った。それでも世間一般よりまだマシな言葉。誰に対しても「死ね」などとは言ってないが、語尾はかなりキツい言い方だったに違いない。普段、口に出さない言葉であるが、感情任せについ口走っていた。私の二面性かもしれない。

 成長の過程として言葉遣いが荒くなる事はよくある事だが、自分自身それらの言葉を使うのに違和感を感じていた。まるで女の子なのに「俺」って言う子を見るように。


 家族内の傷は癒される事なく、見えないテープで繋ぎ合わされただけだった。私は思っていた、いつか誰かが押しつぶされるのではないかと。

 だけど、壊れていたのは私の心もだった。明確にそれが何かはわからない。だけど、人間として大事な部分だろう。

 

 それが何かは思い出せない。




 押入れから客用の布団を出すと、祖母を綺麗に寝かせて上から布団をかぶせた。死後硬直というのはまったくわからなかった。


 私は和室を出て戸を閉め、どうしようかと考えた。

 とりあえず、嫌いな制服を脱ぐ事にした。スカートとブレザーを脱ぎ、銃を携帯しているベルトを慎重に外すと、帽子掛けにかけた。体操ズボンとブラウスだけになった。


 情報収集でもしようかとパソコンの電源をつけ起動させ、デスクトップが現れるまでの間、知り合いに電話を掛ける事にした。知り合いと言っても表兄弟ぐらいしか今は気にかけれないし、電話番号を知っているのはそこぐらいだ。

 父方の祖父母は一方的な仲違いであまり気にならない。


 受話器を上げ、数字の書かれたボタンを押す。期待はほとんどしていない。虚しく呼び出し音が響く。何度も。受話器を肩と耳の間に挿み、手の絆創膏を剥がした。傷は綺麗に塞がれ、一箇所は白っぽくなっている。ブレザーのポケットから携帯電話を出し、画面を見ると三通のメールが来ていた。受信ボックスを開けた。

 虚しく響く音が続く電話を切ろうかと思い、耳から受話器を離した瞬間呼び出し音が止まった。

 それと同時に一通目のメールを開いた。


「もしもし……?」


 私は恐る恐る声を出した。

 向こう側から小さな声とも取れない声が聞こえた。


[ァァ……マァ……ママァァァ……アァ……!]


 嗚咽している声。携帯電話を落とすように置くと受話器を耳に押し付けた。


ゆい?」


[マァマァァァア!]


 確かに三兄妹の一番下の声だった。


「結? 結? つぐみやけど!」


 受話器に向かって声を張り上げる。


[つぅちゃん……、ママはぁあァぁぁ!]


 結の母――私から見れば叔母――はみんなと同じように死んだのだろう。結はそれを見ていたに違いない。母性本能だろうか、迎えに行かなければならないと思った。


「絶対! 絶対、行くから待ってて!」


 返事も聞かず、受話器を戻す。


 メールを見ながら、投げ捨てたリュックを引っくり返した。学校の荷物を吐き出させた。


[送信者:本田美穂ほんだ みほ 本文:いきてる? 生きてるなら、電話ちょうだい]


 必要最低限しか書かれていなかった。しかし、同じ高校に通い、集会ホールでも会わなかったから嬉しかった。

 約九ヶ月前に終わった中学時代にいつも一緒にいた親友といってもいいぐらいの友達。性格は濱本さんと似ていたが、私が彼女に合わせてるようで透明な溝があるような気がしたし、彼女につるむ仲間がいなかったから私を選んだような感じだったが、別に気にはしなかった。

 他のメール二通も似たようなものだった。

 本田美穂、長岐晴美ながき はるみ野口洋一のぐち よういち……少なくとも小学校の同級生は生きてる確立が高い。


 アドレス帳の「ほ」のページから本田美穂を選び、電話番号を決定した。


 車で三十分……、自転車は道が別だから、日が暮れるかも。車じゃ、踏む事になるし、免許はどうでもいいとして歳がなぁ。


 呼び出し音が一回鳴り終わる前に脳内会議を終わらせると、呼び出し音が二回目に入ろうとしたとこで出た。

 スピーカーホンに切り替えると机に置いた。


「美穂? 早速で悪いけど、バイク乗れる?」


 まだ十六歳未満である私は法律上乗れないが、夏に十六歳になった美穂なら乗れる。どちらも免許証は持っていないが、律儀に十五歳の私は乗りたくない。美穂なら少なくとも乗れる。

 リビングにある自分専用の棚から財布を取り出す。


[ムリ。乗っちゃえば?]


 免許証は形というだけだし、現に無免許も多いためそこはあまり気にしなかった。だけど、エンジンのかけ方すら知らない。

 美穂とは同じ高校だが、科が違うためにあまり話さなくなった。

 密かな秘密主義である私は不登校になった事を言っていない。プライドのためかもしれない。だた、少し辞めるか悩んだとしか言っていなかった。

 その事もあり、同じ中学出身で農芸高校に行っていたのは全員で五人、美穂は一度私だけ見かけない、と言っていた。

 私には、高校に入ってから少し周りに流されたようになっていた美穂を見たが、話せばあまり変わりないと思わせた。

 リュックに詰めるものを脳の片隅で考えた。旅行じゃない、サバイバルとして何を持っていく?


「じゃあ……千早赤阪村行くから必要なら言うといて」


 鼻をすする音が聞こえた。泣いてる?

 パソコンの前に滑り込むように座り、インターネットを開いてリアルタイムのニュースを見た。しかし、何も動いておらず、ここだけは日常と変わりなかった。

 それが奇妙で一瞬震えを感じた。奇妙な感覚を消すようにパソコンの主電源をパチンと切った。


[……何で?]


「いとこ。いとこが生きてる……」


 ダイニングにある木製のテーブルカートから錆ついたモンキレンチとライターをとる。その隣の食器棚の引き出しからケースに入った果物ナイフをとって、それらをリュックの底に押し込む。


(       )


[そっか、じゃあなぁ……帰ってきたら中学校に来て、何人か……生きてるから……]


「うん……」


 何か記憶が引っ張られるような感覚が割り込み、半分ほど聞いていなかった。


 電話が切れると、固定電話を置いている白い棚からデジカメをとって、リュックにつめた。

 二階に駆け上がると、服と家族の写真と懐中時計を手にとった。リビングに戻ると服を投げ捨て、持っていた写真と時計をテーブルに置いた。

 他にも棚や引き出しから引っ張り出し、必要な物をリュックの中に投げ入れた。

 階段に置かれていた洗濯物の山からタオルを引っ張り出し、玄関マットに投げ置く。


 私は乱暴にブラウスを脱ぎ捨て、持ってきたいつもの服を着る。アーミー柄のズボンのポケットに携帯電話を滑り込ませ、もう一つのポケットに懐中時計をしまった。

 キャスケットを被るとリュックからノートを出し、一枚紙を引きちぎり、ノートをリュックに戻した。

 ペンで大きく「千早赤阪村付近にいます」と書いた。


 クローゼットの下に裁縫箱と共に置かれている救急箱をリュックに入れようとしたが、順番が悪い事に気づいた。リュックから入れた荷物を渋々出すと、底に救急箱を入れて出した物をその上に入れた。玄関マットに投げ捨てたタオルを一番上に詰め込んだ。

 拳銃をつけたベルトを腰に巻き、太ももぐらいまでの長さのロングコートを着た。これで隠せるはずだ。

 私は弾倉を忘れていた事に気付き、投げ捨てたブレザーの内ポケットから取り出し、拳銃が備えられているのと反対側のコートのポケットに入れた。


 ふいに自分があまりに冷静すぎる事に気づいた。美穂もそうだ。あまりに突拍子もない事に心がついていけないから、周りを知ろうとしないでただ自分のする事しか見ていないのだろう。


 私は苦笑し、リュックを背負った。幼い時に撮った家族写真をリュックのポケットに突っ込んだ。

 そこで母と祖父の事に気づいたが、これ以上は平静でいられないとわかっていたから連絡はしなかった。

 玄関を出て、ドアに目的地を書いた紙を挟んだ。


 地肌が出ている顔や手には冷たい風が刺さる。急いで出来る限りの準備をしていた私の体温は少し熱かったが、外の空気はそれでも冷たく感じさせた。

 隣の家に行き、玄関を潜り抜けた。フルフェイスヘルメットを持ち、鍵掛から鍵を全部持ち去ると裏に回った。


「おっちゃん、借ります」


 目的は隣のおじさんの愛用しているバイク。

 週に何度かバイクのいじっているのを見かけるが、走っているところはあまり見なかった。

 愛想のいい関西のおじさんのようで、おじさんが嫌いな私でもどことなく親近感を持てる人だった。

 バイクを覆っている灰色のビニールシートを外すと、持ってきた鍵を順番に鍵穴に差した。四つ目の鍵が合った。

 車体は全体的にずっしりしてて、ワインレッドをメインとした色。ハーレーのようでエンジン部を覆うカバーがない。

 帽子をリュックの横のチャックから中に詰め、車体の後方に備え付けてある革の鞄のようなものに突っ込む。


 私は鍵と一緒に拝借したヘルメットを被った。暑くて狭くて、自分の呼吸する音が聞こえた。

 道路の真ん中にバイクを押していく。いつか読んだ本と農業用機械についての担任の説明を思い出す。バイクに跨り、スタンドを跳ね上げた。クラッチに指を巻きつけた。


「クラッチ。ブレーキ……スロットル、ギア」


 単語の意味をわからずつぶやく。目を瞑って、体で考えようとする。

 足もとのペダルに足を乗せ、力任せに踏み込んだ。短く雑音がした。バイクが揺れ、倒れそうになるのを足で踏ん張った。

 胃が捩れ始めた。想像力豊かな脳がこの先起きる惨劇を予想していく。


 もう一度、恐怖を振り払って、ペダルを踏み込むが同じような音がして終わった。五度目でエンジンがかかったいつも聞くような唸り声を上げている。バイクのどこに惚れるかと訊かれたら私はエンジン音と答えるだろう。

 スロットルを少し回転させると、獣のような雄叫びを上げた。私は無意識に笑みを浮かべた。クラッチをゆっくり緩めた。ぐいっと何かに捕まれたように押し出された。


「最高」


 初めて味わった感覚にヘルメットを取り外したい。

 家の裏の一直線の道路はほとんど人がおらず、安全よりも逆に危ないように見える。

 スロットルを試し、スピードを変えながらゆっくり走っていると、目の前に犬が現れた。


 ブレーキをまだ試していなかった私はパニックでハンドルを切った。

 切りすぎた所為か、突然の事にバランスを崩した所為か、車体は横滑りをしながら道路を進み、犬の隣を横切り、三メートル後ろで止まった。

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