十二月二十四日 金曜日 午前九時三十三分 始まった異常
どうして。残った。残ったのは、声を聞いた人。じゃあ、あ――
金属と金属が衝突する音がし、金属が硬い石にぶつかる音がし、校庭にトラックが入ってきた。ぶつけたような跡がいくつか見られた。
他にも自動車が入ってこようとしたが、生け垣を崩して停止した。
トラックは校庭を横切り、校舎に衝突して停止した。
学校の外からは衝突する音、車の防犯ブザーに信号機が倒れる音、ガラスが砕ける音。混乱の音が聞こえてきた。
私は立ち上がると周りと自分の手を見た。
少なくとも両手で四つは絆創膏を張っていた。絆創膏のガーゼには血が滲み出ているものもあったが、手に跳ねた他者の血がそれを隠していた。
あの声は……。人は? 声は? 学校だけじゃない……。死? 血? ……死? ……血……血……死。
手についた血を見ていると、血は生物のようにピクピク動いた。目を逸らせば、皮膚により一層その感触が伝わってくる。
何かが視界を縦に割った。上から下に何かが落ちた。驚きで足が少し動いた。
次から次へと何かが落ちてきた。空を見上げると鳥だった。カラスにスズメ、ハトや名前はわからないがよく見る鳥たち。ほんの数羽だけまだ飛び続けていた。
『……感謝するわ。……とっても綺麗……。血も魂も……』
心の中に氷を作る声と共に血が動いた。
一定の方向にすべてのものの表面を滑るように流れていく。校舎の北側。川があり、高速道路があり、私の自宅がある方向へ。
大きな川の水流のように次から次へと血が流れていく。
「きゃあぁああぁぁああああぁぁぁぁあ!」
誰かの叫び声と共に水の音が聞こえてくる。体育館の中が真っ赤だった。体育館を覆いつくすほどの多さ。しかし、体育館が壊れる音はしない。
渦巻き、うねり、複雑に蠢く光景はいくつもの龍が重なり絡み合っているように錯覚した。
私はその光景をだた見ていた。逃げようと思ったが逃げれない。
一瞬にして波に呑まれたが、すぐにすり抜けるように血の波から出て来た。出て来たと表現するより、波が通り過ぎた。
においも何もしない。目の前の現実に追いつけない所為かもしれない。濡れる感覚もなかった。重たい風が駆け抜けたようだった。
通り過ぎた波に目を向けると津波のようだった。数十メートル、数百メートル……校舎の避雷針を優に超え、通天閣、東京タワーも優に超えそうな大きな波。晴れた青い空とのコントラストが異常さを浮き彫りにした。
大量の血液の固まりの後には尻尾のように少し血が流れていた。
数十秒で血はなくなり。亡骸だけが残った。
全部、あの声が……あの声が関係しているんだ。異常すぎる……。
死を見たのは三度目だった。私の記憶にないものも入れれば、四度。
最初は父。一歳にも満たないころだったため、記憶がない。気がつけばそうだった。そのために、生活環境に男がいないために嫌いなのかもしれない。
二度目は、小学一年前後だった。小学三年生の時まで住んでいた家の近所の友達のお祖父さん。六歳ほど歳の離れた姉妹のお祖父さんだった。祖父母同士が親しい仲だったため通夜に行った。遺体を初めてみたのはその時だった。まだ生きているように安らかだったのを憶えている。
三度目は、家の隣のお爺さん。その時は小学二年だったためわかっていた。いろんな物をくれたし、いろいろな事を教えてくれた。懐かしい思い出が蘇り、お葬式では泣いた。その時は遺体は見なかった。
四度目、周りには無数の遺体。あの時とは違う。無造作に投げられたように転がっていた。
つい先ほどまで、一緒にしゃべっていた女子高生。濱本夏子もだ。
( )
「……ぁあ……」
言葉にならなかった。
見開いたまま焦点の合っていない目、不自然に曲がった腕、動く事のない胸。
私は濱本さんの手首をつかみ、指を当て、脈を確認したがなかった。
短い間だったけれど…楽しかったよ。一学期にも行っておけば良かった。……嬉しかった。でも、行ってても同じように仲良くなった……かな?
「……ありがとぅ……」
瞼を閉じる。眠っているような顔。いつも笑顔だった姿が思い出された。
ふと腕に見慣れない傷が見えた。太陽の光によって見える角度と見えない角度がある。
小さく、細く、そして深く切られている。血が滲み出る事はないが、深く切られていた。
私は濱本さんの腕を持ち上げて見ると、肘辺りを一周する形で切れていた。
それほど気にかける事でもなさそうだが、一応憶えておく事にした。すぐに忘れてしまいそうだが。
濱本さんから離れ、近くの同級生の瞼を閉じる。周りで倒れている生徒に次から次へと私がそうしていくと、他の生徒がそれに倣ってか同じように瞼を閉じていった。体育館の中でも同じ事が行われ、倒れている生徒の多さに愕然とした。
数分後、震えた声の校内放送が流れ、生徒は帰らず、集会ホールに集まるように言われた。
私は永岡さんと一緒に集会ホールに向かう事にした。
中棟三階、音楽室の奥にある集会ホールは、一学年二百人ほどが入れる多目的室のような場所で、講義室のように机と椅子が設置されている。
集まった生徒は数十人で、一人の教師が集まった生徒の名前を前方のホワイトボードに書いていた。書かれた生徒はする事もなさそうで集会ホールを出て行ったり、残ったりしていた。中には泣いてる生徒もいる。
災害時には随えば助かるって聞くけど、この場合はどうしたらいいかわからない。
これが夢でない事はわかった。誰かが明確に死ぬ夢はなかったし、血のにおいも夢では嗅いだ事はない。
私は名前を書かれた後、永岡さんにこれからどうするかを訊いた。永岡さんは残ると言った。
纏まっていない暗い雰囲気の生徒たちを見て、ここに留まっていても、と私は思った。
あれがもう一度起きてもここでは死にたくない。こんなところに留まってて死んだら死に切れない。
だけど、永岡さんを残してはおけない。私の中の何かがそう言ってる。これがバイオハザードでそれを起こしたテロ組織が今にも乗り込んできて、ここが戦場になるなら確実にここにいたほうがいい。いや、ある意味逃げなければならないけど。
これ以上何も起きないなら、ここにはいたくない。何よりこの事態は記さなければならないと思った。どうしてかはわからないけど。
「家に帰るから……何かあったら電話ちょうだい」
いつもの微笑みを顔に貼り付けた永岡さんを残して私は集会ホールを出た。ここに残れ、という声と自分の考えたようにしろ、という声が鬩ぎ合っている。どうせなら私を二人に分けてほしい。
上履き用のスリッパでは走りにくく、スリッパと靴下を脱いで裸足で走った。集会ホールから教室まではUターンのような形で帰らなければならないため疲れてしまうと思ったが、その疲労に気をとられる事なく自分でも信じられない速さで走っていた。
集会だったが、鍵の開いたままの教室に入り、自分の机に駆け寄った。
キスリングに似た通学用のリュックに自分の机の中のものをすべて詰めた。終業式だっため荷物は軽く楽だった。リュックを背負い、携帯電話で家にかけたが、誰も出なかった。
する事はそう……家族の安否を。
この時すでに私は死神に目をつけられ、不気味な手で背中を押されていたに違いない。