十二月二十四日 金曜日 午前九時十分 終わりの起点
朝から機嫌が悪かった。終業式だという事を除いて。いや、休日をあけた二十四日に終業式のためだけに学校に行く事すら、機嫌が悪くなる原因の一つ。
毎度思うほどだった。これも機嫌を左右する要素だ。
しかし、一番の原因は、あの「声」だ。
ここ最近朝起きるのが辛くて機嫌が悪い事はよくあるが、昨日はあの「声」が響き、寝付けなかった所為である。一時的に頭がぶっ飛んだと考えたりもしたが。
恐怖よりも眠気が少し勝っていたが、眠るまでには至らなく、一睡もしないまま登校時間となっていた。
朝から教室でも、「声」を聞いた生徒を中心にあの「声」の話が行われていた。私はその輪に入りたくはないが。夜中の声を聞いたのは昨日と同じメンバーだった。
さすがに耳に挟むうちに昨日の夜の恐怖が蘇り、身を震わせた。その恐怖もすぐに嫌悪に変わった。一時限目から大掃除だ。
担任が分担を決め、それぞれの分担場所に分かれていく。
私は音楽室の掃除だったが、音楽室を一度も使った事がない。音楽の授業は美術と合わさって、芸術となり、どちらかを選べる選択授業になっている。私の場合、絵を描くのが大好きなため美術に即決した。
音楽室は中棟の三階にあり、薄暗い。掃除と言っても箒で掃いて、黒板を綺麗にするといった簡単な作業。教室掃除のように机と椅子の足の埃をとる事もない。それ以前に、屈む事がない、塵取り以外では。
担当の教員もサッパリしすぎており、キッチリする事がない。それよりも親父ギャグを連発する始末で、掃除がはかどっていない。
五分足らずで終わる掃除。教室に帰っても手伝わされるのが目に見えているのか、何人かはのっそのっそと、廊下を歩きながら帰っていた。
私はというと、あまり外に出たくない上に人目が怖い、上下関係のある先輩に出会うのが一番怖かったために早歩きで教室に帰っていく。
中棟の二階に下り、1Z2の教室がある棟に向かって歩く。その棟は付け足されたような棟で南棟と中棟の少し出た間にある。
「佐野さん」
ポンと肩を叩かれ、振り返ってみると永岡さんがいた。軽い癖っ毛をポニーテールに纏めている。お嬢様のような雰囲気があるが、どこか弱弱しく見えた。
私が小さく会釈をし、「あ、ども」と言うと、永岡さんも「どうも」と返してくる。いつの間にか私が定着させたものだった。
「佐野さんって声聞こえた?」
お嬢様然とした永岡さんは歪んだものの類が少し好きなところがあるのを思い出して、発言を思いとどめたが、やっぱり言う事にした。
「まあ、ちょっとは……」
ちょっとも多くもないと思いながらも控え目に言った。
「どう思う?」
ため息をつきたくなったが、ため息を抑え、曖昧に「んー、まあ、気味悪い」と答えた。
1-2の教室に戻ると、まだ掃除中だった。机を全部前方に寄せて、後方を箒で掃いていた。
廊下で待つのには寒い時期で、去年の今頃より寒い。
教室前の廊下からは、向かい側にある図書館が見える。この図書館は校舎とは別に建てられていて渡り廊下のようなもので繋がっている。図書館は動科職員室がある北棟が一番近く、1-2の教室がある棟との間には何代目かの校長が寄付した日本庭園のようなものがある。
ボーっと窓の外から、農芸高校七十七不思議の舞台の一つであるその庭園を眺めていた。金木犀と枯れかけのメタセコイア。上のない四本足の灯籠と木の間に埋もれている一本足の灯籠は、場所を適当に選んで置かれているように見える。趣はまったくない。
教室に入り、自分の席に着いた時には掃除は完全に終わっていたが、空中に埃が漂っていた。
私は埃っぽさから肺を護るため、自分のリュックに顔を埋めていたが、「おーい、佐野さーん」と聞こえ顔を上げた。前の席の濱本さんが体育館シューズを持ちながら、手を振っていた。セミロングに一重の目、可愛らしい笑顔で。
「体育館行かんの?」
グチャグチャになった前髪を撫でつけ、机の横にかけていた体育館シューズをとると、席を立った。
「あ、行きます」
前方の席の永岡さんも待っていた。
廊下に出て、1-1と2年園科の教室の前を通り過ぎ、階段を下りる。一階の階段付近では一年の園科(ハイテク園芸科の略)と食科(食品生産化の略)が合流するために人だかりが出来ていた。
私はなるべく前の人の肩か頭を見て、周りを見ないようにしていた。人酔いしないための私にとっての一番の方法だった。
体育館は大抵の学校と同じように離れた場所にある。農芸にはさらにその奥に道場のような場所があり、剣道部と少林寺拳法部が使っている。壁と床の隙間が開いている古い体育館とは比べ物にならないくらい綺麗でしっかりした建物である。
たぶん水科(水産経済科の略)はもう来ているのだろう。校舎が全く違う場所にあるから、同級生という感覚はまったくない。別の学校にしてしまえばいいのに……。ここまで来るのは、ホント遠路遥々ご苦労だと思う。
「終業式の話しメッチャ長いよなぁ」
他愛もない話をしながら、体育館へと足を進めていた。
体育館と南棟っを繋ぐ渡り廊下に出ると肌寒い風が髪をなびかせた。だけど、肌を刺す冷たい髪もあの「声」の冷たさには負けていた。
突然、私の足に何かに引っかかった。
何も支えがないまま体が前に倒れていく。いつもより倒れる速度が遅いためか手が前に出た。
小学校の時、私はよく転んでいた。何度も何度も同じ箇所を擦りむいている所為で、その傷痕は脹らんだようになっている。友達からはロブスターと言われ、転けて怪我して脹らむ事を「ロブる」なんて造語したぐらいだった。
前に誰もいなかったのが幸いで、誰も巻き添えにする事がなかったのが私にとって唯一の救いだった。転んで笑われるなんてどうだっていい事だ。
膝がコンクリートの地面に衝突し、金槌で殴られたような重い痛みに続き、両手にも同じ重たい衝撃が走った。
走っていなかったために滑り込むように倒れなかった。顔をすぐに上げた。
頬に何かついた。
……水?
違う。目の前の光景を見て悟った。
地獄。紅蓮地獄。ただ違うのは、酷く寒くない事だけ。
血色の蓮の花が咲いている。日常的ではないにおいと共に。
「う、そ……うそ……」
隣にいた濱本さんも、ずっと前の方にいた同級生も全身が血塗れだった。
どこかの警察沙汰の暴力事件でも殺傷事件でも流れる事が不可能な出血量。
雑巾を絞ったように出た血。斬られているわけでもない、殴られたのでもない。血は染み出るように出ている。一つ一つの毛穴から漉されたように。
全部。全員。同級生も教員も。声を聞いた人を残して。
背後からは現実を受け入れられない同級生の声が聞こえた。
「これって……」
隣から永岡さんの声がした。
自分でも信じられない。でも、目の前の光景、頬についた血、嗅いだ事のないほど強烈なにおいが真実を語っていた。