十二月二十四日 金曜日 午後六時三十九分 何も知らない事柄
いろいろな事が頭の中でスパークする。自分でも長い事口を閉じていた気がする。でも、沈黙を苦しく感じなかった。
「ある」バーコウィッツがつぶやいた。
私は心臓が鷲掴みにされた気がして息が出来なかった。
「その少年がそう答えた」バーコウィッツは矢坂を指差した。
對崎は二度見でもするかのようにバーコウィッツを見てから、年長の男に捕らえられている矢坂に視線を移した。
矢坂はうつむいてる。何かに耐えるかのように。隣の上別府が気遣わしげに見た。
私の頭の中でバーコウィッツの言葉が何度も反芻していた。
あえてそんな質問を言ったのは何らかの心理的な攻撃にだった違いない。ポテトに噛まれた事は知るよしもない。はなからそんなのを知りたかったわけじゃなかった。ウイルスを意図的に入れられるわけがない。狂狼人なんて全く知らない事なのだから。感染方法は動物からしかない。狂狼人からは人狼になってしまう。私が半分でも狂狼人になっているなら、動物から感染しているのは確実なはずだ。動物に噛まれた事なんて聞く必要なんてなかった。だとしたら、別の目的があった。私を名指ししたが、對崎の言葉に、自分自身を当てはめさせようとしたとしたら? 他に噛まれた人がいるのを見極めるために。
パッと思い出す。ポテトの飼い主は矢坂の妹。でも、「ブラッディアウト」で死んでしまったはずだ。あいつが妹を置いてくるなんてありえない。もう一度スパークを起こす。對崎たちは「ブラッディアウト」を起こした。自分たちの狂狼人を探していた。探すために「ブラッディアウト」を起こしたのだとしたら? 「ブラッディアウト」はある種の選別だとしたら?
對崎の攻撃は意外なほうに転がってしまった。今は悪い事かいい事かわからない。でも、矢坂が……そう、罪悪感を感じている。私がポテトに噛まれた事を知ってるのは矢坂だけ。あの時の事を自分の不注意だったと、矢坂は負わなくてもいい責任感を負っているに違いない。それに私の考えるところでは矢坂はポテトに噛まれてる。もしかしたら、妹の愛琳ちゃんも噛まれてるかもしれない。あの時私が噛まれたなら、後でもその前でも噛まれてて可笑しくない。
骨の髄から震えが来る。「ブラッディアウト」が選別だとしたら、愛琳ちゃんは噛まれてないけど、矢坂は噛まれてる……?
「矢坂君がどうして佐野ちゃんが噛まれた事を知ってるかわ知らないけど……。君たち二人はとても可笑しな絆を持ってるねえ」
私は叫びだしそうだった。矢坂を見る事が出来なかった。頭の中は絶望がほとんど埋め尽くしていた。鉛の足かせをつけて海に投げ捨てられたようだった。息が吸えなくなり、喉が詰まったように何も出来なくなる。
對崎は私の背後に回り込み、一片の肉塊を拾い上げた。ちょうど焼きあがったローストビーフの美味しそうなにおいを堪能するかのように鼻を近づけ、大きく空気を吸い込んだ。まるで素晴らしい出来栄えに感嘆のため息を漏らすかのように、息をハァー…と吐いた。
結を迎えに行った時私たち二人で行動してたのを對崎は知ってる。だけど、あれは咲羅の差し金だ。偶然でもなんでもない。これ以上矢坂の心が読まれない事を願うしかなかった。ポテトが媒体だと對崎が知ったら、他にも感染者がいると見て何かしらするはず。酷い事を、たとえば狂狼人にするとか……。
「誰にも手を出さないで」
我ながら馬鹿みたいな言葉だと思った。私は永岡さんを手にかけた。一度死んでしまったはずなのに、蘇ったとたん私が殺した。その蘇りがいいものなのか悪いものなのかわからない。人狼として自我をなくし、自分じゃないまま生き返った。だけど、何にしても私は彼女を殺した。言葉は自分にも言い聞かせたつもり。自分の中の狂狼人に。
「ああ、出さないとしよう」
對崎は素直にそう言うが、私の中の狂狼人は絶対に答えそうにない。だけど、安心して気が抜けそうなのを我慢した。抜け道がいくつもある。何かあったら對崎はそれを利用してくるはず。
對崎の顔には私の知らない感情が表れていた。とても不思議だ。関心もしてるし、驚愕もしてる。
「俺たち狂狼人は、この世界がまだ知らない狂犬病ウイルスの近縁種を体内に宿している。佐野ちゃんもだよ」
私を絶望に追い込んでるのがたまらなく嬉しいといった声色だった。對崎の声色よりも言葉に恐怖を感じた。自分がそれを持っているのはわかってたはず、だけど決定的にされた。たったあの一回が、私を狂狼人としての条件を一つ満たしてしまった。それも重要な条件だったかもしれない。
「検査すれば、狂犬病ウイルスで出てくる。動物には狂犬病の症状が出るからね。ただ俺たちは、発症しているかと聞かれれば、発症していると答えるし、潜伏期間だと聞かれれば、まだ潜伏期間だと答える。狂犬病患者であり、保菌者だ」
やっぱり、あの質問は攻撃だった。そのウイルスがないと狂狼人になれないのなら、私はもうそれを持っているのだから。噛まれたのはどうだってよかった。他に誰かが噛まれていたのを知るためだったに違いない。狂犬病ウイルス。いや、狂狼病ウイルスとでも言おうか……それに私は感染している。ポテトから感染したんだ。恐らく矢坂も……。
バーコウィッツはそれを先に読んでいた。私を貶めようとして。
どうやって感染するのだろう? 動物が感染経路だろうが、それだけじゃない。狂狼人からは感染しない。人狼を作り出すから。それに普通の狂犬病じゃない。それがそこらにあるとは思えない。それに普通の狂犬病だとしても、感染者は日本国内じゃそういない。だったらどういう事?
「感染して、条件を満たせば、狂狼人になるんですね。ウイルスが狂狼人を作って……」
いろいろな事を聞いて、どれも真実でどれも嘘っぱちな気がしてきた。だけど、真実だとして受け入れるしかない。嘘だと疑ったら何百って問題が出てくるから。
「どっちかって言うとウイルスは人狼を作り出す」對崎は嬉しそうに言う。「でも、そのウイルスが狂狼人としての鍵さ。複雑な事だよ。ここは狂狼人を作るにはいい環境かもしれないけど、一番合わない環境だ」
いくつかの条件。殺しに迷う事。そして、人間が持ってはならない感情を持つ。道徳心の境を超越する。それ以外には知らないが、最も重要なのはそれだと思う。ただの殺人鬼のそれとは全く違う感情を持つ事。
私は疑問ばかりで周りの事がだんだん認識できなくなっていくのを感じた。
「うーん、違うな。さあ、問題です」對崎が問いかける。「感染しても人間は人狼になる場合がある。さあ、どうしてでしょう?」
条件を先に満たさなきゃ、感染しても人狼になってしまうかもしれない。だけど、私はポテトに噛まれた時、条件を満たしてはいなかった。先に狂狼病ウイルスに感染しても大丈夫だろう。それにもう答えは對崎が言ってる。
「狂狼人に噛まれた場合のみ」
私は床を見るようにうなだれたまま答えた。いまだに小さくか細い声で。だけど、答えるなんて思ってもいなかったらしく對崎は正解だとも不正解だとも言わずしばらく黙っていた。
私の答えは合ってる。だって、私は動物から噛まれて感染した。それに對崎の質問も「動物に噛まれたか」だ。別に輸血したとかでもいいはずなのに、あえてその言葉にしたのは意味がある。それ以外の安全――もちろん感染した時点で安全だとは言い難いが――な方法はないはず。
何より実践して見せてくれた。對崎は永岡さんを噛んだ。
「少し違うなぁ……。咬む事によって、自分のウイルス相手にうつす」
それは決定的な感染の仕方。空気感染なんてあやふやな方法じゃない。確実で決定的。
「そのウイルスが狂狼人としての鍵さ。複雑な事だよ、人狼はウイルスがすべてだけど、狂狼人はウイルスだけがすべてじゃない。咬めば人狼を作り出し、操れる。思いのままにね。咬まれた人間は、狂狼人の持つ特殊な狂犬病ウイルスに神経を侵され、肉体が強化され、ほとんどの自我を失い、破壊的衝動を抑えられなくなる。唯一、製作者のみが制御出来る」
そのウイルスは身体に悪さをするわけじゃない、精神を殺し、暴走させる。人間が持ってはならない感情を触発するのかもしれない。だけど、狂狼人が理性を持つとすれば、人狼は理性を持たない。人間にとって狂狼人の血はある意味毒。人格を打ち消し、思考を抹殺し、すべてを作り変えてしまう毒。
人狼の大量発生は意図的なものだった。むやみやたらに咬みつくしたという事。でも、バーコウィッツに遇った時、私たちが咬まれなかったのはどうして? 人狼を増やしていたんだから。
「あの犬だ」
バーコウィッツはたったそれだけを答えた。私は對崎の目から逃れるようにバーコウィッツに顔を向けた。今すぐに何もかもを破壊したいのか手が震えていた。對崎みたいな事は苦手なはず。行動で答えを出したがる。
シンディが一体何をしたというのだろう? あいつはシンディを殺して良心が痛んだから、私たちを見過ごしたという事なのだろうか? そんなの絶対ありえない。私は咬まれても人狼にならないはず。だけど、矢坂はなっていたかもしれない。狂狼人が咬まれたって人狼にはならないはず。もしかしたら、咬まれる事が矢坂がポテトに噛まれたか証明する唯一の方法なのかもしれない。
バーコウィッツに訊いた。尋ねかけるように心の中で。口にするにはどうしても抵抗があった。もう会話を聞かれて心を乱されるのは嫌だ。
どうしてシンディが関わってるの?
「あの犬は狂犬病」
あまりの愛想のよさに裏がある気がした。これは嘘。バーコウィッツは吹き出して腹を抱えてる。
「バーコウィッツ」對崎はたしなめるように言い、私の顔を覗き込むようにしゃがんだ。視線がぶつかった。私は目を離せなかった。琥珀色の瞳の奥には狂気が見えたが、とても常識的に見えた。
「狂狼人からの狂犬病ウイルスが入ればの話だけどね」それほど感情は出ていないが、悔しそうに言い足す。
いくら私を操って完全な狂狼人にしたくてもそうは出来ない。私はポテトから感染した、それが唯一の救い。
「狂狼人からの感染とその他からの感染は全く違う」
狂狼人は、狂犬病の無症候性キャリア……そんないいもんじゃない。狂犬……狂狼病の最悪の感染者。
「狂狼人のウイルスは個々で変化している。多種多様にね。だから、人狼を作れる」
琥珀の瞳が不思議なほどに綺麗に輝いていた。
咬む事によって、感染者を増やすのではない、人狼を増やす。
「ただ」私の腕を掴んだ。いつの間にか傷が出来ていて、血が滲んでる。蘇芳色の血もべったりとついていた。
私は腕を引き抜こうとした。手首を引っかかれた時より恐ろしい目で血を見ていたから。もっと酷い事をされるとわかった。對崎は口を開いた。私をちらと見てから、一呼吸おいて言った。
「上書きが出来るんだよ」
上書き――個々の狂狼病ウイルスをうつし、人狼にするという事。直感的にそうわかった。
恐ろしい事が頭に浮かんだ。對崎は私の腕に噛みつき、狂狼病ウイルスを感染させる。それも、對崎が持つものを。そして、私は自我を失った人狼になる。頑なに狂狼人にならないならそうするしかない。
私は左手で刀を探り当て、握るとそのまま振り上げた。自分の右手に振り下ろした瞬間、左腕が弾き戻された。人狼になる前に腕を切り落とすつもりだった。だけど、それすら對崎に止められた。對崎は口を私の腕に近づけていく。呼吸が浅くなる。もう何も抗う方法はない。口が大きく開いて、歯が見えた。妙に鋭く見える。まるで剃刀。いや、私にはギロチンの刃に見えた。
指先がしびれ始め、酸素が脳に行き届かなくなって、思考が悲鳴を上げてる。恐怖の中で一筋の光が輝いた。その光はふわふわと漂っている。それに近づくと足元には血で満たされている落とし穴がある。そう、これは危険な反抗。
咬み返す事が出来る。
私は出し抜けに對崎の腕に咬みついた。ケダモノのように肉をとらえると力の限り顎を閉めた。歯が食い込み、骨の感触がしたがなおも噛み続けた。殺さないと。
やっと離せた時には口の中が血だらけで、肩で息をしていた。まるで水面ギリギリであっぷあっぷ状態のように。錯覚なのか砂糖を口いっぱいに詰めたようなにおいがする。口の端から血が滴り、肉が歯の隙間から滑り落ちた。
私は腕を押しのけ、對崎の顔を見た。その表情は信じられないほど嬉々としていた。震えた。間違った事をした。狂狼人は咬まれたって人狼にはなりはしない。狂狼人になる事を助長してしまった。
對崎の冷たい指が私の頬を撫でる。仲間、友人……それ以上だと言うように。
「ほら、みんなを見て」
對崎の両手が私の顔を包み、捕らわれている咲羅たちの方に向けた。
「怯えてる。君は怪物なんだ」
私には怯えてるかなんてわからなかった。世界がだんだん遠のいていく。目を開いているのに閉じているような感覚。
再び視界が戻った時には床に転がる對崎の腕の肉片が見えた。私がそれを噛み千切ったんだ。私が。
いつの間にか對崎は離れていた。金魚鉢の近くに立っていた。
わかってた。私はいつかこうなるって。痛みを感じる生き物を痛めつけるのに何も感じなくなるどころか、それを楽しいとすら思ってしまう。たとえ、完全な狂狼人にならずとも。
私は死ぬ時が来た。
そう、これ以上、楽しいとは思ってはいけない。抹殺しなくちゃならない。
私は忘れてた。この人たちが狂狼人という以前に、「ブラッディアウト」を起こした者だという事を。
「どうしてこんな事を……?」掠れた声で対象者なしに訊いた。
全員は死なない。私以外、狂狼人以外は生き残る。白日の下に晒してくれる。でも、真相に近づいているのに、まったくそうは思えなかった。
「君を狂狼人にするためだよ」
「違う! そんな事じゃない」
そんなちっぽけな事の理由を聞きたいんじゃない。
「いっせいに人間を……」言葉に出来なかった。「人間を、消した。どうして?」
「どんな形でも殺すのが楽しいんだよ」
初めて聞く声がした。どこか変わった抑揚がある。
「いのちを、命を……軽く見すぎてる」
私が言っていい言葉じゃなかった。だけど、人間性を残している間にはそうありたかった。
「必死で生きている生命を殺すのが楽しい。命の重さを知ってるから殺すのが楽しいんだ。知らなきゃだたの破壊だ。そうだろう、佐野ちゃん?」
いつもとかわらない對崎の顔が憎い。不愉快。癪に障る。腸が煮えくり返る。どの言葉でも表せないほど憎い。
「あなたたち……狂狼人は、たった一種で殺しすぎた。人間が……破壊したところに、さらに、破滅をもたらした……」
息をするのもやっとの状態。自分も憎い。憎たらしい。
「君だって人間を嫌ってるだろう?」
痛いところを貫かれる質問に私は顔をゆがめた。
「人間として……人間を嫌ってるんです」
予想もしていない答えだったのか、狂狼人の誰もそれ以上は言わなかった。
「ブラッディアウト」で死んだ人々は人狼となって私たちに襲いかかってきた。怒りで…………そう、まるで、死にもせず人狼にもならなかった私たちを憎んでるかのように。そして、私たちは殺していた。何も知らずに。「ブラッディアウト」を起こしたのが人狼のまき散らしのためだけだったはずがない。「ブラッディアウト」で殺せば、咬むだけで人狼を増やせる。でも、全人口が人狼になったらどうなるの?
生き残ってるのはどうして? 殺しの対象として残しているのだろうか? 違う。私が死んで咬まれても、今咬まれても人狼にはならない。ウイルスを持つ者だけを残したというのだろうか?
だったら、ここにいる全員が持っている…………わけがない。たまたまだった。選別は完全なものじゃない。
憎かった。その感情に真の対象者はない。この感情を持つ事が、持った事が。この感情を作った何かが、作られるようになった何かが。この感情を背徳だと決めた何かが。誰の所為だとも言わない。だけど、この世のどこかにある“ソレ”が憎かった。
私は刀を持って、立ち上がった。刀を持ち上げる力も残っていないために切っ先が床についていた。
思い浮かんだ唯一の質問はどこか残酷だった。口にするのにはあまりに耐えがたかった。
「私の……」言葉が喉から出ようとしない。「私の他に、そのウイルスを持っている人が、ここにいる?」
生気がまったくなかった。いつも以上に酷い声に聞こえた。
それを持っているだけでは、狂狼人にはならない。狂犬病ウイルスの無症候性キャリアだけ。殺しの道徳を理解出来なくなって、いくつかの過程を得て狂狼人になるはずだから。
だけど、それはあまりに残酷なのかもしれない。次に狂狼人になる者がいるとわかってしまう可能性だってある。
予想だにしない質問に對崎は驚きの表情を浮かべた。
「俺らはそこまで万能じゃない」對崎が答えた。「誰が持っているかなんて感知出来ない。ウイルスを持つ者でも善人は何人かいる。世界に感染者が百人いればいいほうだ。でも、佐野ちゃんみたいに歪なのを探すのはとても簡単だよ」
私を見つけたのはたまたまだ。ウイルスを持つものはいささか歪んで、その片鱗が見えている。
「だから、一斉に殺したんだ」
耳を疑った。あれは選別だった。人類の数をコントロールするなんてもんじゃない。ほしいものを見つけるために、篩にかける。それも殺しの篩にかけられ、引っかかったものは殺される。殺しを楽しみながら……。
あれは選別。狂狼人となる者の? 残った人も狂狼人へとなる要素があるのだろうか? ここにいる誰もそんな要素を持たない。唯一私だけが持っている。
「結果は酷いもんだけど」
少し安心した。全員が全員じゃない。きちんと選別はされていない。だけど、言葉に出来ないぐらい残酷。
「それじゃあ……」待ち遠しかったとでも言うようにバーコウィッツは切り出した。「一人を殺せば、みんな解放しよう。ただし君はどちらにも含まれない」
また耳を疑った。殺しの正当化だ。大量虐殺の正当化。殺しが大量だとしても、救える命がそれより多いか価値のあるものとして判断された場合には、正当化される。
絶望的な状況。六人の狂狼人。閉鎖的空間。人質を捕らわれた。あの時、私が對崎と交渉なんてしなければよかった。こんな事にはならなかったはずだ。だけど、それだったら咲羅が死んでた。どれだけリスクが高かろうが、あの時戦えばよかった。私の身が亡ぶとしても。今の状況よりはよかったはず。いや、よかったなんてない。少し酷いかただ酷いかの違い。
對崎の交渉の一つは私が狂狼人になる事だった。完全な狂狼人に。だけど、今は強制的にそうさせようとしてる。反動がどうたらこうたらなんてもういいはず。無駄に人質をとっている。私に殺させようとしてる。自分が死んだって残された咲羅たちは殺されるに決まってる。どっちに転がってもいい事ではない。
私はいったい誰の斧を振り下ろす事になってしまうのだろうか?
右にハンドルを切るか左にハンドルを切るかの選択を迫られている。右は一人の犠牲、左は多数の犠牲。さあ、どっち?
だけど、答えは出てる。そのための今だから。
「殺さなかったら……?」
そんな事訊くのも嫌だったが、喉から滑り出るように言葉が吐き出されていた。
「全員人狼にしろ」感情がこもっていたとしたら、それは絶望を与えるだけの冷酷さだけ。
「今まで殺したのは何だったか思い出してみろ」
もはや對崎の口調は冷たく、感情が一切なかった。
人間だった命を殺した。私は唇を噛みしめ。じっとしていた。自分でも抑えがたい怒りを込めて、對崎をにらんだ。この人を殺したい。それに値する。殺したってなにもない。彼は心のない小さな怪物だから。
選択肢は二つ。でも、そこに逃げるなんて選択肢はない。逃げれるはずがない。私が誰か一人を殺すか、誰も殺さずに人狼になるのを見ているか、だ。誰か一人なんて決めれるはずがない。人狼になって命が死んでなくても、それは人間の死と同等。ただ、私が殺すか狂狼人が殺すかの違いだけ。
殺してみたいという欲望が生まれてくる。ふつふつと湧き上がり、抑えきれない。脆い紐で爆発物を押さえ込んでるみたいに、今にも暴発しそうだった。私は狂狼人になろうとしている。
人質は全員跪かされた。二人の狂狼人がみんなの後ろに立った。殺す事も人狼にする事も出来るとわざわざ見せ付けるように。
私は死刑執行人で、みんなは罪人のようだった。
最後の一線を超えさせるための方法。私を完全な狂狼人にしてしまうだろう。
長い長い沈黙。肺を持っていかれてしまったかのように私は息が出来ない。誰の眼も見れなかった。私を恨んでる。そして、恐怖を感じてるに違いない。私はいつの間にか斧を振り上げてしまったんだ。
何も認識していない視界の中でチラチラと何かが入ってくる。意識して目の前を見ると、バーコウィッツが愉快そうに手を振っていた。そして、見せ付けるように美穂の細い腕を掴んだ。口を開き、牙をむき出しにした。犬歯がとがって見える。
「やめて!!」思わず叫んでいた。
バーコウィッツが止まった。どうして私が制止を叫んだのか考えるように目で探ってきた。まるで褒美をお預けにされたように残念がった顔が、すぐに次の褒美を与えられたかのようにパッと明るい笑顔になった。
「……あたしを殺して!」
バーコウィッツは咲羅の言葉を予想していたらしい。咲羅を一瞥して隣を通り過ぎ、私のほうに近寄ってきた。
咲羅は気高いから自分ひとりの犠牲でみんなを助ける。だけど、その中に私は含まれない。生き残る最悪の選択はそれしかない。だけど、彼女の意志は尊重できない。咲羅がいない世界で私は生きていけない。たとえそれが、狂狼人になったとしても。
わかってる。死ぬのは一人。斧をそっと置くのは出来ない
私の後ろに回りこみ、バーコウィッツが耳元で囁いた。
「さあ、殺すんだ」
全員を殺したいと思った。殺してみたいと。そう、私は生きるのを赦されない。絶対に。人間として生きるのは赦されない。
私は誰も殺したくない。それは嘘じゃなかった。だけど、殺したいというのも嘘じゃなかった。
だから、私は死ぬ。
脅威となるものすべてを殺して。
ポケットに手を突っ込み、掌の中にそれを隠す。左手をポケットから引き出して、掌にある物を瞼に押し付けて左顔面を手で覆う。皮膚に爪を立てて、血を流しながら頬のあたりまで滑り下ろす。瞼を閉じ、痛みに耐えて一度大きく呼吸する。
我ながらまだ人間味が残っているのだと思うと口元に笑みをたたえられずにはいられなかった。
誰もかれもが驚きで私を見ていた。
自分の血の芳しい事。
私は左手に掴んだ肉片とそこに滴る血を持っていたものと一緒に投げる。
眼球。
違う。眼球に似せたピンポンボール。
刀を左手で逆手に握ると、バーコウィッツの腹に突き立てすぐさま引き抜いた。赤い血が残像のように後を引く。
初めて血が美しいものに見えた。それを欲すればいい。それを欲する心に従えばいい。
バーコウィッツの手が届かないうちに私は床を蹴っていた。右手で柄を握り、左手を添えた。冷たい炎が刀を握る右手から溢れ、刃に纏わりつく。
赤毛の男を斬り倒し、年長の男に力いっぱい拳を叩き込み、腹を切り裂く。ブロンドの男を蹴飛ばし、首の付け根を薙いだ。感触だけを感じ取り、次の標的に眼を向けた。まだ私がバーコウィッツを突き刺した場所を見ていた白い女性を左肩から腹にかけて切り裂く。
背後で獣のような唸り声をあげ、バーコウィッツが立ち上がった。襲い掛かってくるバーコウィッツを刀の峰の部分を手で押して斬り飛ばす。硬い肉に刃が滑り込み、切り裂くのを感じながら、自身の肉体にも同じような痛みがあるのがわかった。指を切り飛ばされ、頬は切り裂かれ、腕は削げ、髪は舞い落ちた。
時間など感じなかった。スピードに時間という概念がないかのように、私は駆け抜けて狂狼人を斬り倒していた。実際は瞬きが出来るか出来ないかの時間だったに違いない。
頭で考える事なく、對崎に突進すると、伸びてくる光る腕をすり抜けた。
我に返った時に見えたのは金魚鉢に背中をつけたままの對崎だった。私の右手が消えていた。ただ、對崎の左胸に突き刺さる刀を見て、私は微笑んだ。自分は今とてつもなく血塗れだろう。頬に濡れた感触がある。これでいい。
狂狼人の私にしか出来ない事。狂狼人を殺し、自分を殺す。同じ硬いものは同じ硬さでやっとつぶれる。
金魚鉢の中の女性は驚愕で、酸素マスクから大量の泡が漏れ、目が最大限に見開かれた。真っ赤な瞳。
金魚鉢に罅が入っていく。中の液体が漏れ出し、對崎の体を濡らす。すると小さな煙が上がってくる。苦痛に歪んだ對崎の表情が消えていく。皮膚が焼け爛れ、筋肉が流れ落ちる。骨だけになって蒸発した。
生ぬるい液体が私の腕にもかかり、膝を濡らした。赤い液体が混じってくる。服の布が皮膚に張り付き、泡だっていく。
金魚鉢の女性は私に手を伸ばした。色素がないような真っ白の手。頬に手が触れると大理石のような硬さを感じた。それに冷たい。
何かが鼻孔をくすぐる。このにおいを知ってる。でも、人間と動物のにおいが混じっている。
柄から伝わる感触が、終わりを告げている。
これで終わる。
狂狼人の死と一緒に。
液体に濡れた身体がジワジワと融けていくのがわかった。
死んだ人は戻らない。
だけど、人間は困難を乗り越えられる。
何年経とうと、何百年経とうと。想定外でも、未曾有でも。
でも、それを経験した事には変わりない。
大多数のために少数が死ぬなんて、嫌だと思ってた。
でも、自分の命の選択権を決められるのが嫌なだけで、自分自身で決めるとなったら嫌じゃない。
大切な人たちのためなら喜んで受け入れる。
自分が死ぬ事も。
死ぬのは怖くない。むしろ清々しい。私は人間として死ねる。
私は十五年と三百六十四日目に死んだ。
終わり。




