十二月二十四日 金曜日 午後六時十分 区別された野獣
グレンはとけるように闇へと消えていった。
寒さが身に凍みてきた。少しでも動かないほうが寒く感じない。ずっとは耐えられないだろうが、少しの間なら寒さを忘れられる。
だけど、私はグレンがくれたコートを着る事にした。血にまみれて、背中がズタズタのコートを脱いで、新しいコートに袖を通した。この世のものとは思えない柔らかな毛皮が裏地に使われている。アルパカの毛より優しく心地いい。保温性にも優れていて、すぐに体温を閉じ込めてくれた。
破けたほうのコートのポケットから新しいほうのコートへとおもちゃの眼球を移し変えると、目的地を見失ってしまった私は刀で指を切った。赤い血がジワリと出てくる。
『血ね……』
まるで海に漂う海藻のようにクネクネ動いて地面を這いながら垣根の中に消えていった。
ザルドに負わされた傷の血は流れていかなかったのに、今の傷は流れていく。やはり何かが違うんだ。
いまだに道路の端でうずくまっているザルドを見下ろした。背中の一定の動きから呼吸をしているのは確かだ。
「心のない小さな怪物」
私は囁いた。
そう決めた。心はどこまで感情も伴っているのかなんてどうだっていい。彼らは人間と敵対する者。見かけが小さな男の子だからって関係ない。そんなのただの見かけだ。内心なんて狂ってる。
だからって、世界がどうなろうと私は知ったこっちゃない。当然の報いだと思っている自分もいるのは確かな事。それは否定できない。
私が殺人鬼の狂狼人と同じ種族だと世界に知られたら、たぶん誰も守ってはくれない。たった一人の私がどういうことであろうと、殺人鬼と同じ分類なら私も同じだと括られる。
そうやって、虐げられる。ただ同じだからという理由で。それは歴史上何度もあった。今度も例外じゃないはず。
だけど、私はこの闘いからは逃げたくない。
恋愛戦争にも受験戦争にも身を投じた事がない、ほとんどの戦いを知らない。戦争だって文面ばかりだ。
そんな私がこの戦いにいる事は真っ赤なペンキが満たされたプールに入って上か下かもわからずにもがき続けてるようなものかもしれない。
いや、この戦いこそ私の性に合ってる。私が私であるために戦っている。
引きこもった時にも孤独を感じなかった。あの時、自ら独りになるのを選んだのは私だ。独りだとわかっていたが、それを寂しいと感じなかった。いや、思わなかった。
それに今も私が選んだ孤独だ。
だけど、今は本当に孤独な気がした。
目の前の敵は、私の心を内側から侵食する孤独を増殖させる言葉を紡いでくる。他人の言葉なのに、それは自問自答のようで私をさらに孤独に寂しくする。
彼らは私の裏の部分だ。殺したいという欲望を解放した自由な人。理性など持ち合わせていない。
だけど、私は人間として生まれて、人間として生きている。道徳を持ち合わせている。それは表。
人間は人間として育てられたから人間になるが、人間でも狼として育てられれば狼になると聞いた事がある。狼やその他の動物に育てられた子供の話は聞いた事も調べた事もある。
動物はすぐに殺そうとはしない。哺乳類は敵を見分ける能力がある。威嚇する。自分の縄張りに入ってこられれば攻撃するが、それ以外は穏便に済ませようとするかのように観察するぐらいだ。
動物に道徳という意味を持つ心があるのか? それは本能だ。本能がすべてを決めている。
危機に陥っても喉笛を噛み切ろうとしない人間より、急所を瞬時に理解する動物のほうが獲物を簡単に殺す。人が道徳を振り切るような危険な状態に陥って、相手を殺さなければならないとしても殺せる可能性は低い。良心や理性がそれをとめてるわけじゃない。人間は牙を忘れている。文明の利器に頼りすぎている。
それらを振り切ったって私は殺したいという欲望を解放した自由な人間にはなれない。もちろん道徳を持ち合わせている人間にも。
道徳に背く行為とは、殺人ではなく殺しを楽しむ事だと思う。
道徳を持っているのが見かけだけだとしたら? 馬鹿みたいだ。道徳だの理性だのどうだっていい。それを持てば、高等か? ううん、違う。背徳は下、道徳は上。ただ、優劣をつけたいだけ。そんなのもとからなかった。
彼らは人間だ。狂狼人と呼ばれ、区別された人間。
血をもう一度流し、氷結しそうな声を聞きながら垣根の向こう側にいける門を越えた。園科、すなわちハイテク園芸科の敷地だ。花が育てられ、畑があり、プレハブまで設置された場所。校舎側にはさまざまな機械が置かれた小さな建物がいくつかある。学校裏の通学路から入れる門のそばには浄水施設のようなものまで設置されている。
浄水施設の反対側にはガラス張りの温室がある。温暖な気候の植物が育てられているのを見た事があった。屋根の一部分のガラスが割れているのが見えた。
さらにもう一度指を切った。血は地面を這う事を忘れ、天候の悪い日の雲のように飛んで行った。それはガラスの温室にならぶいくつかの建物のひとつの扉にぶつかり、隙間を探し出して入り込んだ。
血が入っていった扉の正面に立った。ゴミ置き場に使われそうな小さな建物だが、鋼鉄製の重たそうな扉が入り口をふさいでいる。手入れもされておらず、錆び付き色褪せた扉。正直薄気味悪い。動科の私は特に一度、見学しに来た時見ただけで二度も見た事はなかった。
耳をそばだてて中の音を聞こうとしてみるが、ゴキブリが歩く音すらしない。
扉は、少しでも触れば皮膚がくっつきそうなほど冷えていた。コートの袖を手のひらまで伸ばして、袖越しに鋼鉄の扉を掴んだ。三トントラックを相手にしたほうがマシだと思うほどに重たくまったく動こうとはしない。
私は扉の反対側の壁のほうに回ると、指を切った。血が地面に落ちて、壁の小さな罅の中に消えていった。やっぱり、ここに違いない。
再び扉の前に戻った。内側から鍵がかけられているはずはない。外側に簡単な留め金しかついていない。
試しに蝶番を殴ってみた。二度殴ったところでやめた。中に何かがいたら? 扉を開けた瞬間、それが出てきて私はお陀仏かもしれない。いつもながら馬鹿げているけど、私は本気だ。
でも、殴ったおかげか扉はすんなり開いた。やっぱり重くてゆっくりとだが、さび付いて耳障りな音もなく静かだった。
すぐそこはひとつの明かりもない真っ暗闇だった。ほんの少しの背後の明かりが天井あたりを照らして、段になっているのがわかった。階段だ。
濃い暗闇に続く階段だけがある。風が滑る音と何か聞こえる。気味が悪い。
私は帽子を脱いで、扉の金具に引っ掛け、意を決して階段を降りた。
高校の敷地に地下があいた場所などあるなんて夢にも思わない。メタセコイアの高木だってあって地中の根も深いはずなのに、田んぼがあって水も満たされるはずなのに、地下に空間があるのはどう考えても可笑しい。
どこかの小説で読んだ事がある。長年の復讐だけのための大舞台を街の地下に作った話を。かなり巨大でドーム一個分のように書かれていた。地下鉄も下水道の配水管もまったく無視してだ。それが可能なら、私たちは自分たちの事以外にはよっぽど無関心だという事かもしれない。
どこかで地下水みたいにピチョンピチョンと音がする。少しの音でも大きく響く。
誰もこんなとこ知らないだろう。学校関係者だって知らないはずだ。
何度か階段に生えた苔で何度も滑り落ちそうになった。湿った壁に手をつけて、足が落ちるのをとめた。
かなりの段を下りた気がする。たぶん、五階分ほど。階段をゆっくり下りるごとに後悔が増していく。
何もかも否定したくなる。
私はここにいちゃいけなかった。私は生まれちゃいけなかった。
たとえ、私を探し出すための「ブラッディアウト」じゃなかったとしても、私は生きてちゃいけなかった。
あの時、すべて間違ってた。会うべきじゃなかった對崎に。
やっと薄い光が見えた。足元を照らし、階段の段差ははっきりと見える。その光に向けてさらに足を進めた。最後の階段を下りると開けた場所にいた。
私は広い地下室にある何もかもが目に入らず光を発する水槽をただ凝視していた。その水槽は金魚鉢のように丸く、上にある口は花びら型だ。その口からはいくつものチューブやコードが入り、金魚鉢の美しさがなくなっている。それらの先端は女性の肌や口を覆うマスクにつながっている。一本だけ目を引く真っ赤なチューブがあり、それはマスクを抜けて口の中まで入っていた。女性はまつげのないまぶたを閉じている。時々呼吸をしているのか、マスクからコポコポと空気の泡が出ていた。
それに吸い込まれるように目を奪われ、一、二歩進んでしまう。すぐに何かに躓いた。つんのめってしまうが、前に大きく一歩出て踏ん張る。バランスを保って足元を見た。永岡さんが横たわっていた。
こみ上げそうになる吐き気にとっさに口元に手を当てた。彼女の目は空ろで、首は切られパックリと開き、まるで笑っているように見えた。生前に戦ったのか、服が裂けて腕や足にいくつかの痣や傷があった。
私は心臓が半分に裂かれるような恐怖から後ずさったが、すぐに壁にぶつかった。その少しの衝撃でやっと目を離せて、全体を見る事が出来た。広い地下室全体を見た瞬間、私は凍りつくのと同時に安堵を覚えた。
だだっ広い空間に金魚鉢と永岡さんだけなら私はほとんど驚きもしなかった。だけど、この空間には他にも人がいた。
金魚鉢から少し離れたところに六つの影があった。うち四つは重なった人影だ。咲羅、リサさん、美穂、矢坂、上別府、そして狂狼人たち。
私は壁から背中を離して、全員を順番に見てから、最後に對崎を見た。にっこりと店員のような作った笑顔を貼りつけていた。日記を読むよう書いたのはこの男だ。
「よく来てくれたね」對崎はサービス業でもしているかのように丁寧な口調で言う。「こんなところだけど歓迎するよ」
「おい!」爆発音のような声でバーコウィッツが叫んだ。「約束が違うぞ!」
對崎が手を上げて制止を促すが、今にもバーコウィッツはすべてを破壊しそうだった。
「あの日記を読まなかったって事だね」
約束事を守らなかった子供をしかりつけるような声色だったが、その眼は冷酷だった。小さい子供なら今にも泣いてしまう。私だって、手に握りしめて縋るものがなかったら泣いてしまうところだ。
「ほんの少ししか読んでいません」教員に逆らうような行為に思えた。私には絶対に出来ない事。「父の記憶はないですから」
對崎は息絶えている永岡さんの傍らに跪いた。私は刀を握り締めて、壁の所為で後ろに下がれず三歩ほど横に離れた。かすかに永岡さんの胸が上下に動いた気がした。
「そう。それじゃあ、省こう」對崎はバーコウィッツを振り返った。「リッキー、その私情は交えるな」
對崎は永岡の右手を掴み、左手で手のひらを、右手で手首を握った。カニの腕を割るように、永岡の手を曲げ、手首の血管が浮き出るようにさらした。そこに對崎は噛み付いた。まるで獣のような行為だった。
私は目をつぶろうとしたが、意思に反してまぶたは開いたまま張り付いたように動かない。呼吸が浅くなっていくのがわかった。誰かが叫ぶのが聞こえた気がした。
永岡の手首と對崎の唇の隙間からから血が滴り落ちる。自分の手首の傷からも血が流れている感覚に襲われる。對崎は手に噛み付いたまま、こちらを見た。私はその場から逃げ出したい衝動に駆られたが、ここから動けない。動物的な本能で動けば喰われるとわかっているのか、恐怖ですくみあがっているのか、自分でもわからない。
對崎は口を離した。琥珀色の瞳と唇から滴る血の所為で伝説の吸血鬼のように見えた。
永岡さんの手首からは血がドッとほとばしったが、すぐに静まった。するとそこから白く光る糸のようなものが出てきた。
その糸は彼女の全身を包み込み、何重にも絡み合い、別の姿を形成した。光が収まると体は数倍に膨れていた。縄のような筋肉を纏い、肌からはびっしりと体毛が生えていた。赤茶色の体毛だ。そして、顔の横あたりにあるはずの耳は頭の上で尖り、花は前に突き出ている。鼻面は黒く、唇の間からは乳白色の牙が少し見えていた。
その生き物は徐々に呼吸を始めた。




