十二月二十四日 金曜日 午後五時五十六分 終わらない枝分かれの現実
生死の迷いなんて人間は持ってない。殺しはいけない事だと一括りにしてしまう。食卓の裏には屠殺があるとしらず。食べる事に関しては割り切ってるのかもしれない。
だから、それを突きつけられた時に私は迷ってしまった。
人間には誰しもこんな感情があると思った。抑圧され、封じ込められてるけど、奥の奥にはある。
それが、太古からの本能だとしたら? 野蛮でそれなくしては生きていけない。だけど、文明が発展していき、それは抑圧された。野を駆け回り、探す必要はない。特定の場所に隔離されて管理されているのだから。狩りをする必要はない。いつでも手に入る家畜がいるのだから。そうやって抑圧された。
だけど、狂狼人は太古の本能がそのまま続いていき、抑圧されずに突き出てしまった。それが殺しを欲する事。
「ブラッディアウト」を起こしたのはそういう事からなのだろうか? 殺しを欲したから? 彼らの目的、動機は何なのだろうか? 意識していないとしても、心理的に何かあるはず。
自ら殺す事は選ばなかったのだろうか? 一人ひとり殺してる間に止められる可能性があるから?
何が「ブラッディアウト」を起こしたんだろう。世界に憎しみがあったから? そうは見えなかった。むしろ人間を差別してるようだった。人狼と狂狼人が同じ意思を持ってるなら、彼らは人間を憎悪してる。
だけど、どうして今? もっと前にはどう思ってた? 何をしてた? 今起こそうとした理由は?
理由なんてない。すべての理由は事実じゃない。
對崎たちは「ブラッディアウト」を起こした。紛れもない事実。そして、私の狂狼人を探していた。探すために「ブラッディアウト」を起こしたのだとしたら? 私があんな馬鹿な感情を持ってる所為で、人類は死に絶えたとしたら? 私の価値を表していて、私の残酷さを表している。
そんなわけない。何人かいるんだから、たまたまだ。私は「ブラッディアウト」で死んでいたかもしれない。あの瞬間、こけたりしなかったら死んでいたかもしれない。
それに、私が探されていたなら、對崎がすぐにわかったはず――いや、わからなかったんだ。對崎は私の本性を見抜いていなかった。
だから、「ブラッディアウト」で人口を減らしたのだろうか? あんなので取捨選択が出来るのだろうか? あの「声」は何の意味があるのだろうか? 狂狼人の血があの「声」を聞こえるようにしているとしたら? 永岡さんにそれはないと對崎が断言したんだから、違う。あの「声」が選択したのだろうか? だとしたら、「声」は意思を持ってる。そして、「ブラッディアウト」と連動している。
ある事を思いついた私は刀を鞘からちょっと引き抜くと、刃の部分に指の腹を滑らせた。血がプクゥと出てきて、滲むように広がろうとした瞬間だった。
『血ね。血よ、新鮮だわ』
あの冷え切った「声」が響いて、血はどこかへと流れていこうとする。ぴくぴくと動き、速く這うナメクジのように血は流れて、夜の闇に紛れてしまった。
人狼に負わされた傷から流れた血は何もなかったのに、この傷の血は流されている。何かが集めているのだろうか? 最初の血の波といい、バイクによっての傷の時といい……。
最初の血の波は、高校から北西に向かった。今は南東。向かっている高校方面。血の流れる向きがデタラメじゃないとしたら、一つのポイントに向かってるはず。
百メートルほど進むたびに指を切った。悴んで指先の感覚がないためにちょっと切ったぐらいじゃ痛みはなかった。
すでに高校まで半分の距離に来たはずだ。通学路としているスーパーの横道を進んでいたが、高校から帰ってきた時とほとんど何も変わらなかった。ただ亡骸が消えてるのと、ところどころに血痕があるぐらい。
突然、恐怖が襲ってくる。辺りが暗い所為もあるかもしれない。だけど、血の向かう場所に何があるのか想像も出来なさすぎて怖かった。いつもなら想像しすぎて怖いのに……幽霊に戦死兵に宇宙人などなど。
血が向かうのはたまたま一箇所だとしたら? 血が向かう場所に想像も絶する何かがあったら? 咲羅たちを見つけられないとしたら? 頭の中で最悪の想像をしてしまう。そんな考えを振り落とすように頭を振った。
大丈夫。そんな事にはならない。自分に言い聞かせる。大丈夫。
脚の感覚がほとんどなくなってきたころにやっと高校の隣にある川に架かる橋に着いた。
川はいつものように流れ続けている。真っ暗でほとんどわからないけど。せせらぎと草が風になびくかすかな音が聞こえる。
何色もの色を塗り重ねた真っ黒な夜空には月が出ていなかった。分厚い雲がボウッと月光を滲み出しているだけ。星はところどころにある千切れた雲に隠されている。飛行機の点滅する光を無意識に探していた。普段ならそれが見えて当たり前だった。でも、もうない。
世界や環境といった壮大なものたちに感情があるとしたら、「ブラッディアウト」をどうみているのだろうか? たぶん、私には理解出来ない。私は心臓を持つ生物で、環境はそうじゃない。たぶん、人間がピロリ菌がどう思っているのかわかりえない事と同じぐらいに理解出来ない事だ。
だから、對崎たちの事も理解出来ない。違う種だから、完全には理解しえない。予想や想像、たとえ話は出来ても、根本は理解出来ない。
私は本質が見えてると思った。あの高校生の姿がすべてだと思った。一つや二つ隠している事や秘め事があってもおかしくないのに。對崎慶輔という人物を知らなかった。私が同じ歳になっても對崎のようにはなれないと思っていた。でも、今は違う意味でそう思う。同じ歳になっても、同じ経験をつんでも理解出来そうにない。
根本だけじゃない、すべて理解出来ない。自分の事に関しても。私は自分の事を誰よりもわかっていない。
自分でも行動原理を説明出来ないのが当たり前だ。どうして、唾を分泌する? どうして、1たす1は2だと計算する? どうして、空を見上げてしまう? どうして、呼吸を止められない? どうして、刀を持とうとした? どうして、私は今生きてるんだろ?
私は何も理解しちゃいない。
だからそこ、知りたがりなんだ。そう、いつか……
[…………お前が敵味方見境なく殺すんじゃないかって]
どうして矢坂がああ言ったのかわからない。でも、言うようにいつか私がそうしたくなってしまう時が来るだろう。私には、矢坂が言った事が妥当だと思った。少なくとも境を超えようとしているのを知られたくなかった。だけど、もう知ってる。私が見境なく殺そうとしてるのを。
いつ開花しても可笑しくない状態。
今でも右手に動脈を切った時の感触がよみがえってくる。これがいつか、人の肉を切る感触を知りたいと思ってしまうきっかけになる。私の中の狂狼人が殺しを求め、私自身が人肉を切る感触を知りたいと思った時の合わさった望みに抗う事が出来るだろうか?
ビニールハウスがある道を通り、学校の敷地内へと入った。両側に垣根がある小さな上り坂と下り坂があり、最後の上り坂に差し掛かろうとした時だった。風がうなりを上げて近づいてきた。
風が強く吹いたかと思うと、帽子が飛んでいった。帽子を探そうと振り返った瞬間、後ろ髪を引っ張られ、そのまま倒れてしまった。道路に頭を打ちつけ、手から刀が投げ出され、今まで気づかなかった冷気に意識が朦朧とする。
「お姉ちゃんか」
中学校で会ったうちの一人だ。上別府を人質にした少年だった。西洋系の顔。右の眉だけどうしてか短くて、頭髪のところどころ奇抜な山吹色をしてるのが煤けたような外灯の明かりでもわかった。
背中を足で押さえつけられ、腹部から徐々に体温が消えていく。気を張り詰めていなかったら、ゴロゴロとお腹が鳴りはじめるだろう。
「お姉ちゃんの事は殺すなって言われてるんだ。でも、殺さない程度に傷つけてもいいって事だよね」
かすかな外灯に照らされた表情は狂気染みていた。子供が遊びで小さな虫を嬉々として踏み潰すかのような表情だ。
やっぱり、高校に何かあるのかと思った。でも、たぶん違う。男の子の表情はただ狂気染みた遊びの事だけ。見張りとか何かを任されている様子はない。
「俺はザルド。よろしくね」サーカスを見に行くようなワクワクした子供独特の声で囁く。
ポケットナイフを取り出して、刃を出した。ザルドは逆手に持った。私は両手の指を道路に立てて、予想する痛みに耐えようと準備した。肩甲骨あたりに何か当たって、私は身を強張らせた。尖っていない、丸みを帯びてる。たぶん、柄の部分だ。
「知ってた? 狂狼人はそんな簡単に死なないんだよ」
聞き返そうと思った瞬間、肩甲骨の少し下、胸骨の隙間辺りに痛みが走った。
「っああぁ!」
痛みが消えた瞬間に私は四肢に力を入れて、立ち上がろうとした。だけど、男の子の足一個がとてつもなく重く感じた。象に踏みつけられているかのよう。
「まだまだなんだから我慢してよ。ここでやるなんてもったいない事だよ。だけど、誰にも知られないためにはこれしかないんだ。でも、やっぱりここじゃあいつが来るかもね。すぐに引き上げればいい事だけど」
そう言って、柄の部分でなぞってから刃で切るの繰り返しだった。三分もしないうちに体は凍え始め、痛みが消えた。ただ、危険なはずのドロリとした血の温かさが心地よかった。
ザルドは何かぶつぶつと言いながら、時々悲鳴でも上げさせようとしているのか私の頭を殴って、背中にナイフを深く突き刺した。
血はそれほど流れていなかった。背中にはあふれていたが、垂れているのはほんの数量。コートには少ししみこんでいる程度。道路の傾斜の所為で血は一方にしか流れていかない。
「ジェレミーなんか、常人なら死んでるような事するんだもん」まるで独り言のように言う。「あんな傷、作っちゃうなんて馬鹿みたい。痛みなんて考えたくもないね」
馬鹿馬鹿しいとでも言うような口ぶり。ザルドは息を大きく吸い込んだ。息を吐いた次の瞬間、私の手の甲にナイフが刺さっていた。
「あああ!」
手がかじかんでいたために痛みではなく、不快感があった。ナイフの刃が腱や筋肉や骨を触ってるような感じがした。
すぐにナイフが引き抜かれた。血はゆっくりと吐き出されるように傷口に現れた。
「でも、それだけ、俺たちは耐えれるって事なんだよね…………あー、言っちゃいけないんだった」ザルドは呻いた。
言葉を聞いた途端に私の頭の回路がすばやく回転した。さっきの独り言の中に何があったのだろう? そのジェレミーとか言うやつが致死に相当する事をしているのだろうか。でも、狂狼人は簡単に死なない。体の丈夫さ。違う。治癒力だとしたら……致命傷でも治せるような治癒力だとしたら?
この子なら言いくるめられるかもしれないと思った私は振り返ったが、何かに遮られた。
今までと違って普通すぎる音がして、持ち上げていた頭が小さな手で地面に押さえつけられた。
「いったい何だろう?」
ザルドは振り返ったが私の頭を抑えている手の力は一切緩まなかった。
頭がやっと、どこかでガラスが割れる音がした事を理解する。かなり近い場所の気がする。ガラス張りの温室だろうか。それならすごそこだ。
「そうか……」
一人で納得すると狂気染みた笑顔が戻ってくる。目には焦りの色が見えた。だけど、一瞬でザルドの姿は消えた。何が起きたのかわからなかった。体を道路に押さえつける力が消え、私はすぐに起き上がると状況がある程度飲み込めた。
ザルドは道路の隅にダンゴムシのように丸まっていた。ただ、両手がだらりと無気力に投げ出されている。
誰かがザルドを殴り飛ばし、私を助けてくれた。後者は思い上がりじゃなければだ。
もっとも大切な問題は、その誰かだ。思い当たる節はない。たぶん、知り合いでもない。だとしたら、正義感の強い通りすがりの人だろうか。
ザルドが私を嬲っていた立ち位置に誰かがいた。――背が高い。外灯の明かりは胸あたりまでしか照らせていなかった。私は向かい合ってよく見ようと目を凝らした。分厚い雲から月が顔を出した。月光が私を助けてくれた人の顔を照らし出した。
その顔を見て、私はもう一度道路に叩きつけられる衝撃を味わった。
本当に夢だと思ったほうがいいかもしれない。
「…………グレン……ストーナー……」
チョコレートのような茶色い髪に隠れるような少し彫りの深い目。翡翠色の瞳。少し日に焼けたような色のなめらかな肌。私より十センチほど高い背丈。目の前にいる男こそ、グレン・ストーナーだった。
私の空想の世界の存在で、実在するはずがないのは理解してる。なのに、いったい何が起きているんだろう? 頭がついに可笑しくなったんだろうか。
手の甲の血が流れてるのを確認して、その傷に爪をねじ込んだ。擦りむいた皮膚に砂利を振りかけて強く押したような鈍い痛みが神経から伝わってくる。夢じゃない。念のためもう一度確認することにした。いつものように頬を叩くのはあまりに馬鹿みたいに見えるから、手の甲をつねった。
「俺の名を知ってるのはわかってたよ。君がここに来る事も」と言い、グレンは放り出されたナイフを拾った。「まさか、チビのやつがいるなんて予想外だったけど」
この人は私よりも強いあの感情を持っている。ソラの計画がダメになってから最後に彼を作って、自分と同じような壊れた部分を持たせた。そうする事で自分がそれを受け入れやすくなると思ったから。でも、それは危険じゃなかった。彼の世界ではそれはすべてにおいていけない事だとされなかったから。
すべて頭の中の出来事のはず……だった。「ブラッディアウト」が起きてから、現実にまで出てくるようになってしまった。もしかしたら、この現実が私の頭の中で起きているのかもしれないと思えるほどに。
「一ついい?」興奮と驚愕が入り混じって、声が弾んでいた。「これは私の頭で起こってる事?」
私の頭の中だとしたら、答えはイエスと返ってくるはず。夢の中だとしたら、そろそろ目を覚まさなきゃならない。
「いや、現実だ」私が夢現だと思っているのか、グレンは言葉を一文字一文字はっきり言う。「小難しい話、この世界は現実で現実じゃない」
グレンの言葉を自分が言ったと仮定して考えても、わけがわからなかった。
ちゃんとした声で言葉を返してくるのは夢じゃない証拠だ。私の見る夢は誰も声を出さないのに会話出来てるから。
だけど、言葉は完璧な日本語だ。抑揚もイントネーションも違和感なく日本語だ。それに関しては自分の頭の中で簡単に結論がつく。
「何しに来た?」
どうやって来たかは大体想像がつく。住んでる場所もしくは出発点はほとんど予想出来ないけど。
どう考えてもここにいる意味がわからない。たぶん、一緒に戦ってくれるはずはない。探してくれるのもありえない。咲羅たちがどうなろうとお構いなしだろう。
「用事だって言っても、君は信じないだろうね」
猫なで声を聞き、私は耳をたわしで洗われたかのような悪寒がした。途端にパーソナルスペースに踏み入ろうとしてくる。ゆっくりとだが、明確な目的があるちゃんとした足取りで。私は同じ間隔を保とうと、一歩一歩と後ずさる。
「逃げなくても、君の髪を一本もらえたらいい」
かなり可笑しな発言だろう。でも、こういう人だ。遺伝子実験とかしそうなタイプなのに、自分のDNA情報を渡せるわけがない。
私は落ちていた帽子を広い、髪をまとめて帽子の中に入れてそのまま被った。垣根に刺さっていた刀を取って、私は脅すようにそれを握った。
「私はあんたほど暇じゃない」
「そっか」思い出したように言う。「そうだよね。手を貸そうか?」
グレンの手を借りれたら、相当な助力だろう。だけど、この人はやすやすと手を貸してくれるわけがない。自分の利益になる事がある時だけだ。
もしかしたら、私が半分狂狼人である事を知っているのかもしれない。狂狼人の力を求めてここにいるのだろうか? それとも人間とは違う血が必要なのだろうか?
「私の血は普通?」
突飛な質問にグレンは目を丸くした。自分の可笑しな発言はまともだとでも言うように私を驚きの表情で見てくる。
「俺の血と比べて? それとも普通の人間として?」
そうだった。創作上のグレンも血が普通とは違うんだった。私はうんざりした。それをあえて聞いてくるなんて。
「普通の人間として」
「それはもうわかってるはずだ」
私の血は普通じゃないって事。あいつらと同じ血を持っている。
まだ礼を言っていなかった事に気づいた。意図的であってもなくても、私は助けられた事に変わりない。
「助けてくれて、ありがとう」感謝を述べた。
「いや、それも用事だったから」何気なくつぶやく。
私は刀を持った手をだらりと垂らし、服を整えた。背中の傷が痛むし、外気を感じる。
「喜ぶ人も悲しむ人もいないとするなら、どうしたいかは自分次第だ」
私は呼吸が出来ず、グレンを見た。どこか對崎と似た部分がある。だけど、この人は信用できる人。
「あんただから、出来るんだよ」私は冷たく言い放った。「周囲を気にしないで動くなんて事」
少しの間沈黙していた。少し動くだけで冷気が肌を刺す。背中の傷口からは出血が止まっているようで、手の甲の傷もかさぶたになりかけていた。
私はグレンの目を見た。そこだけペンライトで照らされているかのようにはっきりと色がわかった。緑。森のような、深緑。
「また会える?」私は言った。
昔読んだ子供用の小説のような言葉だったが、次会わなければこの事は全部ただの夢か妄想かにしか分類出来なくなる。
「すぐにな」
グレンは自分の着ていたコートを脱いでこちらに抛ってきた。パールグレイのラインが入った黒いコートだ。私はそれを受け取った。
彼が私と同じ感情を持っているとして創ったのは、あれが誰もが持つもので日常的なものだと信じたかったから。だから、グレンは作られた。
でも、彼は、私の考えたグレンではない。だとしたら、どうして頭の中のグレンが現実とほぼ一緒なのかはわからない。
たとえこの事も含めて私の頭の中だけで起きてる事だとしても、私は一生覚えている。彼は一人の人間でありながら、私の創造物だという事を。
――だけど、再開した時には自分の見ていた現実が氷山の一角だと思い知らされる。




